- Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
- / ISBN・EAN: 9784826902373
作品紹介・あらすじ
ナビゲーション能力は、長い進化を通して培われた人間の根源的な力。
私たちは人類史上初めて、その力を手放そうとしている。そこにはどのような代償が伴うのか――
心理・脳・社会など多彩な論点であぶり出す、空間認知の驚きの真実。
ナビゲーション能力は、空間を把握する以外にも、「出来事を記憶し思い出す」「人間関係を理解する」「抽象的な概念を操る」「良好なメンタルヘルスを保つ」「認知症を防ぐ」など、さまざまな働きにかかわっている。
GPSや現代的な生活によって、方向や場所を把握する必要のなくなった今、その力は急速に衰えはじめている。
人間に備わるナビゲーション能力が、人を人たらしめているものだとしたら、それを失うとどうなるのだろうか――
その危機感を柱に、人と場所、心と空間の関係を、心理学、人類学、神経科学、社会学などから探る。
移動が制限され空間認知力をさらに使わなくなっている今、タイムリーな一冊。
感想・レビュー・書評
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道に迷うことへの恐れは、人間の脳の中に組み込まれた根源的なものだ。
ほとんどの人は、ほんの少し迷いそうになるだけで動揺してしまうし、実際に迷ったら迷ったで、恐怖に打ちのめされ、まったく異質な世界の中に投げ込まれた感覚を味わう。
迷うと、精神は二重に苦しむ。
恐怖に襲われるだけでなく、論理的に考える能力をも失ってしまう。
パニックになり、わけの分からない行動をとる。
そう、その場に留まるより、ぐるぐるとさまよい、より事態を悪化させるのだ。
人は不安になってくると、周りの風景を見落とし、自分の居場所さえ認識できなくなる。
我々の認知地図は、幾何学的な地図というだけでなく、感情の地図でもある。
それは空間の情報と同時に、情動の情報をも捉えている。
ストレスによる認知のエラーはこの認知地図を崩壊させる。
迷わないための最大の秘訣はパニックに襲われないことだ。
簡単に聞こえるが、これが結構難しい。
練習もなしに海に飛び込むのが論外なように、事前準備なしにパニックになるなといっても無理だろう。
だからこそ、わざと道に迷って、元来た道に戻る訓練を日頃から行なっておくのはいいかもしれない。
一方でパニックにならず、自信満々に道を見失う人々もいる。
いま「いる」場所を、地図上で「いるはず」の場所であると頑に信じ込む。
「そこじゃない、向こうに違いない」と思い込み、方向を変え、道を間違える。
コンパスの方位と歩いてきた距離を無視して、思い込みに嵌まれば、こうなる。
そして他にも迷子になることを恐れない人たちがいる。
乳幼児である。
3歳か4歳くらいまでの子どもには、迷子になるという概念がまったくない。
道に迷っている状態を、空間的な感覚では捉えず、「ママはどこ?」など、常に社会と自分との関係で捉えている。
だから自分がどこに行こうとしているのか、たいして気にしない。
迷子の恐怖は4歳から芽生え始めるが、それでも私たちはみな、衝動に駆られた冒険家として人生を始める。
探検したいという衝動は、人を人たらしめるもののひとつだ。
「未知なるものの中に入り込むこと、秘密のルートを見つけること、自分しか知らない場所を知ること、秘密の砦、洞穴への近道 — 子どもはそういったものが大好きだ。それは子どもたちに、彼ら自身の認知について、記憶について、目印の使い方について、そう、何もかも教えるんだ」
旅をすることは目的地に着くよりも重要だとよく言う。
そう、子どもたちにとっても、旅はすべてなのだ。
子供時代にどれだけ自主的な自由な遊びをしてきたかで、その後の空間認識力とナビゲーション能力が決まる。
車で親にしょっちゅう送り迎えされたり、活動を制限されていた子は、歩き回る自信を満足に養えてこなかったため、不安に陥りやすく、道に迷いやすい。
そうした空間に対する不安は、将来の未知のリスクテイクにまで影響を与える。
とりわけ親は息子より娘に対して行動の自由を制限しがちで、少女の行動範囲は少年の半分以下ということも。
このことが、その後の人生で得られる機会をせばめる結果につながるとしたら、たいへん残念なことだ。
方向感覚のいい人と道に迷いやすい人の違いもここにある。
道を見つける力が自信を生み、外交的で積極性を養うとしたら、道に迷いやすい人は、神経質で頑で恐がりだ。
新しい場所を探ろうともしないので、空間に対する自信はますます低下する。
すぐれた方向感覚を持った人に共通するのは、注意深く観察する力である。
彼らは観察のために、あらゆる感覚を総動員することができる。
地形を観察し、歩数数えて進んでいける(60歩で約100m)。
一方、気が散らされやすく集中力に欠ける人は、たやすく道を見失う。
「私たち人間は、これだけ高度に知的で複雑な存在になっていても、いまだに空間の生き物であり、動きまわるように進化してきた歴史がある。私たちにとって物理的世界と交流することでしか — 世界の次元を試し、その扉を叩くことによってしか — 学ぶことができないものがあるのだ。好奇心がもっとも強く、もっとも制約のない子ども時代にそれができなければ、2度とそのチャンスを手に入れることはないだろう」
“認知地図"なんて偉そうに言ってるけど、実は脳内にそれらしい地図はどこを探しても見つかっていない。
例えば、ある空間で発火する場所細胞があるとする。
この発火は、のちに再訪しても、同じポイントでまた発火するので、パターン性があると考える。
だが、その空間と隣にある場所で発火する細胞は、とんでもなく離れた位置の場所細胞が発火するのだ。
まるで気まぐれにマッピングされてるとしか思えないんだけど、一連の発火パターンは、同じ場所で正確に、場所細胞が再活性化している。
ふつうこんな位置関係による構造を持たないものを地図とは呼ばないのだが、それでも我々は、この認知地図なしには絶対に生きていくことができない。
つまりわかっているのはこういうことだ。
人間の海馬には空間ニューロンと呼ばれるさまざまな細胞がある。
場所細胞や頭方位細胞、格子細胞、境界細胞などだ。
それらが相互に連携して認知地図を作っていて、それなしではいま自分がどこにいるか、どっちを向いているかさえ分からなくなってしまうということだ。
しかしわからないのは、どのように働いて認知地図が作られ、記憶されているのかということ。
なぜ場所細胞は、ある場所では活性化し、別の場所ではしないのか?
