- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560043486
感想・レビュー・書評
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これまでベケットは読めなかったのだけれど、本作は読めた。すごくわかった。本作の語り手は未生の赤ん坊であり、死ぬ直前の老人だ。あるいは動物の意識だ。
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途中でしんどくなったけど後半からまたいっきにのめり込みはじめた。『モロイ』では語ることと語ることでこぼれ落ちてゆくもの、および語る主体への意識を感じたけれど、本作はそれらがいっそう深化して、語ろうとすること、語ること、語ったこと、そうした一瞬一瞬が立ち現れてはそのそばから崩れてゆくようなどうしようもなさ、そうしてそのなかで熱心にもがき続けるさまが滑稽に描かれて、笑えて、愛おしく思えてくるようだった。語りながら語っていることを認識しているから、自分を語らせるなにかはいったいなんなのか、そしてこの語る主体はなんなのか、自分はどこにあるのか、そういった懐疑が語りを加速させる。意識についての有名な命題を真似れば、語りは常になにかについての語りだから、語ることによって語られたものが存在する、存在してしまう、さらには空間と時間も存在させられる、でもそれがいったいなんであるのかわからないからまた語るしかない、そういう連なり、語りがまたあらたな語りを呼び寄せてしまう深淵が、この物語を推し進める。どれだけそれを断ち切りたい、語りたくないと願っても、それは不可能で、というのも語らないことを存在させるためには語らないことを語らなければならないから、もはや意味のない言葉の連続を、やっぱり語り続けるほかなくなってしまうのだ。
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これは原書に惚れ込んでいないとできない訳業であるが、その愛を受け止めきれなかったのが残念な自分の感性が残念。
最初は固定点がある場所から視覚と聴覚、一部の触覚はありそうな語り手だが、途中から言ってることは否定の否定、混乱、混濁、取り留めない意識、喋り続けるためだけの言葉。
言語で読む能力がないことが本当に残念です。 -
三部作の最終巻。
いつどこで誰が、存在しているのか
存在する前なのか死んだ後なのかもわからないまま、
延々とただただ言葉が語られる。
存在するということを語り続ける(書き続ける)ということで、
表したと言ったらいいのだろうか。
今までにない読後感。 -
小説三部作ラスト。ここでは自己の名前を喪失した上に五感も機能しているのか定かじゃない主体が、己の存在を証明するためにと思弁に思弁を重ね続ける。しかし物語ろうにも言葉を語れば語るほど堂々巡りを続け、言葉の位相は合成することによって消失されていく。ベケットにより西洋形而上学の解体は執行され、主体の存在は失効されたのか。つまるところ我思う、されど我見つからず。一人称小説の極北どころか大気圏突破したかの様な本書を読んで残るのは真空の如き何もない、という感覚。なのに読んでいる最中は笑えて、泣けて仕方なかったんです。
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邦題「名づけえぬもの」。ベケットの小説三部作の最後を飾る作品。ベケットといえば、69年のノーベル賞受賞者なわけだけど、この人の特徴というのはやはり何と言っても自分の母国語である英語(彼はアイルランド生まれ)ではなく、第二外国語的なフランス語で作品を書いていたという点。とは言ってもパリの学校で先生をしてたくらいなので、堪能といえば堪能なんだろうけど。でも、それがこの人の作品に違う何かを与えていることは明白で、この繰り返し繰り返し、重ね塗り重ね塗り、反復反復、右往左往右往左往、という、もはやというか最初からこれは小説の範疇をがつーんと飛び越えたところで勝負していて、何も筋はないのだけど、なーんかそのリズムと流れで読んでしまうという。でも最後まで読み続けるのは非常に難しい、ベケット作品は。毎日15ページから20ページ読み進めばいい方。終りもなければ始まりもない。何もないけど、存在だけがある、という不可思議な話の話。(07/10/14)
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最高 無敵