世界文化遺産から読み解く世界史

著者 :
  • 扶桑社
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  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784594069285

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  • 高いものを仰ぐことによって非日常的なものを感じ、それが精神的な安定感や豊かさを与える。例:平地にピラミッド。山の代わり。

  • 399

    田中英道
    昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、同美術史学科卒業。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。現在、東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍するかたわら、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また、日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会(平成24年設立)の創設に尽力、代表を務める。著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』 (いずれも育鵬社)ほか多数。

    田中英道さん美術史科卒業してて、美術的な視点から日本文化とか世界の美術に関する事を書いてくれてるから一番読みたかったタイプの本見つけた。美術が好きで世界の美術見に行くのが好きなんだけど、やっぱり日本の美術を超えるものは無いと思ってる。


    二〇一三年、富士山が世界文化遺産に登録されました。また、富士山に先んじてシチリアにあるエトナ山も世界自然遺産に登録されています。エトナ山は富士山と同じ活火山ですが、山の形の比較でいえば、ニュージーランドの トンガリロ国立公園 にあるナウルホエ山(標高二千二百九十一メートル)が富士山よりは低いものの、実によく似ています。また、ここには二千七百九十七メートルのルアペフ山と千九百七十八メートルのトンガリロ山という活火山があり、これらを含めたトンガリロ国立公園として世界遺産(複合遺産)に登録されています。

    エトナ山でもキリマンジャロでも山が世界遺産に登録される場合、だいたいが自然遺産です。自然の美しさが評価されているのです。ところが、トンガリロ国立公園は文化と自然の複合遺産になっています。その理由は、トンガリロ山一帯がポリネシアから渡ってきた先住民マオリ族の文化と信仰の中心地だったからです。

    トンガリロ山には、マオリ族の神官や族長も埋葬されていました。ところが、イギリスの侵略によってニュージーランドが植民地になると、入植者がトンガリロ周辺を牧場として開拓し、聖地を侵していきました。これを危惧したマオリ族の首長ツキノ四世は、一八八七年、聖地を守るためにこの地域の永久保護を条件としてイギリス政府に譲渡しました。その結果、一八九四年にニュージーランドでは初めて、世界でも二番目の国立公園に指定されたのです。このマオリの人々の聖地としての文化的な価値が認められて、トンガリロ国立公園は一九九三年に複合遺産として登録されました。

    エジプトのピラミッドは、その典型といえるでしょう。ナイル川の低地に高いピラミッドをつくることによって、人々の天を仰ぐ気持ち、天に近づきたい気持ちを体現しているのです。その創造のエネルギーの大きさは、ピラミッドの規模に如実に反映されています。  これは宗教の区別を越えたすべてのモニュメントに共通するものです。ボロブドゥールやアンコールも山をイメージしています。中央に 須弥山 に見立てた高みをつくり、そこに仏教なりヒンドゥー教なりの聖地を見ているのです。あるいは近代になっても、パリのエッフェル塔にそういう欲求が見られます。パリの人たちがエッフェル塔を眺めるのは、江戸から富士山を望むという感覚に近いように思います。

    ピラミッドはある意味で人間の文化遺産の常に原点となっています。その二等辺三角形の見事な造形が、人間は食べること、寝ること、そして生産することといった物質的なことにしか関わっていないというマルクス主義的な考え方や唯物論的な考え方を根底から否定しているという意味で、文化的創造物といっていいと思われるからです。二十世紀の歴史家たちはこれを墓とばかり考えましたが、現在ではそうではないであろうと考えられています。いったい何のためにつくられたのか、いまだにわかっていません。しかし、ピラミッドを解釈し理解することほど人間を理解する上で重要なきっかけを与えるものはないのです。

    日本が木の文化であるのに対して、ピラミッドが石の文化であるということです。すでに述べたように、日本は自然の山があるために人工の山をつくる必要はなかったのですが、エジプトの人たちは山がなかったために、高い精神的な存在としての山をつくり、人々の天に向かう気持ちを代弁させ、体現したといえます。このピラミッドの石の文化と日本の木の文化の違いを私たちは強く認識しなくてはいけません。

