ハドリアヌス帝の回想

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  • Amazon.co.jp ・本 (379ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560092194

作品紹介・あらすじ

旅とギリシア、芸術と美少年を愛したローマ五賢帝の一人ハドリアヌス。命の終焉で語られるその稀有な生涯-。

感想・レビュー・書評

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  • これはなかなか手ごわい、一筋縄ではいかないですね。非常にクールな筆致で文体も変わっています。少し辛抱しながら読み進めていくうちになんだか慣れてきて、そのうちクセのある香り高い紅茶を楽しむような濃厚な時​間が嬉しくなってきます。マドレーヌのかけらを紅茶にひたせば、もっと夢み心地になれるかも(笑)。

    本作はローマ五賢帝の一人、プブリウス・アエリウス・ハドリアヌ​ス(76~138年。在位117~138年)の回想・独白形式の​小説。のちに同じく賢帝と称された若いマルクス・アウレリウス(121~180​年)に宛てて書かれた匂いたつような書簡です♪

    ローマ皇帝といえば、酒池肉林、来る日も来る日も戦争に明け暮れ、はたまたネロのような​圧政のイメージが付きまとってしまう貧弱なわたしの脳内ですが、その実情はなかなか地味な労苦の連続のようです。まずもって頑健でなければ話にならず、寝る間もなく、寸暇を惜しんで仕事に勤しんだ猛烈仕事人。まぁだからこそ賢帝の誉を冠したのでしょうが、当の本人に​とってみれば必ずしも嬉しくなかったかも?

    というのも、次々皇帝​と期待されたマルクス・アウレリウスは、2000年近くたった今でも『自省録​』で有名な才人。華美な生活を嫌い、謙虚でストイックなスト​ア哲学を学んだ繊細な書斎の人で、ひどく宮廷の生活を忌み嫌って​いたようです。だからこそ義理の祖父ハドリアヌスは、寵児マルクス​にこんな手紙を残したのかしらん?(しかも後々のマルクスは愛する子どもたちを次々に失う失意の人なのですよね)な~んてひとり楽しい想像をします。

    愛に破れ、愛しい人を失い、苦しみも悲しみも一身に背負い、いまや病身で生の終焉を迎えようとしている一人の男​ハドリアヌス。彼の内省を吐露したこの手紙をながめれ​ば、おそらくマルクス・アウレリウスならずとも感涙にむせんでしまうはず。人生のはかなさと愛惜、何かをやり遂げる孤高の気高さと希望をもらえることでし​ょう。

    「……常套的な言いまわしが我々をとりこにしてしまう。陳腐な表​現から身を解き放つには精神の大胆さだけでは足らぬのであって、​詩人は皇帝としてのわたしの労苦と同じくらい長いたゆまぬ努力に​よってはじめて慣用句に打ち勝ち、彼の思想を言葉に強制すること​ができる、ということを悟りはじめていた」

    読んでいるうちに、ふと作者ユルスナール(1903~1987年)が時空を超えてハドリアヌスの​魂と交信しているような錯覚を覚えます。ユルスナールはハドリアヌスの口を借りて思索を開陳するかと思えば、一人の詩人にな​って、芸術家としての魂を高みに導こうとします。この幻想的ともいえる時空の交錯が、この作品の隠れた魅力です。

    「私の作品に加筆しながらわたしが修正しているのは自分自身なの​だ」(イェーツ)

    詩人イェーツの言葉を護符にしたユルスナールの思いは、神格化された皇帝でありながら、そのマスクをはずせば、世界という舞台で我が役を終えんとする人間ハドリアヌスの想いを描いたことに語り尽くされているよう。​
    可能な限り作者ユルスナールになることに、そしてユルスナールであ​ることに精一杯、でもそうでなければならない一人の芸術家の孤高の想いが、その行間から伝わってくるからです。

    甘く鮮やか​な色を放つような小説ではありません。どちらかといえば紅​茶のようなやわらかいセピア色の世界が広がっています。生のまぶしさと死の穏やかさの絶え間ない繋がりを、若いマルクス・アウレリアスも感じたかもしれません。
    いや~こんな素敵な手紙をもらってみたいな。
    素晴らしい大​人の読み物です(^^♪

