神と科学は共存できるか?

  • 日経BP
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  • Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784822245726

作品紹介・あらすじ

2002年他界した進化生物学の巨人S・J・グールドが私たちに遺した21世紀のいま、「宗教」と「科学」が共存するための思考の冒険。

感想・レビュー・書評

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  • Rocks of Ages 神と科学は共存できるか?
    スティーブン ジェイ グールド 日経BP社

    まずここで言う神は抽象的なモノではなく
    父と子と聖霊が一体化した
    イエスキリストにまつわる神のことらしい

    無限なる万能の唯一神と
    相対する有限なる現人神である科学が
    両立するかと言う問いと答えなのだろうか

    万能なる創造主が
    相対性三次元時空間と言うこの世を
    産み出したのだとするなら
    その後不備が生じたり
    ノアの洪水で修正したり作り直すなど
    矛盾を孕んでいること自体が矛盾していると
    気付きながらも尚執着して
    唯物信仰に閉じこもる科学に逃げ込んでも
    堂々巡りであろう

    この世が部分と全体の入れ子状態に
    設計されている事実を認めた上で
    議論しなければ話が空転してしまう
    答えありきの対立軸で議論するよりも
    答えを探すための切磋琢磨による
    建設的な相乗効果を目指すべきだろう

  • 本書では、NOMA(non-overlapping magisteria)という直訳すれば「非重複教導権」という概念を定義する。それによって、宗教と科学の線引きを行い、互いにそれぞれの領域を侵さないことが両方の存在において重要であると説く。ニュートンのような偉大な科学者を例をあげ、このような科学者は「宗教のNOMA違反を問題にせず(つまり、宗教の科学への介入。例えば、天動説)、宗教に敬虔であった」ことを示す。こういう姿勢で、宗教の偏狭さに眼を瞑り、おおらかに宗教を見ることが、神と科学の共存に繋がることは明らかだろう。しかし、私の理解では、偏狭な宗教がまずは科学を敵視した。これは、ガリレオやコペルニクスなどの事例から明らかであり、宗教は科学に対してもっと謙遜すべきだろうというのが私の意見。やはり、著者が「偏狭な一神教の神」文化圏の人だけに、NOMA的とは、宗教による科学への優先を前提とした融和的思想なのだろう、と思った。

  • 現代進化論の三巨頭,ドーキンス,ウィルソン,グールドの宗教に対する姿勢をまとめた解説が明快でよかった。
    “ドーキンスは「対決」、ウィルソンは「融合」、そしてグールドは「分離」を選ぶこととなった”p.281

    ドーキンスとグールドを読み比べると,両者の違いがものすごく明瞭だった。二人とも科学の人で無神論者ではあるけれど,ここまで違うとは。
    「宗教は悪(過激でないものも含めて)」と言い切るドーキンスに対し,「それは極端。中庸をとるべし。科学の領分と宗教の領分があるから互いに尊重していこう」というグールド。
    社会一般的にはグールドが穏健で良さそうに見えるかも知れないが,自分は完全にドーキンス側だった。

  • 正直、難しくてわからなかった(^^;

    ただ、自然科学の研究者という道を選んだ人は、程度の差こそあれきっと同じようにこのテーマのことを考えるんだろうなぁ、と思った。

  • 科学(自然科学)が解明した事実は、単なる事実にすぎず、道徳や倫理とは何の関係もないから、科学では解決できない道徳的、倫理的問題があるというのは、確かにそうだろう。宗教のみが解決できる問題があるかどうかは知らないが、科学も宗教もそれぞれが解決可能な問題のみを扱い、お互いの領分を守っていれば、科学と神(ここでは、キリスト教の神)とは共存できる。グールドがいう「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権の原理」とは、そういうことだろうか。キリスト教どころか、どの宗教の信者でもないので、そもそも共存しなければならないとする理由もない。

  • 狩野秀之の前書きにあるように、「アメリカ人の進化論とキリスト教との折り合いの実情」は、日本人には分かり難いので、巻末の、新妻昭夫「グールドはどこに着地しようとしたのか?」と、古谷圭一「キリスト教原理主義者たちはなにを主張しているのか?」は、とてもありがたい。

    ただ肝心の筆者の主張がねえ…確かにデリケートな話題ではあるけれど、婉曲表現やオブラートに包んだ言い回しが多くて、結局「NOMA原理」しかハッキリしない。
    なんだかこういう、縄張り争いか境界線の線引きみたいなのって、双方の株を下げる気がするけど。

    中世ヨーロッパで、実際には「地球は平たい」なんて誰も言ってなくて、そうだった…と1880年以降の米国の中学校で教えていただけ、にはビックリ。

  • 2007年(原本1999年)刊行。

     原本の翻訳に加え、訳者2名による著者評とキリスト教原理主義者の指向に関する小エッセイを含む。
     著者はハーバード大学教授。訳・著者古谷圭一は東京理科大学・恵泉女学園大学両名誉教授、同新妻昭夫は恵泉女学園大学教授。

