関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実 (PHP新書)

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569843711

作品紹介・あらすじ

激戦の末、裏切りで勝敗が決したとされる関ヶ原合戦は虚構だった? 一次史料をもとに最新研究が明らかにした天下分け目の真実とは。

感想・レビュー・書評

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  • 戦国武将というと、命知らずの豪傑で、「男」ではなく「漢」と書いて。
    “戦の国”なんて殺伐とした感じよりは、むしろ、欲望の赴くまま、溌溂と自分の国を広げていく、「戦国ろまぁ~ん」みたいなイメージがあるw

    そんな戦国武将だが、やっぱり生身の人間で。家は絶対大事、自分の立身出世も大事、とはいえ命は惜しい。
    ていうか、日々、上司(天下人?)や同僚(戦国武将?)との付き合いからくるストレスを抱えていて、妬んで意地悪したりもする。
    そういう人たちだったんだなーと、なんだかホッとしたw

    毛利輝元なんて、同僚(?)の徳川家康がやけに威張ってることに、常々ムカついていて。
    やっぱりムカついていたヤツが他にいたもんだから、そいつらと組んで、足を引っ張ったり、追い落とそうといろいろ画策したんだけど。
    でも、寸前になって、やっぱり家康が怖くなって。「ごめ~ん。もうしない。許して」と謝っていたなんてw
    なんだか、すごく親近感が湧いて。毛利輝元が好きになった。

    もっとも、その時、毛利輝元は地元では周りに攻め入ってたりしたのだから。
    それをみれば、自分の領地を増やすという欲のつっぱりこそがメンタリティーで。中央政権での発言力なんて食えないものは、いざとなれば手離すことに躊躇はないということなのだろう。
    そもそも、織田政権が一代で終わり、豊臣政権も相当ガタが来ていたその当時、次の天下人が徳川家康になったとしても、それがずっと続くなんて誰も思っていないだろうしね。
    次が内府殿なら、その次は俺かも?、というのは毛利輝元に限らず、誰しも持っていた思いなんだろうな。

    ていうか、戦国武将という人たちは、合戦というのは命のやり取りだということを、何より知っている人たちだったというのも大きいのだろう。
    戦争をすれば、誰かは必ず死ぬ。それは、もしかしたら自分かもしれないし、有能な家臣かもしれない。
    死なないまでも、負けて領国を奪われて、妻子や一族、家臣一同路頭に迷うことだってある。
    なら、(負けが確実なら)さっさと謝っちゃった方が利口。生きてりゃまた花も咲くよ、みたいな考え方が戦国時代ではむしろ当たり前で。
    義だの忠だの、カッコイイこと言って、“映え”ているのは平和な時代の人間の憧れ(講談や歴史小説・ドラマ)にすぎないということなんだろうなw
    (そう考えると、秀頼や淀君は豊かさを享受しちゃっただけに、現代人に近くて。だからこそ意地で死に赴くことに、“映え”を見出していたのかもしれないなぁー)

    ただ、それだけに石田三成の財産も命も投げうっての家康への反発ぶりというのは、一体何が石田三成をそこまでさせたんだろう?と思ってしまう。
    自分をここまで引き上げてくれた太閤殿下への、ただただ忠義(礼)なのか?
    というよりは、やっぱり自分の才を認めてくれた豊臣政権(秀吉)に対する、一種の感動からなのか?
    (ま、才を認めてくれて厚遇してくれた太閤殿下への感謝の気持ちが、秀吉の子である秀頼への情へと変わっていったってことなのかな?)
    それとも、もしかして、淀君が色仕掛けで抱き込んでいたのか?w
    (実は三成と淀君はエッチしたことがあって。淀君が秀頼はあの時の子供なんだと三成に信じ込ませていたとか?爆)

    自分は石田三成という人をあまり好きではないのだが、でも、そうは言っても、その才覚ととことんやり抜く能力には凄味を感じる。
    とはいえ、(この本を読む限り)三成の反家康的な行動や態度が家康には脅威に映って。結果的に家康の気持ちを豊臣家の滅亡へと追い込んでしまったように思えるかなぁ~。

    つまりは三成って、今でいう“意識高い系”の人で。
    そういう人が同僚(大坂城内)にいて、家康の言動一つ一つに対して、「内府殿は秀頼公をないがしろにしている云々」ぱぁぱぁやかましくってw
    とはいえ、大阪城内では秀頼への忠義は絶対正義だから。みんな、心の中では「そうは言ってもさー」と思っていても言い出しにくくて。
    みんながみんな三成に反論しないもんだから、どんどん同調圧力が高まっていって。
    気がついたら、みんなして関ケ原に追い込まれちゃったみたいな感じなんじゃないのかなぁ~。