  • 物憂げで静謐なのに叙情的な言葉によって、馥郁と薫りが広がるように綴り語られる、古代ローマ皇帝ハドリアヌスの回想録の形式をとった小説。

    ハドリアヌス(生没:76-138年/在位:117-138年)といえば、古代ローマ帝国の五賢帝の一人で、約20年の在位の大半を、首都ローマで過ごすことなく、現代で言えば北はイギリス、南は北アフリカ、東はパレスチナの向こうまで及んだ広大すぎる領土のあちこちを旅し続けて行政的にも軍事的にも帝国の機能整備を徹底的に行い成し遂げた人。  

    けれど、そんな優れた為政者だった反面、「一貫していないことでは一貫していた」と評されたくらい、とても気難しく複雑で厄介な面をあわせ持っていた人。

    また、男色傾向が少なかったローマ人としては珍しくギリシアの美少年アンティノウスを人目を憚らず寵愛し、ギリシア文化にも強く傾倒した、自身の欲望に忠実な快楽主義者としての顔も持っていた人。

    作者のユルスナールは、そんなハドリアヌス帝の傍目には複雑怪奇で厄介極まりなかった人格とそれゆえに歩んだ稀有な人生を、病により死の床についた老ハドリアヌス帝が憑依したのかと思うほど深く内省的に、本人にとっては一貫していた人生として、機微に溢れる言葉で見事に語り尽くしています。

    皇帝としての理念も、記憶も、個人的な思慕や哀切も、はたまた苛立ちや悔恨も、欲望も虚栄心も身勝手さも、すべてのことが、実際にハドリアヌス帝がそう考えて自らの手で回顧録を綴ったんじゃないかと錯覚しそうになる程です。

    「ここでわたしはだれにも語ったことのないひとつの告白をせねばならぬ。それは、どんな土地にもーー深く愛するアテナイやまたローマにさえもーー自分が全面的に属しているという感情をけっしてもったことがない、ということだ。
    いたるところで異邦人であるわたしは、どんな場所ででも特に孤立しているような感じはしなかった。」  

    本書内でハドリアヌスにそう語らせるユルスナール自身が、旅の中に身を置き、どこにも全面的には帰属しないで一生を終えた人。

    旅ありきの人生を送った皇帝への深い共感が、ユルスナールの深い洞察力を刺激したのかもしれません。

  • 前半はぜんぜん登場人物の名前が覚えられなくて、すべてが平板に感じてしまってたいへん苦戦した。後半、ハドリアヌス帝のいい人がいなくなってからはいいペースで読めた。人生は、まったき状態がありえないことを叩き込まれてからが本番。

    恋愛体質のハド老の語りから始まるのでいくぶん引き気味な姿勢で主人公を見ていたのだが、私生活はともかく公的にはたいへんまっとうなスーパー働きマンであり、その仕事の片付けぶりには爽快感があった。晩節もぜんぜん汚さない。権力者にはかくあってほしいものだ。

  • ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117-138)がマルクス・アウレリウスにあてて,自分の生涯を語る書簡を書くという設定の小説.いろいろなブックガイドで取り上げられているので一度読んでみたかった.

    しかし,なかなか手強い小説.文章もしばしば哲学的で何を言いたいのかよくわからない部分がある.入り込むのになかなか苦労した.また,ある程度背景知識がないと,多くの登場人物(ハドリアヌスと比べればその気配は希薄)がどんどん通り過ぎてしまう.ヨーロッパの知識人のための小説という感じがする.

    それでも作者の皇帝との同化ぶりにはすごみを感じる.皇帝的な思考を完全に身につけているというか...そして,重みのある箴言としてそれがときおり現れる.

    私は彼が自分の設計するパンテオンについて語る言葉のリアルさに驚いた.ローマのパンテオンの空気がふと漂うような描写.