     宗教の、殊に聖書記載内容の絶対性を重んじるキリスト教神学と、その内容の誤謬を顕現する科学とその証拠群。
     本書が解決を模索する問題意識、即ち科学と宗教の対峙は、確かに表面的な理解は難しくない。
     しかし、あのグールドがここまで懸命に両者の反駁を止揚しようとする姿を晒すこと。
     聖書の如き絶対視すべき神学文献の無き日本において、これを心底納得するのは難しいのではないか。
     それ故、最終章の古谷のエッセイ(キリスト教原理主義者の指向を叙述)を読んでから全体に目を通した方が、問題意識が明瞭になり判り良いとは思う。

     リサーチによれば、1991年以降であっても、米国の50%弱が進化論否定(聖書支持?。「若い地球」仮説)、40%が進化論を肯定するが、ヒトへの進化の道程は神の御業と見るという、かなり引いてしまう現実にある。

     その要因が、①ビューリタニズムの強い米国建国からの宗教的実態にあること。また、②教育内容の決定が地方に委ねられている現実などにあるようで、米国は大変だなあという愚にもつかない感想が…。

     ところが笑ってもいられないのが、日本における福音派教会の米国系宣教師が進化論を否定する言説を(特に子供へ)まき散らし、進化論を頭から否定する風潮を蔓延させる問題が散見されるとの古谷の指摘だ。

     なお、この点の処方箋としてはキリスト教圏で起きたルネサンスの歴史的意味を理解させるというのが古谷の立場であり、確かに腑に落ちる指摘ではある。

     また、本書では書かれないが、イスラーム(特にトルコやエジプトの基礎教育)がどうなのかという疑念・危惧は勿論ある。
     が、それより欧州各国はどう?という疑義の法が強いか。同じキリスト教圏だし。

     補足。
     反進化論的立場の理論武装としてのID(インテリジェント・デザイン)仮説。
     この点、古谷は、周辺的な証拠が多数集積される進化論ほどの実証性はない。IDという超自然存在を自然の説明概念に用いる矛盾。公的カリキュラムに適示できる正当性の不在から否定的だ。

     ただしこのID概念をろくに学習もせず、知的営為を放棄してタダ乗りする宗教家の出現との指摘。これには、人間とは何処も彼処も同じなのだとの慨嘆を。先に既読の「ネット右翼」と「真正保守」との関係に酷似の構図である。これは人間の性なのだろうか。

  • 保守過ぎるNOMAは第三極の孫権ポジションか

  • NOMAという概念を解説。
    ドーキンスのように対立するのではなく、科学と宗教が互いの領域を守り、対話していくというこの考えは共感できる。
    この点、歴史的に双方が過ちを犯していることを公平に指摘している点は好感が持てる。
    しかし、これは科学者よりも宗教者のほうがより難しい課題であるようにおもえる。

  • 科学と宗教について、語れるほどの事を理解できているわけではない(特に宗教については)ので、上手いことまとめられはせんのですが、私なりに思った事を。


    そのモノが扱える領分が、そもそも違う。重複しない。
    なのに歴史的(時間的)に先んじて偶々居た、という理由だけで、自らの扱う領分を見誤って、他所を攻撃するのはナンセンス。それに反撃するのもナンセンス。
    その上、主観や願望に惑わされて、本質、エッセンスが見えず、表面的な現象について固執し過ぎていることが多い。だから、議論があさっての方向を向く。
    どっちがどう、という完全に二分される構造ではなく、程よいバランス(本文中は「中庸」という単語が使われる)があるはず。
    まぁ、重複しないからと言って、互いに無関心を決め込むのもbestな手ではない。
    という感じか。

    うん。別に科学や宗教だから、という話でもないでしょう。

    何を以って共存とするのか、という議論もあると思うのだけど、互いが互いをどうできるという間柄ではない、というのはわかった。そもそもが同じ土俵にないのだね。

    一番のヒット。
    「自然は、ようするに自然なのである。」
    ちょっと言葉遊び的だけど、イイトコをついてると思う。
    これはきっと原語の方がよりニュアンスがわかるような気がする。原文の言い回しを知りたい。

    個人的に、後半の日本人による解説っぽい部分は不要。特に知りたい話ではない。
    こういう話は、自分なりに色々調べて、自分の筋をしっかり立てた方がbetterと思うので。

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著者プロフィール

スティーヴン・ジェイ・グールド[Stephen Jay Gould]
1942年ニューヨーク市生まれ、2002年没。アンティオック・カレッジ卒業。コロンビア大学大学院修了。ハーヴァード大学教授。専攻は古生物学、進化生物学、科学史。著書は、ニューヨーク自然史博物館発行の『ナチュラル・ヒストリー』誌に1974年から20年間、300回にわたって連載したエッセイを中心にまとめた『ダーウィン以来』から『ぼくは上陸している』までの10冊の科学エッセイ集、世界的なベストセラーとなったカンブリア紀の奇妙な化石動物をめぐる『ワンダフル・ライフ』(以上早川書房)、進化発生学という新領域を準備した『個体発生と系統発生』、地質学的時間をテーマにした『時間の矢・時間の環』(以上工作舎)、科学の名のもとに行われてきた知能測定や優生主義を徹底的に批判した『人間の測りまちがい』(河出書房新社)など多岐にわたる。2002年、20年をかけて執筆した『進化理論の構造』(本書)刊行直後に逝去。

「2021年 『進化理論の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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