現代語訳 渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として (平凡社新書)

著者 :
制作 : 守屋 淳  守屋 淳 
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582856286

作品紹介・あらすじ

倒幕をもくろんで志士となるも、慶喜に仕えることとなり、幕府に出仕して渡仏するも、維新により帰国。新政府で官僚となるが、実業を志して野に下って-。数々の逆境を乗り越えて、四七〇あまりの会社を創り、社会事業を実践していった渋沢栄一。その波乱に満ちた生涯は、自らの言葉により語られていた。「論語と算盤」を体現した生涯を、現代語訳と新編集で読む。

感想・レビュー・書評

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  • 2024年から新一万円札の顔に決まり、2021年大河ドラマの主人公(主演は吉沢亮)である渋沢栄一。その大河ドラマは、渋沢栄一の自伝が元になっているというので読んでみた。
    こちらの本は自伝「雨夜譚(あまよがたり)」「青淵回顧録(※せいえん は渋沢栄一の号)」を元に、他の自伝や関連資料や他の人の証言集を組み合わせて幼少期から晩年までの人生を再構築させたという構成となっている。
    幕末に生まれてまさに激動の時代を生き、攘夷を唱える⇒一橋家・将軍家の家臣⇒明治政府の役人⇒民間起業家・福祉家という柔軟性と、しかしダメなものはダメという強い信条も感じられる。
    自伝が元なので、語り口からは本人の資質が感じられる。おそらくこの激動の時代をつねに時代最先端で登用されたのは、渋沢栄一が常に先を考えて準備をして問題があれば解決を探るという論理的思考が直接良い結果をもたらせたので評価されたこと、そしてユーモラスさ、冒険好き、柔軟性と人当たりの良さとそして案外血の気の多さなどが人としても可愛がられたり慕われたりしたのだろう。

    【青年期】
    生まれは武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島。私は埼玉県出身なんだが、以前から深谷駅には「渋沢栄一生誕の地」の看板が出ていた。お札に決まったり大河ドラマ化されて観光客増えたかなあ)。豪農の長男だった。このころ岡部藩は年貢だの御用金だのを取り立てるだけ取り立て、能力のない代官が威張り、百姓というだけでバカにされて…という制度にうんざりしたという。
    若い頃は攘夷倒幕の志を持ち、過激なテロを画策したことも(このあたりは大河ドラマで描かれているとおり)ある。
    志のために家を出ようとした栄一へのお父上の言葉が立派だった。「どんな志をもちどこに行こうとも、道理を踏み間違えず仁人義士(じんじんぎし 広い愛を持ち、人の道を守った人間)であれば、生死や幸不幸に関わらず満足だ」
    こういって跡継ぎ息子を金をもたせて送り出したのだから立派な人だ。
    しかし栄一たちのテロは直前で取りやめとなった。しかし故郷にいては捕縛されるかもしれないので、親戚の渋沢喜作と一緒に京都に逃げることにした。この喜作とは「ともに死のう」と誓いあった仲ということで、このあと色々あっても生涯交流しつづけたようだ。
    このあたりも大河ドラマ通りなんだが、自伝によると「幕政を覆すという自分たちの将来につなげるために、塾や道場で名高い人材と交流し、父からもらったお金もあったから、まあ至極面白く遊んでいたんですよ」みたいな生活だったらしい。捕縛されそうじゃなかったのか、剛毅な人たちだ 笑

    【試みに一橋家へ士官したら、そのまま将軍直参になっちゃった】
    故郷で企てたテロ行為が幕府にバレたっぽくちょっとまずいかなってところで、かねてより交流のあった一橋慶喜(大河ドラマでは草彅剛)の側近である広岡円四郎(大河ドラマでは堤真一)より、一橋家に仕えないか、と言ってもらった。
    ここで栄一と喜作は「その前に自分たちの考えを聞いていただきたい」とお願いし、広岡円四郎は「前例がないけど…遠乗りの機会に顔を見てもらえ」と言ってもらった。
    大河ドラマ冒頭は、この慶喜と栄一初めての出会いで始まっている見せ場でもある。
    ただしこの渋沢栄一の自伝では「これには自分も大いに困り果てた。なぜかというと、自分の身体はその頃から肥満しており、とくに背も低いから、走り続けることはきわめて大変であった/それでもなんとか十町(約1キロ)を一生懸命ひた走りに走ってお供した」ということ。
    そりゃー大河ドラマがイケメンすぎるんだよね。豪農の生まれで京都に逃げても大金持ってたから面白おかしくすごしてたんだから肥満にもなるよね 笑

