新書884新版 死を想う (平凡社新書 884)

  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582858846

感想・レビュー・書評

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  • 此処にひとりのほとけさまがいる。
    もはや、詩人伊藤比呂美を聞き手にした石牟礼版「歎異抄」。
    人は何故生き、何故死ぬのか。

    ‥‥次の世というのは、あるんだと思いますよ。「次の世は良か所に、行かれませ」って言いますよ。亡くなったあとに、体を清めてあげるときに。
    ‥‥人間というのはね、「願う」存在だと思いますね。(略)逆に言えば、人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。
    ‥‥(この世に生まれた意味は?と聞かれて)役割とも違いますね。役割を自分は見つけたとしても、その役割を果たすのは至難の業で、ただ、なんか「縁」がある。
    ‥‥(死とは何かを聞かれ)(賢治の詩にあるように空に微塵に散らばるというイメージという、更には)散らばるというよりか、私はどっかの葦の葉っぱかなんかに、ちょっと腰掛けていたいような気がする(笑)。
    ‥‥(死んで行くのは浄土だとしても怖くないですか?と聞かれ)怖くない。(←即答)
    ←ビックリしたのは、7歳の頃、19歳のころ、何度か自殺を図っている。結局、91歳迄生きた。
    ‥‥(生きていることの苦しさとは何か?と問われ)自分は半端人間だと思うのですよ。(略)半端な人間ですよ。私だけでなくて、生命、特に人間は、生きていくことが世の中に合わないというか。(略)人間が、私だけじゃなくて、無理しないと生きていけないんじゃないかと。
    ‥‥(好きな「梁塵秘抄」を問われて)「儚きこの世を過ごすとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん」(240)。(略)私が若い頃ノイローゼになって死にたくなったのは「万の仏に疎まれて」ということだった。
    ‥‥「暁静かに寝覚めして、思へば涙ぞ抑へ敢ぬへぬ、儚くこの世を過ごしては、何時かは浄土へ参るべき」(←石牟礼解釈 と、私が解釈 寒い夜に覚めて、辛い世の中に涙してこの世を過ごしても、いつか浄土へ参らせて頂ける)非常に普遍的ですね。普通の庶民の女の人が、こういう歌をつくったと想う。だから共感できるし、共感する。


    無宗教の石牟礼道子さんが、人生で受け取った生と死の想いが、素晴らしい聴き手を迎えて縦横に語られてゆく。浄土真宗とも違う。法華経の賢治とも違う。浄土宗からかなり離れたはずの後白河法皇編纂の「梁塵秘抄」の世界とも違う、まるで、弥生時代からの古代の宗教意識のような石牟礼道子さんの死生観が、語られた。もちろん、これを読んだからといって、私たちが石牟礼道子さんの心境になれるわけではない、と想う。石牟礼道子さんの膨大な著作を読んだ後に少しわかる世界だ、と思う。いや、ごめん。私たちは既にわかっているのだ。それを言葉にできないだけなのだ。

    道子さんの著作は、今のところ一冊めから挫折している。私は4年前、日本文学全集所収の「椿の海の記」を読み出して、まるきり読み進めることができなくなった。気に入らないのでもなくて、難しいのでもない。その反対で、とても素晴らしく、やさしい小説なのだけど、1ページ読むだけで、もう直ぐに腹イッパイになるのである。一行一行に描かれていることがあまりにも豊潤で美しく、発見がある。1ページも読むと、自分のキャパがすぐにイッパイになる。そういうことが、もう1年ほど続いて、そのあと紐解くのが怖くなった。今回対談形式ということで、やっと普通に読めた。これで石牟礼道子さんの「呪い」は解けるだろうか?

  • 冒頭「伊藤 石牟礼さん、今日はお体の具合、いかがですか。やはり動くのはきついですか?」
    末尾「引き止めるつもりはさらさらないけど、もう会えないという事実に、ただ涙がとまらないのである。」

    昨年『苦海浄土』を読んで衝撃を受けた石牟礼道子さんと、詩人の伊藤比呂美さんの対談。二人の価値観が似通っていて、盛り上がっているのがよくわかる。
    全体を通して「死」がテーマ。戦争に水俣病、両親や祖父母の死、そして石牟礼さん自身に迫っている死。伊藤さんもご両親の介護をしながら死を見つめている。

    『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』が何回も出てくる。
    二人のお気に入りの歌。
    「儚き此の世を過すとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん」
    二人とも自分が万の仏に疎まれたという感覚があったそうな。石牟礼さんは子供の時にノイローゼになって川に身投げしたというエピソードも。
    「暁静かに寝覚めして、思へば涙ぞ抑へ敢へぬ、儚く此の世を過ぐしては、何時かは浄土へ参るべき」
    自分の一生は儚かった。この先も儚いであろう。だけども、自分も仏様になるのか、仏様がお迎えに来てくださるのかわからないけれど、この現世の悲しみもいつかは終わるんだ。そして終わった先には浄土があるんだ。救いの道はある。

    『苦海浄土』を読んだとき、宮沢賢治と同じでシャーマンのような人なんだろうなと思ったけど、本書の中でお二人ともが石牟礼さんと賢治の類似性を語っていて「やっぱり!」と思った。
    本書の最後に、伊藤さんが石牟礼さんのことを「生きてる人と死んだ人の間を生きてたような人だった。」と評している。確かに、本書を読むと、生と死を軽やかに結び、行き来している感じ。しかも子供のころからそういう感覚だったらしい。