    日本はユネスコが始めていた世界文化遺産の運動に二十年以上も参加していませんでした。その原因の一つは、日本の木の文化をユネスコが理解できなかったからだろうと思います。木というものは壊れやすいし、記念建造物として長く持つというものではないため、文化としてあたかもチープなものであるという偏見があったような気がします。

    しかし、一九九四年に 奈良 で開かれた世界文化遺産の会議で、木の文化も立派な文化建造物であると認識されたのです。日本は九二年から参加していましたが、最初に世界文化遺産に認められたのが 法隆寺 であり、 姫路城 でした。これは両方とも木造建築物です(一部は石でつくられていますが、基本的には木でつくられているといっていいでしょう)。

    むしろ木のほうが人々にとっては近づきやすく、そして住みやすいのです。基本的に木は呼吸していますから、二酸化炭素を吸って酸素を出すという、人間と完全に逆の呼吸形態を持っています。人間にとってこれほど快いものはないわけです。住む上でもこれほど人間に調和するものはありません。

    これはパルテノンの神殿を見ればわかりますが、上の 破風 などは木でつくった破風をそのまま石で踏襲しています。ゴシック建築というのも、高い樹林の森を模倣するかのごとき建築になるのです。このように木というものは、彼らにとっても重要なモチーフだったということがわかります。これは私が日本人だから強弁しているわけではなくて、事実です。

    しかし、私たちは戦後、石でつくることが素晴らしい 堅牢 な文化で、木でつくることは貧弱な文化というふうな観念を持ってしまいました。西洋風な壁のある建築をつくり続けました。ようやくこの二十年くらいで日本人の意識が変わり、現代の日本の文化を重要視し始めましたが、それが本来の文化であり、創造物の基本であるということを私たちはもう一度見直さなければいけません。木で補修することそのものが木の文化の継続性を保証しているわけですから、木の文化とは自然と人間の調和を考える上で非常に重要なものなのです。

    このような傑作をつくる天才の存在こそが文化をつくり出す一つの大きな要素になることを忘れてはいけません。ですから、世界文化遺産を見に行ったときは、優れた才能の持ち主がいたということを考える必要があるのです。

    パルテノン神殿がつくられた前五世紀頃、アテネにはプラトンが現れました。少し後にはアリストテレスも現れます。同じ時代、インドには釈迦が現れ、中国には孔子や孟子が現れています。この顔ぶれからもわかるように、いまに続く文化の原点が、ほとんどこの時代の思想家によって表現されていたのです。

    古代の遺跡を古い時代の文化として見るかもしれません。それが現代と全く関係のない文化であるかのごとく考えるかもしれません。しかし、それは間違っています。古い時代にも素晴らしい個性がいて、私たちが理解できる文化、いや、私たちよりはるかに原理的な思想というものを持っていたのです。

     私は以前、『法隆寺とパルテノン』という本を出したことがあります。パルテノン神殿は法隆寺と似ていると思うのです。法隆寺の 五重塔 も黄金分割になっています。つまり、建築に美を求めているのです。私はフェイディアスという一人の天才の手によってパルテノン彫刻がつくられたといいましたが、法隆寺の建築にも一人の彫刻の天才が関わっています。

    私はローマに一年留学してローマ大学に通っていました。そのときの私の課題は、できる限りローマの全貌を研究するということでしたが、最終的にはミケランジェロの研究をテーマにしました。ミケランジェロが見たに違いないローマを、もう一度見てみたいという願望を持ったのです。それはヨーロッパが誕生してからのローマばかりではなく、古代ローマといわれる時代のローマの文化です。

    その背景には信仰というものの存在もあったはずです。日本では神道が確立しており、神道は自然というものを重要視していました。それは古墳の形にも表れています。古墳は山というものをつくるという自然信仰がそこに内包されています。例えば前方後円墳の円の部分には 柩 が置かれます。その部分に山をつくっているわけです。そこに自然信仰と御霊信仰の両方の典型を見ることができます。このように信仰が文化をつくり上げているのです。それはパンテオンやカステル・サンタンジェロを見ても感じる共通性です。