    その後一橋家の自由闊達な雰囲気の職場環境のなかで、御三卿のため固定の藩も石高も持たない一橋家の経済安定や直轄の兵士集めに尽力していった。
    慶喜が将軍になったら自分たちも将軍直参に。普通は喜ぶだろうが自分と喜作は、どうせ徳川幕府はもう持たない。それなら若い人(田安亀之助とか?)に将軍になってもらって慶喜は実務に専念したほうが良いだろう、慶喜が将軍になってしまったら今までのように直接会って自分たちの意見をお話して取り入れてもらうこともできないと嘆く。
    なお後年渋沢栄一が慶喜に伺ったところによると「慶喜公が将軍職を継がれるにあたっては、すでに一新一族を犠牲にして大政奉還を行う決意をされていた、というご真意を伺って、私自身の浅慮を恥じ入った」ということ。
    徳川慶喜の評価はまさに毀誉褒貶であり本人は隠遁後は沈黙を保っている。そんななかで「わたし直接慶喜公から聞きました!」という証言があるのは貴重ですね。

    【フランス留学時代】
    さて、そんな栄一に突然下った命令が「パリで行われる万国博覧会に、慶喜の弟の徳川昭武が将軍名代として参加するので、その共としてフランスに行け」というもの。
    このフランス行きは密命として、幕府の軍事力増強のためにフランス政府との間に600万ドルの借款契約をしてくるようにという司令があった。
    なお徳川昭武は水戸藩なので水戸からも随行員もいるんだが攘夷だ!とか言って新しいものを取り入れる気がないということで、慶喜自らの命令らしい。
    水戸藩って、桜田門外の変、坂下門外の変、天狗党に関する略奪だの一族皆殺しだのその報復だの、過激すぎる行動しかないというか慶喜も実家でありながら極力避けていたような気がするんだが、フランス随行に対しても頼りにできなかったんですね。この四面楚歌の時代に実家が頼りにできない慶喜も大変だ。

    渋沢栄一が実に柔軟な思考だなあと思うのが、青年期は攘夷だといっていたのが、いざフランスに行くと食事やミルクコーヒー(豆を炒って砂糖と牛乳を入れた飲み物)を胸がすっとすると楽しみ、空き時間はフランス語の家庭教師を雇い、バレエ鑑賞や病院制度や国債制度に関心し、身分に関わらず実力があれば平等という、良いものを素直に良いと見てそれを自分たちにどのように活かせるかと考えて実現させる力がある。
    それにしても「1ヶ月位家庭教師に習ったらフランスでも買い物くらいは片言でできるようになった」っていかなりすごいのでは?!英語を習っても全く習得できていない私にはその語学習得力が素晴らしいわ。
    さらに仕事は期待以上にやってのけた様子。なにしろ限られた財政をできるかぎり節約して余剰金は現地の世話役に相談した上で公債を買って利益を出しました、というのだから素晴らしい。

    しかし栄一がフランスに行っている間に、大政奉還があり、明治政府が樹立し、徳川慶喜は駿河で隠遁し…。凄い激烈の時代。
    この激動にも対応は冷静だった。いま昭武公が日本に帰ってもなにもできない、それならこのままフランスで研鑽を積んでから帰ったほうが日本の役に立てるだろう、として、情報収集のための帰国者、このまま残るための金銭の算段とそれぞれの役割分担を行っていったという。
    結局は水戸藩主徳川慶篤(慶喜の兄)の死去により昭武が水戸藩を継ぐことになりやっぱり帰国することになってしまった。
    この帰国に関しても、公債を買って出た利益で、自分たちフランス留学組の運賃と、イギリスに留学して帰りの旅代がなくて困ってた人たちの運賃も出したという。
    渋沢栄一と喜作が故郷を出てから10年足らず。ええー、まさに激動、よく生き延びた…。

    帰国してみたら日本は変わり、親戚や知人で亡くなった人はいるし、まだ戦っている人はいるしという状況。自分は恩義ある慶喜に会いに行ってそのまま静岡で農業または商売をやって静かに暮らそうとする。
    しかしこのときに「フランス留学のうち、水戸の分はこちらです。余り金はこちらです」とちゃんと決済を出したものだから、水戸昭武からは「兄上(慶喜)の様子を聞いたらすぐに水戸に来てほしい」、静岡藩からは「このまま静岡藩に勤めろ」とスカウト。
    このスカウトに栄一は「おれは奉職金が欲しくて静岡に来たわけじゃねーーーー」と怒るんだが、慶喜の意向があったらしい。「渋沢栄一は水戸に行ったら昭武が側に置きたがるだろうが、あの水戸の藩士たちはきっと渋沢の邪魔をするだろう。だからこのまま静岡にいなさい」
    うーん、慶喜はわざわざ会いに来た昔の部下を追い返して「貴人に情なし」とか言われていたが、情は深い人ですね。