    病院で働いていると、どうしても人の死に接することがある。今の世の中、死を遠ざけようとする考え方が広まっているけれど、一人一人がもうちょっと向き合うべきだと思う。自分も折に触れて考えていきたい。

  • 石牟礼道子さん、読まなきゃ読まなきゃと思っているのに、まだ読んだことがない。まず「苦海浄土」だけでも読まないと。
    「梁塵秘抄」も通して読んでみたい。

  • 石牟礼さんを「詩的代理母のような人」として慕う伊藤さんは、彼女を「生きてる人と死んだ人の間を生きてたような人」と表現していました。石牟礼さんは幼い頃からずっと自殺願望を抱え続け、1度ならず実行したこともあるそうです。そのようなぎりぎりの境界線で紡ぎ出された作品に興味がわきました。

    親子ほど年の離れたお二人ですが、言葉の端々から互いを尊敬しているのが伝わります。魂の交流、と呼びたくなるような。
    読者の私も、その場の清らかで和やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでなんだか心が浄化されたような気がしました。

  • この本と出合う機会は2度あったはずなのに取り逃していた。 石牟礼道子を知ったのはたぶん 「100分で名著」。その後、「苦界浄土」を読む。石牟礼道子の本を全部読みたいと思う。文庫になっていないものもあり、古本で探したりしている。しかしまだまだほとんど読めていない。新版が出たときどうして手にしなかったのか。もう一度入手しようとしたときには品切れだったか手に入らなかった。今回、伊藤比呂美がテレビでお経を唱えているのを見て、「いつか死ぬ それまで生きる」を購入。その際、本書も見つけて購入。タイトルを意識してちゃんと読んでいなかったのか、どうして死の話ばかりなのかと最初は思った。伊藤が石牟礼に次々と質問を寄せる。かなり年上で、たぶんもう体も弱った石牟礼が気の毒になるくらい。幼いころの殺人現場の記憶。これなどは、もう本当に思い出させるのがかわいそう。相当ショックな出来事だったのだろう。血の記憶がありありとよみがえる。伊藤はおそらくこのあたりから仏教を勉強しだしたのだろうか。まだ、ご両親も健在だったようだ。親に対する思いと詩の母ともういう存在の石牟礼に対する思い。実母を受け入れていく様。読みごたえがある。石牟礼が代用教員だった頃の思い出も良い。いじめっ子に対する優しい視線。プロであってもなかなかそんな風に思ってあげられない。本書を読んで、石牟礼との出会いがもっと前であったことに気づく。「のろとさにわ」 伊藤と上野千鶴子との対談。これを僕は読んでいた。その最後に、石牟礼が書いていたとのこと。その出会いを生かせなかったのが残念でならない。今のように簡単にネットでどういう人物かを知ることはできなかったからなあ。本書を読む中で、梅原先生が何度も言っていた「草木国土悉皆成仏」ということばが何度も頭をよぎった。

  • 詩人石牟礼道子さんと、伊藤比呂美さんの詩を見つめた対談。

    もうお歳の石牟礼さんがなんだか可愛らしく、伊藤さんがリードして話が進む。

    P48お年寄りも「この世に用があって生きている」
    石牟礼さんの人に対する尊敬の念は母からの教え。教えと言っても、行動で示されたものを、受け取って身体の中に備えたもの。

    良か所〜お浄土

    P76それは人間は必ず一度は死ぬから、死にどきというのがあるでしょうから。本人が不本意と思うならそうですけれど、本当になんでも一生懸命な人で、一途というか、嘘がないというか、直情怪行な人でもあったし。
    じゃあ、お父様は「死ぬ」ということに関して不足はない、不満はないと。
    父は、不満あるかもしれないけれど、覚悟の深い、それはなんて言うか
    見事な人でしたから。

    P88死んだ人を見たとき〜
    「南無阿弥陀なんまいだぶ」
    お経じゃない、念仏

    ふつうの言葉にならないとき「南無阿弥陀」

    P95お名残惜しゅうございます
    逝く人の言葉

  •  死についての対話、先日、曽野綾子と石原慎太郎の対話の本を読み、ほぼ対話になっていなかったことを覚えています。本書は石牟礼道子さんと伊藤比呂美さんの対話の形ですが、伊藤さんが聞き役といった感じです。「死を想う」、2018.7発行。石牟礼さんの言葉は、しみじみとした心に響く優しさ、そして重さがあります。「浜辺の歌」と「椰子の実」がお好きとか。3年前からパーキンソン病、起きるためにベッドの脇の柵を握る、ペンを握る、箸を握る、それぞれの握力の違いを吐露されてます。また、この病は、食品か環境からくるのではと。

  • まえがきを読んだだけで、もうなんだか、石牟礼道子さんの世界に取り込まれてしまった。梁塵秘抄、読んでみたい。

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著者プロフィール

1927年、熊本県天草郡(現天草市)生まれ。
1969年、『苦海浄土―わが水俣病』(講談社)の刊行により注目される。
1973年、季刊誌「暗河」を渡辺京二、松浦豊敏らと創刊。マグサイサイ賞受賞。
1993年、『十六夜橋』(径書房)で紫式部賞受賞。
1996年、第一回水俣・東京展で、緒方正人が回航した打瀬船日月丸を舞台とした「出魂儀」が感動を呼んだ。
2001年、朝日賞受賞。2003年、『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』(石風社)で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2014年、『石牟礼道子全集』全十七巻・別巻一(藤原書店)が完結。2018年二月、死去。

「2023年 『新装版 ヤポネシアの海辺から』 で使われていた紹介文から引用しています。」

石牟礼道子の作品

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