    このアクロポリスの役割は法隆寺のあり方とよく似ていると感じます。時代的には法隆寺のほうがあとで、もちろん仏教という全く違う宗教の建物ではありますが、法隆寺の五重塔も黄金分割になっていて、そこに美を求めていることがわかります。また、法隆寺の美しさは建築様式の違う金堂と五重塔を並列させてつくったところに由来するともいえるのですが、その全体のプロポーションはアクロポリスと同じように調和がとれています。

     最初に、インド(現ネパール)で誕生した仏教から始めましょう。仏教の開祖は、ご存じのように釈迦です。紀元前六世紀から紀元前五世紀にかけて、インドとネパールの国境沿いのカビラバストゥ地方を支配していたシャーキャ族の王妃マーヤー夫人が、白い象が胎内に入る夢を見て懐妊し、生まれてきたのが釈迦であるとされています。その釈迦生誕の町が、 ルンビニ です。一八九六年にアショカ王の石柱が出土したということで、釈迦生誕の地であることがわかったのです。  仏教の聖地でありながら、大寺院や大仏があるわけではありません。それは、仏教はインドで生まれたけれど、インドでは育たなかったということです。

    インドのマハーラーシュトラ州の断崖にある石窟に アジャンターの石窟 があります。岩窟にはたくさんの壁画が描かれていて、インド最古の壁画とされています。もちろん仏教絵画です。ここに描かれた絵を見れば、インドでの仏教が、少なくとも石窟がつくられた時代には盛んであったことがわかります。こうした作品が、後に法隆寺の金堂壁画にも影響を与えていたことでしょう。仏教絵画の最古のものといっていいものです。

    それはどういうことかというと、絵が非常に官能的に描かれているのです。インドは暑い国ですから、どうしても肉体を目に触れるところに露出することになります。そうした環境は、人間の煩悩を超えようとする、肉体性を超越しようとする仏教とは合わないのです。釈迦の唱えた教えは、人間の肉体が持っている欲望、本能といったものを超えていこうとする、克服していこうとする、そういう厳しい面を持っています。それ自体は非常に尊い教えではあっても、インドには合いません。インドの風土に合わないのです。

    ヒンドゥー教が仏教よりもインドの風土に適していることが、 エローラ石窟 を見るとわかります。

     巨大なエローラ石窟の中央に位置する第十六石窟に、 カイラーサナータ寺院 があります。八世紀から九世紀にかけてつくられたものです。ヒンドゥー教の主神ともいえるシヴァ神を祭っています。寺院そのものが一つの岩でできています。幅四十五メートル、奥行き八十五メートルの岩山を上から掘り進めて、高さ三十メートルの寺院や回廊、祠堂、楼門などが彫られているのです。その規模の大きさは、実際に見てみると驚くべきものです。そこにはインドの二代叙事詩である、ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』や、『ラーマーヤナ』の物語が描かれていて、まさにヒンドゥー教美術の宝庫になっています。

    カンボジアがいまも仏教国といえるのかというと単純ではありません。一度は共産主義化してポルポト政権ができているわけです。このように、一口に仏教国といっても、その内容は質的な違いを多分に持っているのです。ですから、私たち日本人は、東南アジアの国々の仏教と、日本の仏教の違いということを押さえておく必要があるのです。

    タージ・マハル(インド)と 宇治平等院(京都府宇治市)には、建築物としての対称性が醸し出す美しさ、妙味といった共通性があります。

    私は、この二つの建築物の中に、インドと日本の美の競演を感じるのですが、それについては、それぞれの前庭にある池の存在が見逃せません。平等院の池は浄土の象徴ですから、日本らしくできる限り自然に近い形になっています。一方、タージ・マハルの池は人工的な幾何学的な方形となっていて、そこには日本とインドの水あるいは自然に対する考え方の違いが見えます。そういう違いはありますが、水を配した白亜の殿堂と、水に浮かぶような美しい鳳凰堂の姿の宇治平等院はよく似ています。水に映ったそれぞれの姿もまた、見る者に強い印象を与えているのです。