    【明治政府 大蔵省時代】
    そんな渋沢栄一に明治政府からもスカウトが来た。
    最初は断ろうとした栄一に、大蔵省の大隈重信が「幕府を倒して王政復古したが、これからは新しい日本を作らなければいけない、だから新政府参与は八百万の神々の国造りのようなものだ。君は賢才の一人として登用された、八百万の一柱である。ぜひともこの大きな仕事のために骨を折ってもらいたい」と説得したのだという。これは凄いことを言いますね。そしてこれじゃ断れませんね。
    このあと日本における造幣、戸籍、出納など制度の元を作り、大蔵省と各省との駆け引きはなかなか興味深い。
    そして渋沢栄一が語る明治維新の元勲たちの姿も興味深いです。
     西郷隆盛とは一橋家家臣時代からの豚鍋を突きあう仲だったんだが、その彼が廃藩置県前に「まだ戦争が足りないようにごわすね」と言ったらその場が凍りついた。
     大久保利通とは馬が合わなかったが、実に底知れず”道具”にはならない人だった。
     木戸孝允は細やかな心遣いをする人。
     大隈重信は、他人の言葉よ聞くより自分の言葉を聞かせようとする人で、なにかを申し上げに言ったつもりでも聞かされて帰ってきてしまう。渋沢栄一と大隈重信はこの後も付き合いが続くためかその後フォローもしています 笑
     伊藤博文は、全然違っても「常に自分が一番偉い!」というふうに持って行きたがる人なんだそうだ。たしかに若い頃は徴収の使いっぱしり的な扱いで、自分の上の人たちが次々暗殺されたり病死して残った人で、どことなく可愛らしさというか未熟さも感じられますもんね。しかしのちに民間に下って事業で苦労した渋沢栄一が伊藤博文に陳情に行ったところ「君の言うことは、自分を褒めるために人を貶していて、それはおかしい。君はいまや実業界の重鎮なんだからそんなんじゃ困る」と忠告され、栄一は大いに反省したという。やっぱり只者ではなかったということ。
     井上馨とは大蔵省でともに仕事をしたがとにかく悲観主義者。このあと渋沢栄一と井上馨はともに大蔵省を辞職することになる。
     江藤新平は有能さでは傑出していたのに、強引で自分の意見を押し通すためには他人と争い人の欠点をさがすという残忍さがあったためあのような結果になってしまった(佐賀の乱で、この明治の時代に斬首晒し首…)。
     三条実美はあっちへふらふらこっちへふらふら、身分は高いが知識がなく性格も弱いのでいろいろな省の間にはさまって苦労しまくった人だという。うーん、地位は高いが無能だって自分でも自覚しているって辛いだろうなあ。。。。
     なお、渋沢栄一は島津久光のことは「島津三郎」と語っている。久光とは気が合わなかった西郷隆盛が「地五郎(田舎もん)の三郎」呼ばわりして久光を激怒させているし、慶喜も久光を散々バカにして(薩摩にやり返されるところがイマイチ甘いところだが)いるけど、やっぱり藩主ではなく先代藩主の弟で今の藩主の国父でしかない久光は、田舎もんがゴリ押ししてくる扱いだったんだろうか。
     そして徳川慶喜のことは、将軍を受けたことや、大政奉還後の薩長との戦い方には不満もあったようだが全体的には「人格が高く敬慕に耐えない」などとべた褒め。徳川慶喜の葬儀では委員長を務め、75歳で経済界からも完全引退して手掛けたのは「徳川慶喜公伝」であり、今日に伝わる徳川慶喜の良い面というのは渋沢栄一の証言が大きいのではないだろうか。

    【民間での実業家、福祉家】
    そして民間人になってからは、銀行を作り、株式取引所を作り、保険制度を作り…、まあとにかく近代日本を作った人ですね。ちょっと面白かったのは、この保険にかんして「危険なことをするなと言いつつ、危険を保証する保険制度なんて変だろう」と反対されたということ。この考えって他にもあるような気がする。たしかフォード社?も「車にシートベルトを付けたら、車は危険だといっているようなもんだからそんなものをつけるな」と言われたんだとか、現在でも「未成年に性教育をするのは性行為を推奨するから教えるな」だとか、リスクに対する防備をすることを極度に嫌がる風潮てなんだかありますよね。

