- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784750516417
作品紹介・あらすじ
2018年〈小説家50人が選ぶ“今年の小説”〉に選出、
第51回韓国日報文学賞受賞作!
誰も傷つけたりしないと信じていた。
苦痛を与える人になりたくなかった。
……だけど、あの頃の私は、まだ何も分かっていなかった。
あのとき言葉にできなかった想いがさまざまにあふれ出る。
もし時間を戻せるなら、あの瞬間に……。
第8回若い作家賞受賞作「あの夏」を含む、7作品を収録。
韓国文学の〈新しい魅力〉チェ・ウニョン、待望の最新短編集。
感想・レビュー・書評
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ラジオで紹介されていて、読んでみたくなり図書館に予約。割とすぐに順番が回ってきたが、その後予約者が増えていたので急いで読んだ。
タイトルの「無害な人」から、韓国のスタイリッシュな小説なのかと想像していたが(ラジオでは内容まであまり深く言及されなかった)、全く違った。
英語のサブタイトルからは、「私を傷つけない人」と読み取れる。「無害な人」とはまた印象が違ってくる気がするのだが…。
「82年生まれ、キム・ジヨン」と同じような時系列で青春時代を過ごした若者達のリアルな姿を短編、中編で描き出している。
著者も84年生まれなので、「82年生まれ…」と重なるのもうなずけるし、自身の経験が物語に反映されていると、後書きで語っている。
著者は私と一回り年が違うのだが、彼女の描く子供時代の風景は、私が経験したものと似ていて懐かしさを覚える。一方その風景と相入れないのが、女性蔑視や教師による日常的な暴力の描写だ。しかし、これは私の周りでなかっただけで、日本でも同じような状況があったのだろう。
主人公たちの、自分に問いかける姿は痛々しいほどに厳しく、読み進めるのがしんどくなるほどだ。
小説とは関係ないが、コロナ対策をとってみても、やっぱり日本は詰めが甘いしね…などと思ってしまう。
東京五輪が1964年、ソウル五輪は1988年。
この小説を読んでいると、五輪後のそれぞれの国の姿が重なっているように見える(経済成長は、同じような道を辿っているように感じる)が、このあたりの歴史には全く疎いので、読後ネットなどで韓国の80年代以降についてサラッと調べてみた。
背景を知らないと理解できないことも多い、もっと調べないと。2020.8.5詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
あの時、あの言葉を言わなければ…
あの時、あの一言を言っていたら…
あの時、あの一瞬、
言葉にできない想いをたくさん抱えていた若い時。言葉にする力も勇気もなくて、どれ程後悔しただろう。
永遠だと思っていた友人や恋人との関係も、生活や環境の変化から変わってしまった。この本は、若い頃のあのヒリヒリとした感覚を思い起こさせる。
七篇の中短編はどれも過ぎ去った時間を痛みと共に振り返る。繊細に描かれる主人公たちの気持ちの中に自分の姿を見つけては、鋭い痛みが走る。
子どもの痛みには、胸がかきむしられる。
「子どもはある年齢まで無条件に親を許すから。許さなければという義務感もなく、ごく自然に。」
大人の都合を受け入れ、その中に愛を探す子どもの気持ちを思うと切なくて、辛くて堪らない。
人の愚かさや弱さ、醜さを描きながら、人と繋がる素晴らしさを描いている。
あとがきでチェ・ウニョンが「無害なひとになりたかった。苦痛を与える人になりたくなかった」という。
けれど「そういう人間になれなかった」と。
だからこそ「難なくじゃなく辛うじて、楽にじゃなく苦しんで書く作家になりたい。その過程で人間として感じられるすべてを感じ尽くしたい。それができる勇気が持てますように」という。その真摯な姿に打たれた。
真摯に生きていきたいと思う。 -
読んでいる間は、心の深海まで潜っていくような、暗さと静けさとを感じた。
ひとりが嫌で、寂しいのが嫌で、他人と違う生き方が嫌。わたしも昔はそうだった。自分はこの広い世界でたったひとりぼっちなんだと思っていた。それを口に出すことはなかったけれど。弱さをさらけ出せる相手はひとりもいなかったから。
ひとと親しくなれば、一緒にいる時間が長くなれば、互いに傷つけ合うのは免れない。ひととちょうどよい距離感を保つのに、何年もかかるひとだっている。わたしが今も付き合いのある学生時代の友人たちとは、何事もなく友人関係が続いてきたのではない。崩れかけてしまった関係をうまく修復し続けてきたから今がある。お互いに対する愛がなければ、とっくに疎遠になっていただろう。
