- Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480102423
感想・レビュー・書評
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武田百合子「富士日記」の絡みで。「もの喰う女」は昭和23年の作とのことだが、当時の社会復興の匂いを愉しみながら読んだ。二人の女をめぐる物語。つげ義春のような、小島信夫のような。
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武田泰淳は初めての作家。
この巻には「女賊の哲学」「もの喰う女」「ひかりごけ」「秋風空雨人を愁殺す」「司馬遷伝」「滅亡について」の6作が収めてある。
「女賊の哲学」は標準的。
「ひかりごけ」はなんだか説教的。いかにもといった結末は、読んでいるこっちがちょっと気恥ずかしい。なんでこれが代表作のひとつなんだろう。
「秋風空雨人を愁殺す」は女性革命家が主人公。頭の悪い革命家には同情できない。タイトルはかっこいいな。
「司馬遷伝」熱と迫力があって良かった。
「滅亡について」は標準的。
「もの喰う女」
これは明らかに傑作。この作品に出会えただけでも、この一冊を読んだ価値があった。
昭和23年の作品。
作品の舞台は、その当時の東京。
房子という若い娘は、喫茶店に勤めているが、ひどく貧しく、サンダルや傘を買ったりする金もない。ブラウスやスカートもいつも同じものを着て働いている。彼女が特別というわけではなく、戦後まもない日本では、そういう暮らしは珍しくなかっただろう。
主人公のほうはけっこう稼ぎがあるようで、彼女にときどき会っては、食事をおごってやったり、散歩したりする。
彼が真剣なのは新聞社勤めの別の女性に対してなのだが、そちらには翻弄されっぱなしなので、つかの間の安息を求めて房子のもとにやってきているのである。彼女の方でも主人公に好意を抱いており、言葉に出して言ったりもするが、彼女の好意というのが主人公の人柄に対するものなのか、贅沢させてくれる、つまりおいしいものを食べさせてくれることに対してなのか、よくわからない。よくわからなくても別にさしつかえなくて、実際のところ、デートにさそって食事をご馳走してくれる男性に対する女性の態度というのは、そういった諸々のものが渾然一体となったものであるのだろう。
主人公は房子に対してそれ以上発展を求める気はないようであり、房子の方でもそのへんはシリアスに考えているふうではない。どちらでもいいような感じである。二人の関係は、飲み友達と恋人の中間あたりといった様子である。
こういうつきあいは、もちろん終戦直後の厳しい経済状況の下だからなりたつというわけではなく、いつでもどこでもありうることだろう。
作品はそういう二人の様子を淡々と描く。
二人で会って食事をして散歩して酒を飲んで、なんの変哲もない。
しかし、そこに浮かび上がってくるのは、まったく別の事柄である。
ここで作者が描こうとしているのは、そして見事に成功しているのは、いい年をした男と若い娘の間のあまり緊張感の感じられない交際ぶりなどではない。
作者がここで目指したのは、理念や思想を喪失したある男のすがたを描き出すことである。そのような人間が現実に生活するときに生じてくる混迷と不安を、女友達とのつきあいを丁寧に描くことによって示そうとしている。そのことは冒頭の数行に明確に提示されているのである。
「よく考えてみると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。つきつめれば、そのほかにこれといった立派な仕事を何一つせずに歳月は移り行きました。…そのような愚かな、時間と神経の消費の歴史が、結局は心もとない私という個体の輪郭を、自分で探りあてる唯一のてがかりなのかもしれません」(P30)
そして、このような宙に浮いた生活ぶりというのは、終戦直後の動乱期だから生じるといったものではなく、いつでもどこにでも起こりうることだろう。
あることを表現しようとする場合、対象物そのものを真っ向から描く場合と、別の事柄を描くことによって、それを指し示そうとする場合がある。ここで作者がとった方法は後者である。ときおり主人公の心理を語ってはいるが、それも事実描写の一環としてであり、房子についてはその内面はいっさい語られていない。
そうやって外形的な行動を描くことによって方向を見失った男の存在を描き出すことに成功しているが、それと同時に、いや、描き出すことに成功したからこそ、ここでの描写はすべて、その先のなにかを指し示しているように思われる。この作品には