    そういえば、ウィキペディアの本多正信のところを見ると、正信は家康に「三成が大名を糾合して関ヶ原という無用の戦を起こしたからこそ、大名たちは徳川家に服すことになった」と答えたとあるが(一時文献レベルのことかは知らないw)、当時ですら、傍から見るとそう見えたってことなんだろう。
    そういう意味では石田三成という人は才があって、誠もある。でも、その才ゆえに他人の意見が聞けない。
    だから視野がどんどん狭くなっていって。文官であるはずなのに、戦に突っ走ってっちゃった。
    そんな感じなのかなぁ~。

    しかし、この三成といい、淀君といい。
    もし、豊臣政権に「一番じゃなきゃ駄目なんですか。二番じゃなぜ駄目なんですか」なんてツッコんでくれる人がにいたらw、秀頼も淀君も、三成をはじめとする豊臣家の家臣たちも、田舎大名とその家臣として安穏に暮らせてたろうになぁー。
    三成なんかはその才覚を生かし、藩を豊かにして。
    上杉鷹山とともにケネディ大統領から賞賛されてた…、なんてことだってあったかしれない!?w

    ていうか、石田三成に限らず、西軍についた人たちというのは、なんで西軍についたのだろう?と思う。
    たんなる意地というのはわかる。
    あと、「太閤殿下の恩顧」というのも、まあわかる。
    わかるけど、でも、秀吉という人はとんでもない暴君だったと思うのだ。
    西軍についた人たちというのは、それを間近で見ていた人が多いわけだし。また、太閤殿下から直接的にストレスを受けたことだってあると思うのだ。
    (上杉景勝なんて、秀吉から昔からの越後から会津に国替えを命じられた恨みとかはなかったんだろうか?)
    家康方とされる三成襲撃事件の七将なんか見てると、三成への反感はさりながら、(そこに秀頼がどう関わるかはともかく)家康による武士社会という、新しい体制に魅力を感じていたような気がするのだ。
    そして、その新しい体制への魅力というものの裏には、暴君だった太閤殿下への反発というのがあったように思えてならないだけどなぁ~。

    とはいえ、太閤殿下がパワハラ暴君だっただけに。
    秀吉が最晩年になっての「秀頼をよろしくね。お前だけが頼りなんだから」という、ちょっとウルウルしちゃうギャップに、つい情をほだされてしまったというのはあるのかなぁ~。
    もしくは、西軍についた人たちというのは、戦にしろ、政治(行政)にしろプロだっただけに、間近で見ていた秀吉の手腕にプロとしての尊敬があって。
    秀吉(とその後継)こそ絶対みたいなのがあったのか?
    というか、単純に現に今ある豊臣政権は絶対なもので、これからもずっと続くものと信じていたということなのかなぁ~。
    まー、太閤殿下が死んじゃったら、内府殿の台頭はまのがれないんだろうけど、でも、そうは言っても、毎日毎日豊臣政権での仕事で忙しい。
    これからのことを考えたら、内府殿への挨拶もしなきゃなんないんだけど、とりあえず今日は残業で疲れたし。それは来週になったらやればいいか?と、ついつい先延ばしにしていて。
    気がついた時には、西軍の一員として家康に対峙しなきゃならなくなっていた…、というのもあったのかもしれないなぁ~w

    そんな風に考えると、自分あたりが豊臣政権で働いていたら、秀吉が生きていた頃は「あのクソバカ太閤殿下め!」と、日々ストレスをためて生活して。
    秀吉が死んだら、「あ~、せいせいした(爆)」と思ったのもつかの間、慶長の役の後始末あたりの仕事に毎日追われて。
    「秀頼公は将来性なさそうだし。内府殿のところに就職口ないかなぁ~」なんて思っていた矢先、関ケ原で嫌々戦わされて死んじゃった…、なんて人生だったのかな?なんて思った(爆)

    なんて、著者に怒られそうなくらい、資料どころか、全て想像で書いた感想で申し訳ないのだが(^^ゞ
    ていうかさー。
    著者も、著者なりの「関ケ原の合戦」の様子をちゃんと描いてもよかったんじゃないのかなぁ~(前に読んだ『戦国誕生』はあんなに面白かったんだから)。
    正直言って、一つの出来事に対して、通説と資料に基づく説を紹介していくというこの本の書き方(「小山評定」なら「小山評定」の通説と資料による反論や異論を紹介する)だと、で、それは結局どうだったの?みたいな感じになっちゃって。
    読み終わってみれば、肝心の関ケ原の合戦自体はどうだったの?みたいな(爆)

    ま、「関ケ原の合戦」だけに、通説レベルではわかっているからついていけたけど。
    でも、もし「関ケ原の合戦」の概略を知らない人が読んだら(そんな人はいない?w)、全然わけがわからないだろうし(だって、全編にわたって通説の否定と肯定だw)。
    何より、読んでいて面白くないんじゃないのかなぁ~と思う。