    思えば,パンテオンはもちろん,彼の廟であるサンタンジェロ城にも,ティボリのハドアヌスのヴィラも昔訪ねたことがあるのだった.これらの建築物に対する構想や愛情なども随所に現れる.ちょっと懐かしい思いもした.

  • 映画『グラディエイター』で、リチャード・ハリスが演じていたのがローマの五賢帝時代最後の皇帝で、ストア派の哲学者として知られ、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスその人である。ハドリアヌス帝は彼の祖父にあたる。といっても、ギリシア風の美徳を愛したハドリアヌスに妻はいても子はいなかった。五賢帝の時代にローマが繁栄を続けられたのは、すぐれた人物を養子として後継者に据えるという養子相続制をとっていたせいだが、それというのも彼らの多くが同性愛者で必然的に実子が生まれなかったからだ。歴史の皮肉というものである。

    巻末に附されたユルスナールの覚え書きによれば『ハドリアヌス帝の回想』は、若いうちに想を得ながら、書きかけては破棄し、なかなか完成させることのできなかった作品らしい。重厚でいながら奔放、時に饒舌に走るかと思えば、沈鬱かつ荘重にも響く文体はユルスナールの才能を持ってしても、ある程度の歳を重ねないと難しかったということだろうか。

    文章もさることながら、回想記の形式を採用して一皇帝の半生の出来事を想起する合間に、愛と性、生老病死、食事や狩り、動物についてのモラリスト風の見解、競争相手の心理の洞察やら当時の哲学者や文人たちの哲学や文学についての論究等が開陳されるという論文ともエセーとも、なかなか一口に小説と言ってしまってよいものかどうか迷うような作品なのである。

    「わたし」という一人称視点で書き進むうちに、ユルスナールは自身がハドリアヌスに成りかわり、ローマ帝国が最大の版図を持ち得た時代を生きてみようと思ったのではないだろうか。ヒスパニア(現在のスペイン)出身のハドリアヌスは地中海を囲む各地を遍く旅している。北はブリタニア(英国)、東はメソポタミア、南はエジプトまで、頑健な肉体と軍人らしい質素な食事のおかげで、長年月の視察旅行も苦にならなかったらしい。

    先帝トラヤヌスの覇権主義のせいで、帝国領と境を接する各地で戦闘状態が続いていた。ハドリアヌスはそれらの相手と和平を結び、兵を引いた。長城を築いて防備を専らとし、属領地に権限を委譲し、法整備を進めた。宗教について寛容であろうとしたが、他の宗教と同じ位置に立とうとしないユダヤ教には手を焼きイエルサレムを破壊した。ユダヤ人のディアスポラはここに始まる。

    死が間近に迫った老人が、養子アントニヌスの跡継ぎに指名した後のマルクス・アウレリウスに寄せた帝王学のための回想録という設定である。皇帝になるべき人物相手だから嘘も隠しもないという建前で書かれているところがミソである。その死後悲しみのあまり一つの街まで建設したという美青年アンティノウスをはじめ多くの同性愛の相手についても赤裸々に語られている。また、近くに侍る人物の好き嫌いなど辛辣なまでに評されていたりもする。こういうところは果たしてハドリアヌスなのかユルスナール自身なのか俄に判じ難い。

    ハドリアヌスの一人称視点で描かれているので、皇位を得るために競争相手を暗殺したという噂や、後継者に指名したのが同じく寵を受けたルキウスであったことなど、いかにもハドリアヌスに都合のいい解釈がなされているのは仕方がない。ユルスナールの書架にはハドリアヌスのヴィラに並んでいたであろう本は全巻並んでいたというから、限りなく正確であろうとする作者の意図は尊重するとしても、この作品におけるハドリアヌスはあくまでもユルスナールの創作した人格と承知して読むべきだろう。

    新しい帝国の時代とも呼ばれる現代において、世界帝国を自分の手に治めている人物の人心掌握術、戦争観、他文化、他宗教への寛容など、その器量について学ぶべきところが多い。まさか、今の時代を先読みして書かれたはずもないが、いつ読んでも得るところの多い本というのはあるものだ。現代の古典と呼ぶに相応しい風格ある歴史小説である。最後になるが、多田智満子の名訳がなければ、この格調高い回想録を日本語で読むことはかなわなかった。あらためて訳業を感謝したいと思う。