    万里の長城 は、初めて中国を統一した秦の始皇帝が、紀元前二二一年に築いたのがその最初といわれます。それは、北方の遊牧民族、 匈奴 に対する防衛のためでした。それ以後、 燕、 趙、北魏、北斉、北周など歴代王朝が増築を重ね、これに十四世紀から十七世紀に繁栄を誇った明が、さらに大規模な増築を行って、今日のような壮大な長城となったのです。総延長距離は二万一千キロメートル以上ともいわれています。

    日本の場合、お寺にしても、大仏殿にしても、さらにはお城にしても、そうしたものをつくるときには、文化的創造の意思がその基本にあります。美をつくる、あるいは精神的なものをつくるということが先にあるのですが、万里の長城には、実用性しかありません。軍事的目的のためにつくられたという点で非常に現実的です。こうした動機が、中国人のものをつくる上での原動力となっているということは、ある意味で、中国の本質をよく表していると思います。

    一方、日本は侵略も略奪もされなかったために、欧米に日本の遺物や芸術がほとんど伝えられていませんでした。せいぜい日本から輸出された陶器の包み紙だった浮世絵が、彼らの目を引き、日本から手放された浮世絵が集められたというぐらいでした。

    また、中国は欧米から理解されやすかったということもいえるのです。それは、中国の思考パターンが基本的に実用主義でわかりやすく、政治も実力主義、権力主義で単純であるという点が欧米と共通していたということです。中国の帝政、易姓革命による歴史の変遷などは、西洋とも重なるものがあるのです。

    同じ仏教文化といっても、チベットと日本はその自然環境の違いなどによって、かなり性格の異なる文化になっているということを知っておかねばなりません。仏教の世界文化遺産をめぐってみると、そうした違いを感じることが多いでしょう。

    世界文化遺産の対象となるのは建築あるいは美術が中心ですが、その中に文学というものが入ってもいいように思います。文学がその場の雰囲気をつくるということがあるからです。ここではイタリアの ヴェローナ市 と日本の京都という二つの世界文化遺産を舞台にした東西の恋愛小説、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』と紫式部の『源氏物語』を比較しながら、文学が雰囲気をつくるということを考えてみたいと思います。

    『源氏物語』の微妙な心理を描く手法は、たとえば二十世紀初頭に書かれたプルーストの『失われた時を求めて』のような物語の先駆になっています。『失われた時を求めて』は二十世紀を代表する小説ですが、そこでプルーストが描こうとした世界がすでに十一世紀の日本文学にあったということは実に 稀 なる、あるいは奇跡的なことです。それは日本に宮廷文化という安定した社会があったからこそ、実現したのです。その意味で、『源氏物語』は日本文学のレベルの高さを示すとともに、日本の社会の高度さをも示しています。『ロミオとジュリエット』と比較すると、野蛮なヨーロッパと洗練された日本という対照性がそこに感じられます。

    ウマイヤ朝はシルク・ロードによって、イスラム教を中央アジアに広げていきました。例えば、ウズベキスタンの サマルカンド という町があります。ここはシルク・ロードのオアシス都市ですが、ユーラシア大陸のど真ん中に位置し、まさに文化交差路ともよぶべき町です。ここが、一二二〇年にチンギス・ハーンのモンゴルに襲われるのですが、それ以前から、イスラム教は伝わっていて、イスラム文化がつくり出されていました。

    同じく、ウズベキスタンには ブハラ という町があります。ここもサマルカンドと同じようにシルク・ロードのオアシス都市ですが、九世紀から十世紀のサーマーン王朝時代に、イスラム文化の中心地として栄華を誇ったといわれています。ここには、カリヤン・ミナレットという四十六メートルもあるイスラム風の大きな 尖塔 がつくられ、今日に残されています。

    このブハラも、サマルカンドと同じように、チンギス・ハーンに襲撃されて、一度は壊滅してしまったのですが、どちらも復活して、サマルカンドはティムール王国の首都として再生しました。  サマルカンドは、ティムールが世界各地から学者や芸術家を集めて、モスクや神学校(メドレセ)を建てたといわれます。十四世紀、十五世紀の中央アジアのイスラム文化の粋が、この地に結実したのです。