チェ・ウニョンは恋愛に発展する一歩手前の友達関係や、他人だけども強いつながりのある兄弟姉妹の、心の機微を描くのがとてもうまい。日本だろうと韓国だろうと、ひとが何に心を動かされ、何を嫌悪し、後悔し、愛おしく思うのかは変わらない。だから『わたしに無害なひと』のような国を越えて共感できる本が生まれる。
無神経な言葉でひとを傷つけ、苦しみを与えるような大人にはなるまい、と子どもの頃に思っていたチェ・ウニョン。そんな大人になっていないか、文章で人を傷つけてはいないか、それをとても怖がっているひと。「無害なひとになりたい」。そんな作家の言葉には、多くの日本人が共感するだろう。
p203
どんなに愛し合っていても、相手よりたくさん愛している人と、相手のほうがたくさん愛してる人が存在するのだと。どちらかが惨めだからでも、どちらかが卑劣だからでもなく、愛とはそういうものだから。 -
この本で出会う人たちは「わたし」を慈しみ、守り、愛しこそすれ誰もわたしを傷つけなかった無害な人たち、そのひとたちを害してしまった「わたし」の物語たちなのだと気付くとき、書名に込められた深い祈りを見たような気がした。
通り過ぎてきた過去の悔恨へ祈る静謐な文章。
なかでも「あの夏」に一番心臓を掴まれたけれど、他の物語にもそれぞれの祈りがあって、程度の大きさはどうあれ誰しもに覚えがあるであろう過去の後悔の形が丁寧に丁寧に切り取られていた。
疎遠になった人、もう会うことはないであろう人たちのことを思った。 -
国や文化が違っても、感情は同じだよ、と教えてくれた一冊。
傷付いたり、好きになったり、生きていくことに絶望したり、誤魔化したり。
ちゃんと思いは届きましたよ。
素敵な物語を、ありがとう。
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ジェンダーをテーマにした話が多いが、登場人物の名前から男女の区別がつかず話についていくのに時間がかかった。
生きて人と接する以上、無害ではいられないと思う。ただ、何処かで誰かの役に立つこともあるだろうし、それで相殺出来たら…許されないだろうか。 -
誰しもが通り過ぎてきた人生のどこかで、ひどく傷つき、一晩中泣き明かし、もがき苦しんだ過去があるだろう。今となってはかさぶたとなっているが、一旦手で触れてしまうと、血がうっすらと滲み、痛かった当時の記憶を呼び起こすような…そんな物語が集まった短編集。登場人物の全てを愛おしく感じた。
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原題はハングルなので上手く読めないが、サブタイトルのようについている英題は"Someone Who Can't Hurt Me"。邦題だけみると、とてつもなく自信にあふれた女王様ライクな人物の言い草のようにも聞こえるが、どういう意味なのか気になって読み進めた。
全体としては、ミドルクラス、あるいはそれよりもやや低い家庭環境で育った人物が語り手の短編集といえる。尊敬できない人格でも父親と親族の男性が尊重されるなか、母親や親族の女性の踏ん張りと我慢でなんとか回っているという危ういバランスの家庭で生きている、20代前後の人物が過ごした時期が描かれている。このあたりは韓国の家族関係に疎いので、日本との共通点を見つつ「なるほど」と読みながらも、抑制された描写から立ちのぼってくるものだけでもなかなかに厳しい。
それぞれの短編の中心となる人物がそうした家庭の影響を受けているかどうか、というのは本作ではそれほど重大ではなく(たぶん)、近しい人が自分に「言えなかった」ことに気づいたとき、そしてそれに気づいた後の痛切さが各短篇の肝の部分だと思う。あれほど親しかった人が音を立てずに離れていく、残酷な瞬間がさらりと書かれているが、この瞬間は、何かの怒りやいらだちに「一気に片をつけてやる」つもりで起こしたわけではなく、「そう言われても困るから」というとまどいから起こったものだ。取り返しのつかないことをしてしまったと後になって気づき、当時のダメージを払拭できないまま、その人の記憶は時とともに「(今はもう)わたしに無害なひと」の枠に入ってしまう。突き放した瞬間の傷を抱えて生きるというよりは、「生きるには鈍いほうが楽」と悟ってしまった人たちの話だと思った。
翻訳については、私はハングルの文法を勉強していないので何ともいえないが、英語圏の文学のような、きびきびした区切りの文とはまた異なる言葉の流れを味わうことができた。訳者さんがお持ちの巧みさと、ハングルの句読法の関係などいろいろ考えられるが、ハングルの知識を増やしつつ考えてみたい。
最初から6編めまではおおむね、韓国のミドルクラスで生まれ育ったひとの青春の蹉跌のような物語だが、7編めの作品「アーチディにて」だけが異なる設定を使っていて、物語の流れが複雑に見える。とはいえ、近しい人が去り、後に残った自分が寂寥感をおぼえるという点は共通している。個人的には「差し伸べる手」が好き。