  • ローマ皇帝のいきざまを多分史実と、心理描写は作者の想像?を織り交ぜながら語られていく。

    文章が美しい。
    詩人でもあったみたい。
    苦悩の人生でいろんなことを考えていたのだなぁ。

    戦いの場面や恋の場面など日常が描かれている。

  • 古代ローマ帝国五賢帝の一人ハドリアヌスが、人生と治世の終焉を迎え、次期後継者のさらに後継者であるマルクス・アウレリウス(『ミステリと言う勿れ』でおなじみ『自省録』を著した哲人皇帝)に宛てて書いた回想録、という態の小説。

    カエサルほどではないけれど賢帝と言われたハドリアヌスの治世については、塩野七生の『ローマ人の物語』で多少予習していた…はずなのに、思い出すのはモンテーニュが『エセー』に書いていた部分ばかり。
    有名な部分をモンテーニュが切り取ったのか、私の記憶力のせいなのか。

    ハドリアヌスは人間存在を評価するのに三つの手段があるという
    1.自己自身の研究
    2.他人を観察すること
    3.書物

    だからなのかな。
    やっぱり寛容なのである。
    ”世の中には二種類以上の知恵があり、いずれも世界には必要なのである。それらが交替し合うのはわるいことではない。”
    子どもがいなかったからかもしれないが、自分は皇帝への野心を持っていた割に、後継者に対してはこだわりがないというか、揺らぎがあるというか…。
    結果賢帝の時代が続いたのだからよかったけれども。

    ハドリアヌスがマルクス・アウレリウスに目を付けたのは、マルクス・アウレリウスがまだ幼少の頃。
    見る目があるにもほどがある。

    面白かったのは、キリスト教の「己れを愛するごとく他人を愛せよ」という教えに対しての考察。
    ”この命令は俗人が心から従うにはあまりに人間の天性に反しており、俗人は自分自身しか決して愛さないであろうし、特に自分自身を愛するわけではない賢者には、この命令はふさわしくないのである。”
    確かに。

    切れ者の皇帝の回想は、波乱万丈の人生を静謐な文章で綴られたもので、叙事詩のような趣も感じられる。
    マルクス・アウレリウスに宛てて書かれているはずだけれど、多分彼の目に、既にマルクス・アウレリウスは写っていなかったのではないか。
    自己弁護や過大評価などない、逆に若くして自死した恋人・アンティノウスについて赤裸々に語っているのは、同性愛に対する感覚が今とは違っていたとしても、あまりにプライバシーにすぎるような気がする。

    一つ気になったのが、「薄肉彫り」という言葉。
    読めば、レリーフの一種であることはわかるのだけど、だとしたら「薄く繊細なレリーフ」とかの表現にしてほしい。
    「薄肉彫り」という言葉が正しいのだけれど、あまりにパワーワードすぎて、一瞬目が留まってしまうので。

  • マルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar)は、フランスの小説家。『ハドリアヌス帝の回想』は1924年に構想されて1951年に発表された。

    日本でいうところのイタコを本作は体現しており,五賢帝の一人ハドリアヌスの口を通して老いと死を語らせる。ここで,心理小説が歴史の軌道に乗り,確かな重みを得た瞬間を見ることになる。

  • 美しいものに出合うと息をのみ、時が止まる瞬間がある。ファウストが人生最高の瞬間、悪魔に魂を委ねてしまうあの禁句を言う。「時よ止まれ君は美しい」と。 まさに美しさと言うのは、文章であれ、映画であれ、絵画であれ、女性であれ、一度眼にすると視線を剃らすことあたわざるもの。 この本の文章は一言一句なおざりに出来ないような、精読を強いるひたむきな美しさに溢れ、読者の凝視に耐えられる類いまれなる強靭さを秘めている。と自分で言ってて何言ってるのかよくわからない、くそ恥ずかしくなるような言葉がこの本を読むと出てくる。この本は誰をも詩人に変えてしまう。