    植物模様や文字装飾が多いのは、結局、そういう人間性の欠如という面に通じるのです。これが重要なことで、イスラム文化は、科学や数学などで、先駆的なものを生み出しましたが、人間的な文学、文化が必ずしも豊かではないということに通じます。

    一方で、イスラム教は、国を超え、民族を超えて、その文化がインドネシアやフィリピンにまで広まっています。それは、イスラム世界の同一性の高さと、受け入れやすさがその要因であろうと思います。コーランの教えが人々の心に訴えやすいということもあるのでしょう。

    北アフリカのモロッコ南西部に、 マラケシュ という町があります。これは十一世紀初め、先住民であるベルベル人の興したムラービト朝が、アトラス山脈の麓に築いた町です。一〇七〇年のことでした。

    古都トレド(スペイン)も同じことがいえます。トレドは七一一年にイスラム教勢力の侵入を受け、その後およそ三百七十年間、イスラム教勢力によって治められていた時代が続きました。それが、一〇八五年にレコンキスタによってキリスト教勢力によって治められることになったのです。  そうした歴史を背景に、トレドには、イスラム教徒、キリスト教徒の建築が共存しています。十三世紀後半にはアルフォンソ十世が翻訳学校をつくり、アラビア語やヘブライ語の古典を全部ここで紹介するというようなことをしています。両文化が共存していたのです。

    さらにおもしろいのは、ここにユダヤ教も長い間共存していたということです。ユダヤ教の教会であるシナゴーグもあります。ですから、トレドには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教が共存している時代があったのです。つまり、この三つの宗教は本来的には似ているのであって、対立すべきものではないということです。三つの宗教が共存できる、そういう糸口をこの時代のトレドに見ることができるのです。これはとても重要なことで、そういう時代があったことを思い出さなくてはなりません。

    イスタンブールもトレドと同じように、さまざまな文化が交流する都市だったのです。その歴史をさかのぼると、東西ローマが分裂した三九五年以降は、ビザンチン帝国の首都として栄華を極めていました。 アヤソフィア という巨大な大聖堂もその時代につくられました。これはユスティニアヌス一世によってつくられたギリシア正教会の総本山でした。そしてこれも、一四五三年のコンスタンティノープルの陥落とともに、改築されたのです。壁や天井に描かれていたモザイク画はすべて漆喰で隠されて、そのかわりに、ミナレット(イスラム風尖塔)などが増築されました。そして、一九三〇年には、トルコ共和国のアタチュルクによって博物館になりました。

    マヤ文明も、トルテカ文明も、いずれの文化もピラミッドをつくっていました。これは「山をつくる」という、人間の原初的な行為、憧れがここにも発揮されているわけです。どちらも密林の中です。これは世界中、平地に山をつくるという人間の創造の原点、建造物の原点というものがここにも表されているということです。

    自然信仰とともにつくられる山の信仰が、マヤの文明には一貫しています。例えば、ユカタン半島中央部の丘陵地帯にある 古代都市ウシュマル(メキシコ)というところは七世紀初めから十世紀頃に繁栄したと推定される場所ですが、「総督の館」と呼ばれる方形の遺構は、約二万個の切石が使われた壁面に、雨神や蛇が、非常に複雑な格子模様の中に彫られています。これも自然信仰で、雨、つまり水を必要とした人々の気持ちがよく表れています。ここには、四方の稜線が丸みを帯びるようにつくられた「魔法使いのピラミッド」 というものが残されています。いずれにしても、山と自然に対する信仰が、ユカタン半島の文化、マヤ文明には一貫しているのです。

    南米といえば、インカ帝国が有名です。ぺルーの首都 クスコ は、標高三千四百メートルの高地、山の中にあります。インカ帝国は十五世紀から十六世紀に繁栄したといわれています。南米最大の先住民国家でした。ここには、クスコ盆地に侵入したインカ人たちがその先住民を従えて、十三世紀から十四世紀頃に定住したといわれています。

