- Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
- / ISBN・EAN: 9784798111636
作品紹介・あらすじ
ゲームやドラマは複数の人物の複数の視点やエピソードを追い、関係性を把握しておかないと理解やプレイができなくなってきている。著者はこうした複雑化の傾向をスリーパー曲線と呼び、IQスコアや認知力を上げるデータを根拠に、人々は「賢くなっている」ことを示す。昨今、テレビやゲームがさまざまな社会問題の元凶のように語られる風潮の中で、よりバランスのとれた健全な議論が行なわれるために、一石を投じる一冊。
感想・レビュー・書評
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今日まで、ゲームが子供たちに意識せずに学習させる仕組みについて、正面から取り組んだ 研究はほとんどない。でもゲームが人をとりこにするのは、頭脳に備わった報酬回路を活用しているからだという点は間違いなさそうだ。報酬回路は薬物依存で中心的な役割を果たすため、 ここ数年で徹底的な研究が行なわれ、マッピングされてきた。この研究から生まれた二つの洞察は、ゲーム理解にも役に立つ。一つは、頭脳が報酬を見つける方法と、快楽をもたらす方法 とがまったく違うことを神経科学者たちが見つけたこと。体内で作られる天然の鎮痛剤オピオイドは、頭脳にとっての純粋な快楽ドラッグだ。一方の報酬回路は、神経伝達物質のドーパミンと頭脳の側座核という場所にある特別なレセプターとの接触で機能する。 ドーパミン系はいわば会計士のようなものだ
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『世界をつくった6つの革命の物語』が無茶苦茶面白かったので、他の作品も読みたくて手に取った。
脳が報酬を求める生理的メカニズムとゲームの構造がピタリと合致するから、ゲームは面白いし、脳トレにもなる、という趣旨のことが延々書いてある感じでしょうか。気力が続かず、斜め読み。 -
「ゲーム障害 (gaming disorder)」という新たな疾病がが2018年に盛り込まれた。ゲーム反対派は「それみたことか」となるでしょう。なんたってdisorder(=dis+order:自制できない衝動により制御不能)なんだから。でも,ゲームに限らず何事も程度問題。良い側面だってあるでしょう。それを確認するためにこの本をレンタルしました。
僕が今でも続けているゲームはドラクエくらいしかないけど,「プロービング,仮説立案,再プロービング,再考」という基礎的な科学的方法を確かに繰り返している。「街についた。街の人と話す。この人の話はあまり重要ではなさそうだ。ここのツボには何が入っているか。…」
全般的に訳があまりよくないかもしれない(元の文章の問題という面もあるかもしれない)。例えば,ゲームの話のところで「命が三つしかない」も「ライフが三つしかない」とした方がゲームという文脈に即した日本語になる。プロービングも「調査」ではなく「探索」の方が適切だろう。
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ゲーム文化の内容を重視しないのを,逃げ腰だと思わないでほしい。ぼくたちは頭脳や体にとって良いとされる多くの活動の内容を無視している。だれもチェスの単純さや軍隊的な趣向に不平を言ったりはしない(『いつも終わり方が同じだ!』)。また,いったん卒業したら生徒たちの九十九パーセントは二度と代数の知識なんか使わないと知ってはいても,学校では子供たちに代数を教える。代数を学習するのは,代数という個別ツールを身につけるのが目的ではない。どこかで役に立つ知力を鍛えるのが目的だ。ジムに通うのも「ステアマスター」の使い方を学ぶためではない。ジムに行くのは,ステアマスターの運動が体に良い効果をもたらすからだ。そのメリットは,週の残りのステアマスターに乗っていない多くの時間に感じられるものだ。
ゲームでも同じこと。重要なのは,ゲームをしているときに考えている内容ではなく,あなたの考え方だ。これはもちろんゲームに限ったことではない。ジョン・デューイは『経験と教育』でこう述べる:「おそらく教育学上最大の誤りは,人間はそのとき学習している特定の内容だけを学ぶという考え方だ。永続的な態度や嗜好の形成という付随的な学習のほうが,綴り方の授業や地理や歴史の授業よりも,はるかに重要になることがしばしばある。将来にわたり根本的に人を左右するのは,そうした態度なのだから」(pp.48-49)
頭脳の意思決定装置に直接関わる大衆文化は[ゲーム以外に]他にない。外から見ればゲーマーの主な活動は,クリックと射撃の嵐に見える。だからゲームに関する世間的な見解の大部分は,手と目の連携運動を問題にする。でもゲーマーの心の中を覗くと,主な活動はまったく別物であることがわかる:一瞬の判断から長期的な戦略まで含めた決定を下しているのだ。(pp.49-50)
これ[チェスやモノポリーなどルールに曖昧さが全くない伝統的なゲーム]に対してテレビゲームの世界では,ゲームを始める前からルールがすべてわかっていることはめったにない。画面上の物体やキャラクターの操作に関するいくつかの基本的な説明と,当座の目標のようなものは与えられる。でもルールの多く――最終目的の内容と,そこに到達するために必要な技術――は,ゲームの世界を探索しなければ明らかにならない。まさにプレイすることによって学ぶわけだ。これは未経験者がテレビゲームにいらいらさせられる理由のひとつだ。未経験者はコンピュータの前に座って言う。「何をすればいいの?」そして居あわせたゲーマーが説明してやるはめになる:「何をするべきか,きみが見つけだすんだよ」。理解するには,そのゲームの論理の奥行きを調査(プロービング)しなければならないのだ。そしてたいていの調査(プロービング)工程と同じく,物事に遭遇したり直感に頼ったりしながら,試行錯誤を通して答が見つかる。…(pp.50-51) -
時代の主流となるメディアが複雑になればなるほど知能指数が上がるというスリーパー曲線を基にゲームやインターネット、映画といった"頭が悪くなるもの"と叩かれるものを「そんなことはない。むしろそれらは人々の頭を賢くしている」とゲームやネット環境が普及する前後でのIQ(知能指数)の変遷などを用いて立証していく。
所謂ゲーム脳的なものを支持しているのはただ新しいモノへの嫌悪感、無理解だけだったりするので、それらに対して(データを基にした論理展開という)古典的な方法で弁明していく様は痛快。
いみじくも著者自身が『自分達の子どもが「森の中で要塞を作(る)」ことと「『ファインディング・ニモ』を見(る)」ことをバランス良く経験できるようにしてやりたい』と述べているように、肝要なのはバランスであり、頭で考えて環境に適応していくことなのである。
そうしたところにウヒヒ(ブラスト公論参照)的な態度も感じる。
マイナス・ポイントとしては解説にもあるがアメリカの状況がそのまま日本に当てはまらないコトと翻訳の所為か意味が取り辛い文章こと。 -
ゲームやテレビなどのポピュラー文化は年々複雑化し、人々を馬鹿にするどころか賢くしている!という今までの風潮を吹き飛ばす主張をアメリカの著述家が展開する。
語られるのは主にゲームとテレビ(ドラマとリアリティ番組)。インターネットや映画についてはほんの少しだけ。後半では知能テストの結果が年々上がっているフリン効果について取り上げ、メディアの影響で人々は知的能力が向上していると論じる。
おそらくゲームや洋物ドラマに触れている人は薄々このことに気づいているのではないだろうか。それらが年々複雑化していてとても頭を鍛えられるということに。
情報処理能力の高さが求められる現在、複雑化したポピュラー文化に親しむことは大きなプラスになる。その思いを確かなものにしてくれるのがこの本だ。
こういう本が全国の小中学校の図書室にあったらいいと思う。