    またイギリス人事業家と面談した時に言われた苦情「日本人は他人に対しての約束を甚だ守らない。売れそうな注文品はすぐに引き取るけど、売れなさそうになった注文品はなかなか引き取らない、これでは信用できない。いやそもそも日本人は信用というものを重んじていない。さらに税金逃れのために送り状を二枚出せとか言ってくる。このままではこれ以上日本人とは取引できない」といわれたということ。
    うわあ、なんか…日本ってメンツや信頼をすごく重視するように思っていたんだが…、これは面目ない…。

    そして福祉。
    東京に溢れる貧民に対して政府は無策、どころか邪魔・無駄扱い。
    そこで渋沢栄一が音頭を取って、生活困窮者救済事業である養育院を民間で設立した。
    これは別の歴史検証番組で「渋沢栄一自らがでっかい鞄を持って実業家たちを訪ねて回った。『あれではそれなりの金額を渡さざるを得ない』とぼやいていた」とやっていた 笑

    この他、教育、医療、海外との交流や取引など、まさに関わった事業が幅広すぎる。
    この本は自伝が元になっているので、それを語る渋沢栄一の目線の広さやユーモラスさ、そして時々見せる血の気の多さ。まさによく生き延びた、ということはきっとこの時代に不慮の死を遂げてしまった素晴らしい人材もたくさんあったんだろうとも思う。
    渋沢栄一の言葉で「実業界であれ、政治の世界であれ、もっとも困難なのは人材を得ることにある」という。
    まさに日本を作った人がそのまま語る激動の時代と、その時代の人々がどのように生きたのか、どのような日本にしたかったのか。
    あらためて近代日本の基本を見られたようだった。

  • 論語と算盤を読む前に、渋沢公がどのような波乱万丈な来歴を経た人物なのかを知る為に拝読。
    意思は堅いが、時代の風向きを読んで水のように立場を変え、運を味方につけるのが(もちろん数え切れない辛い不運もあったことであろうが…)うまい人だったのかもしれない。
    幕末~明治がいかに政治・社会の激動激変の時代だったかが伝わってくる。

  • すごい人。もっと深く知りたくなった。

    資産あっての事業、事業あっての労働あると同時に、
    労働あっての事業、事業あっての資本である。
    賃金を与えるものが貴いと言うのなら、労働を与えるのもまた貴い。
    いやそのいずれも与えるのではい。資本と労働との持ち寄りに他ならない。
    さらに適切に言えば、資本家と労働者との人格的共働がすなわち産業である。

    木戸孝允のこと
    一人登用をしようとした人物がいた。その人物の評価を聞きに、当時特に役職も高くない渋沢の家を訪れた。
    人を引き上げるということの重要性。

    大久保利通のこと
    何を考えているかさっぱりわからなかった。気味が悪くて、渋沢は嫌いだった。

  • 論語と算盤、すなわち道徳心を持って経済活動を行うことを体現してきた渋沢栄一。尊敬する偉人の1人。これでも相当抑えたのだろうが、少し自慢話みたいな語り口が残念。それでも、自分の目で見て、自分の頭で考えて、当時の日本と社会に必要だと確信したことを、実行してきたその生き方はかっこいい。

  • 朝倉さんの書籍、「論語と算盤と私」を読了後に関連書として手に取った。渋沢栄一名前はよく聞くが詳しくは知らなかったが、なるほど日本ビジネスマンの開祖とも言うべき人物だった。幕臣、官僚として苦労しながらも、実業界に転じてからは成功の連続。自伝ということもあってか、成功の秘訣はわからないが、本書によれば正しいことを主張することをはばからず、通じなければ職を辞すのは我が身と重なり気分がいい。
     「算盤と論語」というサブタイトルはあまり本書の趣旨と重ならないが、道義と倫理には優れた人であったのだろう。自伝なので裏もあるのだろうが

  • 渋沢栄一が晩年に語ったのだろうと思うのだが、特にその背景にある自分の考えを説明する箇所は、きっとそうなんだろうなと納得できる。
    自分が70,80になった時に大学時代の出来事について、当時の自分の行動した理由やだれが何を言ったのかまで、正確に覚えて伝えられるかと思うと、やはり尋常ならざる秀才であり、日本実業界の父として、称えられるだけのことはあると納得した。
    渋沢栄一の本は他にも多数出版されているので、読んでみたいと思う。