    フランスには、ノルマンディー地方に、 モン・サン・ミシェル という修道院があります。小島の上に建てられた修道院で、まるで要塞のようです。

    現代では観光地の一つとして、多くの人がここを訪れていますが、もともとゴシックというのは、森や山のないところに、人工の森、山としての教会堂を建てるというイメージがその建築の中に込められているのです。  モン・サン・ミシェルはまさにその代表例で、日本の、海の中につくられた 厳島神社(広島県)と比較するとおもしろいと思います。

    厳島神社は満潮のときは島となり、干潮のときは地続きとなるような場所に建てられています。潮が引くと鳥居のそばまで歩いていくことができます。このように潮の干満によって姿が変わるという点はモン・サン・ミシェルも同様で、干潮時には島までの道が出現します。厳島神社は干潮のとき以外は海水に床柱が浸っているため、台風や高波と満潮が重なると、海水が廊下の上にまで達することもあります。海の状態によっては危険な状態にもなりうるというのは、モン・サン・ミシェルも同じでしょう。これも両者の類似性として挙げてもいいように思います。

    では、イタリアはどうかというと、まさに南欧文化にふさわしい人間性をうたい上げました。人間の美的な創造をさまざまな造形の中に持ち込みます。美術を表現形式の中心に置くのです。

    各国、各民族にはそれぞれの特性があるわけですが、イタリアの場合は造形性、特に美術に重要性を置きます。ドイツの場合は、音楽や哲学に表現の中心を置くわけですが、イタリアは造形性が重要視される。このあたりが、日本と似ていると思います。

    イタリアも、最初はイスラムの影響を受けているのです。それは ヴェネツィア を例にすればよくわかるのですが、ヴェネツィアはもともとイスラムとの交易によって豊かになった町なのです。地中海貿易によって栄えたのです。この町はいまでもカスバのように、道が入り組んでいて迷路が多いわけです。

    フィレンツェの近くに シエナ という町があります。このシエナに、シモーネ・マルティーニやドゥッチオという画家が生まれています。ここはフィレンツェとはライバル関係にあった町です。ともに金融業を中心に商業都市として栄え、競争関係にありました。そうしたことから、武力衝突も何度か起こりました。一二六〇年の戦いでは、市民たちが、シエナの町を聖母マリアに捧げて戦勝を祈願し、フィレンツェと戦って勝ったという記録も残されています。

    ウィーン(オーストリア)は、神聖ローマ帝国の中心地ですが、一六八三年にトルコ軍の攻撃をしのいだ後、十八世紀以降にバロック都市として非常に規模を大きくしていきました。市壁の外にはトルコと戦った英雄オイゲン公の離宮をつくったり、 ベルヴェデーレ宮殿 や、 シュヴァルツェンべルク宮殿 などがつくられていくわけです。一八五七年には皇帝ヨセフ一世がこの城の中の市壁を取って、環状道路にして都市を広く使用するようになりました。地区の開発を進めたのです。

    いま、ウィーンはハプスブルク家の町、バロックの町という以上に、さまざまな文化施設を持つ美しい町になっています。ウィーンはまた、特に音楽の盛んなところで、ベートーヴェンやモーツァルトもここで活躍しました。

    モーツァルトは隣の ザルツブルク で生まれました。ザルツブルクとは「塩の城」の意味で、その名の示すとおり、この町は、紀元前の時代から、岩塩の町として栄えてきました。ザルツァッハ川をはさんで左岸の旧市街には、 レジデンツ(大司教宮殿)や ホーエンザルツブルク城、 ザンクト・ペーター修道院聖堂 などが、右岸の新市街には、ミラベル宮殿などがあります。この町も非常に調和のとれた町です。毎年夏に開かれるザルツブルク音楽祭には、世界中からクラシックファン、モーツァルト愛好者が数多く訪れます。