    今さら、戦国ロマンな関ケ原の合戦を読んでも、バカバカしいだけなのは確かだ。
    でも、だからって、ここまで文献、文献で書かれてもなぁ~と思ってしまうのも確かだと思う。
    だって、文献と言ったところで、所詮は第三者の伝聞の書置きでしかないわけだ。第三者が書いたものがどんなにいい加減かっていうのは、それこそ今のネット社会を見れば…、ねぇw
    それこそ、極端な話、明日、どこか旧家の屋根裏から出てきた文献の内容で、全てが変わってしまうということだってないとは言えないわけだ。
    そんなこと言っていると、「なら戦国ロマンな通説を楽しめばいいじゃん」と著者に怒られてしまいそうなんだけどさーw
    とはいえ、各自が埋もれた文献を発掘して「真実はこうだ!」と張り合っている学者の世界って、なんだか太閤殿下亡き後の武将たちみたい!?と思ってしまったのも事実かな?(^^ゞ

  • 関ケ原の合戦を一次資料から丹念に分析した一冊。

    これまでの通説と違うところもあったが、とても勉強になった。

  • 一次資料に基づいて関ヶ原合戦の実態と通説との違いを描き出す。今でも多数の論点があり、新たな説が提示されている点がフォローされていて興味深い。

  • 関ヶ原がなかったら上杉を屈服させることは出来たろうけど、秀頼を押しのけて家康が天下を取ることが出来たかは分からなかったろうな。
    家康にとって西軍の決起は危機ではあったけど最大の好機でもあったんだよな。
    関ヶ原の合戦自体は定説のようにあってほしいけどあっさり終わったんだろうな。西軍贔屓としては立花宗茂が間に合っていたらな、と思う。いつも思うけど黒田長政の立ち回りは腹立たしい。

  • 時代の節目が楽しい
    アフター本能寺
    アフター秀吉死去
    今まで決めつけていたゴールは、別の物語ではスタートになるんだな
    さて、本書の毛利輝元が1598年五大老になったとき、石田三成達四奉行と勢力を作ったにしても、一番巨大だった家康にはかなわない、また前田利家・宇喜多秀家・浅野長政グループも勢力があったらしい。
    家康がマウントを取るキッカケは家康暗殺計画
    前田グループ脱落
    家康は勢力強化を目指し、上杉上洛催促からの成り行きで討伐を仕掛ける
    その動きを迂闊と見たのか、次は自分たちの番だと見たのか、輝元(主役は石田)は、討伐に出かけた家康討伐の軍を起こしたのが、関ヶ原の戦いにつながる
    今の政治と同じ、同調したり対立したり、相手の失策につっけ込んだりすることで、豊臣政権内でのポジションUP目的のイザコザである(戦国時代の後だから戦争含む)
    なのに
    どうした輝元
    お前が集めたのに、土壇場で家康と(コッソリ)和睦なんて、応仁の乱よりも訳が分からない!

  • 小早川や毛利は、関ヶ原合戦の前日には東軍入りし、合戦時には大勢が決しており、大河ドラマで取り上げられるような美談は、後日の創作がほとんどであることが分かった。

  • 毛利の没落は安国寺恵瓊のせい、上杉の没落は直江兼続のせい、というのは、死人に口なし、絶家したものはかばうものもない、という構図は納得がいくが、その他の、いわゆる「小山評定」の劇的シーンや関ヶ原合戦で西軍が長いこと奮戦したがついには破れるまでの劇的なシーンはなぜ生み出されたか?というのも興味が湧く。

  • 歴史は勝者(の側)によって作られる。今や定説となっている(いつしか定説となってしまった)事柄を、今一度一次資料を丹念に検証すべき時が来ている。それを丹念に行うことで、この困難な時代を乗り越えるヒントが隠されている気がする。

    AIでくずし字が読める時代になってきたし!

  • 関ヶ原合戦の定説を史料を精査して検証。秀吉死後から関ヶ原合戦までの体制や、直江状への疑義や兼続への責任転嫁、小山評定への疑義、毛利家の動き、大谷吉継の考え、田辺城攻め、先陣は井伊直政が事前に福島から譲らせていた、小早川秀秋は開戦から西軍と戦っていた、メッケルの西軍勝利発言はフィクションであること、などなど。

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著者プロフィール

(株)歴史と文化の研究所代表取締役。専門は日本中近世史。
『豊臣五奉行と家康 関ケ原合戦をめぐる権力闘争』(柏書房、二〇二二年)、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、二〇二一年)、『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、二〇二一年)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房、二〇二〇年)。

「2022年 『江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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