「不明瞭な、何かきわめて重要な事実が啓示される直前のような不安」
に満ちている。そうしたなにかを予感している。
ただし、そういう指し示しをそれとして感じるためには、読み手の側に指し示す目的地への予感、少なくともその指示がどちらに向かっているかの感覚がなければならないだろう。そうでなければ恋愛を知らない者にときめきについて語っても無駄なように、海を見たことがない者に潮風を説明することが困難なように、ここで示されていることの気配すら伝えることはできないだろう。
けれどもそれをあえて語れば、ここで予感されているのは、根底的なあるものの喪失、いや喪失というよりも忘却、そしてその忘却に対する自身の密かな自覚であるように思われる。より論理的に語ろうとすれば、喪失を喪失として感じることができるということは、喪失でない状態に対する感覚が前提としてなければならないということである。ペナルティを受けているような漠然とした不安が現在あるということは、そうではない状態に対するなんらかの予見がなければならないのではないかということである。
一言で言うと、それは具体的な人間存在に関するある種の深い感覚にかかわるあるものであって、優れた文学作品には必ず備わっているものである。それ以上のことは私の力では語りようがない。しかしその感覚とそれに関わるなにかがこの作品を傑作たらしめていることは間違いない。 -
「もの喰う女」が読みたくて。
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女賊の哲学 / もの喰う女 / ひかりごけ / 秋風秋雨人を愁殺す / 司馬遷伝 / 滅亡について
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中国文学者でもあった武田泰淳の作品の中から、「もの喰う女」「ひかりごけ」「秋風秋雨人を愁殺す」等を収める。
武田泰淳はアンソロジーに収録されていた「ひかりごけ」を読んでからひたすらその印象が強く、といういうよりその読書の衝撃が強すぎて、『作家』としては一体どういう人なのかさっぱりわからないでいた。
泰淳が新聞に連載していたという『十三妹』も以前読んでみたのだけど、割とさっぱりと娯楽に徹した大衆モノだったせいもあって、「あの『ひかりごけ』を書いた人が・・・?」とますます混乱してしまった。
そこで見つけたのが本書。コンパクトなちくまの全集だから、武田泰淳という『作家』を知るチャンスかも、と思い手に取る。
で、読み終えた感想としては・・・やはり泰淳は、「ひかりごけ」の作家だった、というのが私の印象となった。
生きていくことの泥臭さ、そしてどうしようもないほどのつたなさ。ただ生きていく、それだけのことが、どうしてこんなにも遠く長い道のりなのか・・・そして、どうしてこんなに長い道のりを、一歩一歩、踏みしめて生きていかなくてはいけないのか・・・。
それは生への絶望だとか憎しみだとかでは、決してない。ただ、それだけのこと。それが、今目の前にあって、そしてこれからも続いていくこと。
けれどそれ自体が、時にあまりにも残酷で、あまりにも無惨で、あまりにも哀切に満ちているのである。
その自覚こそが、武田泰淳の泥臭さであり、また現実に対する反骨なのだと私は思う。
正直この全集の大部分のページを占めている「秋風秋雨人を愁殺す」は作品としては駄作だと思うけれど、この全集を読めてよかったです。 -
えーと、この本が出たのが1992年だそうです。今から、18年ぐらい前ですね。
多分、当時、この巻までは買って、「ちくま日本文学全集」を買わなくなっていたんです。
この当時、この全集の企画は、全50巻。あとで、10巻伸びましたが。あと、8巻だったのに、力尽きたのです。
まあでも、十数年後、 全巻そろえたわけですが。
続かなかったのは、経済的な理由もあったと思うけど、きっとこのあたりから、知らない名前が増えてきたためだと思われます。
で、武田泰淳。この人も、知らない。わたしの文学史のなかには、ない名前だ。だいたい、読み方も、わかりませんでした。たけだたいじゅん?えっ、それで、あっているのか?
「秋風秋雨人を愁殺す」以外は、全部おもしろかった。でも、1番長いこの話が、イマイチ。それって、どうよ。 -
武田百合子の旦那。
『ひかりごけ』を読みたかったけれど、『女族の哲学』もいいです。
『もの喰う女』も、おもしろい。で、この「女」が後の武田百合子なんですなー。
『秋風秋雨人を愁殺す』や『司馬遷伝』は途中リタイヤ。中国文学に造詣が深い作者なのだそうですが、漢字が多すぎ(^_^;)