    気になった言葉。
    資産あっての事業、事業あっての労働あると同時に、
    労働あっての事業、事業あっての資本である。
    賃金を与えるものが貴いと言うのなら、労働を与えるのもまた貴い。
    いやそのいずれも与えるのではい。資本と労働との持ち寄りに他ならない。
    さらに適切に言えば、資本家と労働者との人格的共働がすなわち産業である。

  • 渋沢栄一と言えば、日本実業界の父ということで、現代に残る多くの企業の設立に関わってきた人です。
    そんな人の生き方に、現代の行き詰る企業へのヒントがあるのでは?と思って読みました。

    …が、超行き当たりばったりの人生でビックリ!!

    倒幕派のはずだったのにお金がなくて一橋に仕え、やる気なくなったところに水戸藩のご子息のお供でフランスに行く話が出て、その間に幕府は瓦解、色々考えながらも結果的には人に誘われて新政府に入る。

    これが、「キャリアは偶然性を大事に」ってことか~

    実業界に出てからのエピソードが薄めだったのがちょっと残念。

  •  本多静六先生の本に、ちらっと明治の実業家の渋沢栄一氏がでていたので、ちょうどてごろの本だと思って買ってきた。

     農家の出から始まって、一橋家に仕え、いやいや幕臣になってしまい、そののち大蔵省の役人をとびだして実業家になったという、波瀾万丈というか、いいかげんな人生を淡々と話している。

     能力もあったのだろうが、よく、出世したものだとおもう。どういう能力が優れていたのか、リスクをとってどんどん先にいくという点ぐらいしか、能力として光る部分がない。

     しかし、今の日本社会にはそれがいちばんかけているのかもしれない。

    おもしろかったのは、明治の偉人への評価

    (1)伊藤公は、何事においても「常に自分がいちばん偉い者である」ということになっていたかった人である。(p194)

    (2)井上馨(侯)は、世間によくしられている通り、とても悲観的な傾向のある御仁で、すべての物事を悲観するとともに、他人の過失を性急に責めるような気質を帯びていられた。(p214)

    (3)大久保利光侯は、私が嫌いだった人で、私もひどく大久保侯から嫌われた。(p206)

     なんだか、明治の元勲も、当時の仲間からみると、普通に悪口をいわれていたのがわかる。

     なお、最後に、渋沢栄一氏自体が、王子製紙の会長を引きづりおろされるエピソード、だれも栄一氏にさかられなくなって考えなくなってしまったことをも載っていて、考えさせられる。

     まず、部下にできるだけ権限を譲って責任をもって考えさせることが大事だと痛感する。

  • 明治幕末。いつも注目されるのは坂本竜馬や志士たちの戦いですが、日本を発展させる為経済面からあらゆる手だてを打った澁澤栄一の生き方が眩しい。

    500を超える会社の起業に携わり、日本で興した事業には ・銀行 ・保険 ・肥料 ・製紙 ・砂糖 ・証券取引所 などがあり、企業では ・帝国ホテル ・京阪電鉄 ・東洋紡 ・キリンビール ・東京ガス 等がある。

    本書は大きく3部で構成されている。
    ①志士活動から幕府重役へ
    ②海外での視察活動
    ③明治後の事業家

    澁澤栄一の自伝を抜粋して現代語訳されている。
    明治政府樹立後の重鎮達とのやりとりも面白い。

  • ■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
    【書籍】
    https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1000943821

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著者プロフィール

渋沢栄一:1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の豪農に生まれる。幕末はのちの将軍・徳川慶喜に仕え、家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められる。 27歳のとき、慶喜の実弟・昭武に随行し、パリの万国博覧会を見学するほか、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることとなった。帰国後は「商法会所」を静岡に設立。その後、明治政府に招かれ、のちの大蔵省の一員として国づくりに深くかかわる。1873(明治6)年に大蔵省を辞した後は一民間経済人として活動。第一国立銀行の総監役(後に頭取)として、同行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れた。また、「論語と算盤」として知られる「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業にかかわった。さらに、約600の教育機関・社会公共事業の支援や民間外交に尽力。実業家のなかでは最高位となる子爵を授爵する。1931(昭和6)年11月11日、多くの人々に惜しまれながら、91歳の生涯を閉じた。

「2024年 『渋沢栄一 運命を切り拓く言葉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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