    一方、自由を掲げたアメリカは、非常に伸びていくことになりました。それを象徴するのが、ニューヨークのマンハッタンに立つ 自由の女神 です。これは、アメリカ合衆国の独立百周年を記念して、独立戦争時に支援したフランスから贈られたものです。一八七四年にプロイセンとの戦争に敗れた直後のパリですが、国民の募金によってつくられました。製作者はバルトルビーという彫刻家で、設計を担当したのが、エッフェル塔の設計に関わったギュスターブ・エッフェルでした。十年の歳月をかけてつくられ、それがニューヨークに運ばれたのです。一八八六年に除幕式が行われ、クリーブランド大統領が出席し、女神像の誕生を祝いました。像の高さは四十六メートル、台座も四十七メートル。独立宣言を記した銘板を左手に持ち、右手には希望を意味する 松明 を掲げています。足かせには、奴隷制度と独裁政治が象徴されています。

    二十世紀になってからつくられた ブラジリア(ブラジル)のような人工都市や、 デッサウ(ドイツ) のバウハウス(美術・建築に関する総合教育を行った学校)、 シドニー(オーストラリア) のオペラハウス などの現代建築がすでに世界文化遺産となっていますが、近代建築の巨匠と呼ばれたル・コルビュジェの建築も、まだ話題になっていない丹下健三などの建築も、果たして、世界文化遺産となるかということです。それらが他の建築家の建物と比べて抜きん出ている傑作かとなると疑問です。現代は、合理性や経済性が中心的な創造性となっていますから、類似のものがいくらでも出てくるのです。ですから、こうした戦後の巨匠といわれる人たちの建築もすぐに真似され、次々と類似のものが生まれてくると、その独自性がなくなって、おそらく彼らの建築は選ばれなくなるでしょう。

    人類の歴史で重要な、時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積といったものも、現代のグローバリゼーションの中で、世界中同じ様式のものがつくられているかぎり、それは評価の対象にはならないでしょう。

    ここにはユダヤ人だけが押し込められたようにいわれますが、実はそうではありません。ポーランド人やローマ人など、犠牲者には二十八の民族がいたといわれます。そこにはコミュニスト(共産主義者)、反ナチスの活動家、同性愛者といった人たちも含まれていました。ただ、百五十万人ともいわれる犠牲者の三分の二ほどがユダヤ人だったために、ユダヤ人がアウシュヴィッツでの虐殺を強く糾弾しているのです。

    これに対して、もう一つの負の遺産として世界文化遺産に登録されているのが広島にある原爆ドームです。こちらも原爆によって十四万人もの命が一瞬にして失われ、放射能による後遺症によっていまなお苦しめられている人たちがいます。

    また、原爆ドームの近くにある原爆死没者慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と、原爆投下を日本人自らの責任であるかのような文言を刻んでいるのも異常な現象です。ナチスのアウシュヴィッツと同様、アメリカの原爆投下を人類に対する卑劣なる犯罪として、もっと糾弾してもいいはずです。

    それができないというのは、ユダヤ人と日本人の気質の違いをよく示しています。ユダヤ人は徹底してナチスを糾弾します。また、ナチスと同罪であるとして日本の従軍慰安婦問題などについても韓国人と一緒に非難するという態度をとっています。その背景にあるのは、日本人を虐殺した原爆がオッペンハイマーのようなユダヤ人科学者の手によって完成させられたものであったという負い目があるのではないでしょうか。彼らには原爆を批判しようにもできないのです。

    それに対する批判を日本人が少しもしていないというのは、人のよさというか、日本人的な「過去を水に流す」感覚なのでしょう。

    しかし、この伊勢神宮ほど世界文化遺産にふさわしいものはないでしょう。多くの日本人は、これが日本の信仰の特殊なものであり、それをわざわざ世界文化遺産にしなくとも十分だ、と思っているかもしれません。しかし誰であれ、この神宮をひとたび歩いたならば、その伝統の古さ、深さ、そして一帯の静けさは、どう見ても、世界文化遺産の中でも一級品の価値がある、と感じることでしょう。トインビーもマルローも、この神宮に来て、その荘厳さに心を打たれ、ここに宗教の根源があると感じているのです

  • 私が読みたいのは!世界文化遺産から読み解く世界史であって!世界文化遺産と比較する日本の文化の素晴らしさではない!タイトル詐欺か!

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著者プロフィール

昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める

「2024年 『日本国史学第20号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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