    時は紀元1世紀、ローマ帝国は栄光の時代をむかえ、病を自覚し、みずからの治世と命の終焉がとおからぬことをわきまえた名声を馳せた皇帝の言葉としてかくありなんと語られる。 小説とは言ってもセリフは一切なく全て皇帝の一人言、時系列も定かでない切れ切れの心象風景、のちの皇帝マルクスアントニウス宛の書簡であり、日記であり、遺書でもある。
    この本の特徴は、文章を堪能しているうちにストーリーを忘れ、その意味すら忘れ読み進めてしまう。何を描いているのか、何のシーンなのか理解せずに。翻訳者は朗読しながら文章を作ったかのような響きが美しく、詩的な散文
    例えばこんな文章がある。
    ハドリアヌスの盟友、前の皇帝の皇后プロティナを表現した言葉。

    「女の装いとしてはもっとも簡素な白い衣をまとったその姿。彼女の容姿と物腰はローマの壮麗な建造物よりさらに古いこの王宮にいささかもそぐわぬものではなかった。」

    「彼女はエピクロスの哲学に傾倒していたが、私もその哲学の狭い、しかし清潔な臥床の上に、ときおり思考を憩わせたのだった。」
    「彼女は安易なものへの嫌悪によって純潔であり、天性によるよりは決断によって高邁であった。賢明な不信の念を抱きながらも、友の全てを、その避けがたい過失さえもを、受け入れるにやぶさかではなかった」

    安易なものへの嫌悪によって純潔であり、天性によるよりは決断によって高邁であった。
    あんい けんお てんせい けつだん こうまいが各々同じ語数でリズムを刻む。一読では良く意味はわからない。

    三島由紀夫が言うように内容よりもまさに見て読んで楽しむ美文である。
    一応解釈してみると、プロティナは簡単に手に入れられる物を嫌い、敢えて困難を選ぶような真摯さがあり、安易な者達と一線を画すような純潔があった。それは生まれつてのものではなく、みずからの意志で決断して行い、その姿は高邁そのものであった。

    しかしそんな解釈を言ってみても始まらない。元の文章がすべてを物語っている。その溢れる含蓄故、精読を強いられるということ。

    戦いに明け暮れた勇壮な男の世界観を産み出したのはベルギー人の女性作家マルグリットユルスナール。齢二十歳にしてこの本の着想を得、何度も中断を重ねながら三十年の歳月がこの文章を熟成させた。

    翻訳者も女性。詩人にしてフランス文学者多田智満子。三島由紀夫を驚嘆せしめ、塚本邦雄をして「非の打ち所がない」と絶賛させた文章
    偉大なる2人の文学の女神ミューズたちによって紡ぎだされた果敢にして優美、勇猛にして華麗

    そして悲哀の物語。

  • 面白かったけど、哲学的で難しかったな。昔の人って、普通に男性同士で恋人になったんだね(^-^)

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著者プロフィール

1903年ベルギーのブリュッセルで、フランス貴族の末裔である父とベルギー名門出身の母とのあいだに生まれる。本名マルグリット・ド・クレイヤンクール。生後まもなく母を失い、博識な父の指導のもと、もっぱら個人教授によって深い古典の素養を身につける。1939年、第二次世界大戦を機にアメリカに渡る。51年にフランスで発表した『ハドリアヌス帝の回想』で、内外の批評家の絶賛をうけ国際的な名声を得た。68年、『黒の過程』でフェミナ賞受賞。80年、女性初のアカデミー・フランセーズ会員となる。母・父・私をめぐる自伝的三部作〈世界の迷路〉――『追悼のしおり』(1974)、『北の古文書』(1977)、『何が? 永遠が』(1988)――は、著者のライフワークとなった。主な著書は他に『東方綺譚』(1938)、『三島あるいは空虚のビジョン』(1981)など。87年、アメリカ・メイン州のマウント・デザート島にて死去。

「2017年 『アレクシス あるいは空しい戦いについて/とどめの一撃』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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