神経科学者は、ある場所から別の場所に移動する際、どの場所細胞がどのように振る舞うか見当もつかなければ、予測もできない。
脳のどこに空間記憶が保管されているのか、海馬による抽象的表象が幾何学的な空間感覚へと、気まぐれな空間ニューロンの発火パターンが自分はいまここにいるという感覚へと、どうやって変わっていくのか?
それらがわかったら、それこそノーベル賞級の発見なのだろうけど....。
ただ、認知地図を単なる物理的空間の地図ではなく、認識の地図だと考えると、記憶の貯蔵庫と言うだけでなく、空間認知システムの土台といった意味でも、脳内における海馬の役割はきわめて大きいのは確かだろう。
人間も含め、すべての動物は境界に引き寄せられる。
新しい環境を探るときには特にそうだ。
行方不明の人は、だだっ広い空間の真ん中にぽつんといない。
柵や壁、川や溝などの外縁部にたいていいる。
実験室のラットは壁に沿って走るし、ネコは箱上の空間に入り込む。
それに我々は、境界のない場所では道に迷いやすく、またどのくらい進んできたのかを見失いやすい。
空間の中の境界の重要性は強調してもしたりないくらいで、それもそのはず、境界細胞は、幼児の脳内で最初に形成される空間ニューロンなのだ。
きっと認知地図の働きにおいても、この境界細胞が中心を担っているに違いない。
さらにこの細胞は、記憶の組み立てにも関与しており、エピソード記憶の境界、いわばクリップごとのチャプターをも定めているらしいのだ。
場所の感覚にとっては境界が必要不可欠であるが、方向感覚にとってはランドマークが必要不可欠となる。
海馬内にある頭方位細胞は、頭が特定の方向に向いた時に活性化するが、これは脳内に内部コンパスがあるためでなく、目印となるランドマークに頼って絶えず再調整しているからほかならない。
目立ったランドマークがない場所で迷いやすいのはそのためだ。
最も興味深いのは、認知地図が言語構造にも関係していることがわかってきたこと。
言語それ自体が、空間の枠組みの上につくられている。
「~の前」や「~の上」などの前置詞が、場所と物との空間的な関係を表している考えれば納得だろう。
実際、会話中に「あなた」などの代名詞を含む文章を聞くと、脳の空間処理領域が反応している。
「相手の立場に立って」とか言われた時に、実は自己中心的なナビゲーションを引き起こす頭頂葉皮質が即座に活性化していることを考え合わせると、私たちの脳は空間を地図化するように、関係性をも地図化しているのだとわかる。
人間の脳は、複雑な社会的相互作用を処理するときに、空間的な方法を使っている。
我々の祖先が、近くの家族を超えて何十キロも先の集団との会話を愉しむためだけに何時間もかけて歩いていたのだと考えると、友人の環の広がりがナビゲーション能力と言語能力を鍛え、さらに大きな社会的ネットワークを構築していくことで、劇的な進化を遂げたことに思いが至る。
旧石器時代、数百キロもの荒野に隔てられた社会的ネットワークを維持しなくてはならなかったことが、ナビゲーション能力の進化を促した。
それゆえ認知地図の喪失は、あるいは社会的地図の読み込み、関係を作ったり理解したりする能力の減退は、精神疾患を引き起こすのだ。
心を病んだことがある人は、心の中で道に迷っていると訴える。
これは単なる喩えではない。
心が道に迷うことと身体が道に迷うことは、比喩的にも、そしておそらく認知的にも一致しているようだ。
うつではどこにも安全な場所がない。
うつ病患者は、世界の外側に生きており、人生が通り過ぎていくのを心の洞窟の中から眺めている。
「人間は身体だけでなく、心もまた、空間に場所を占めている」のだ。
空間能力の低下は、アルツハイマー病の初期症状のひとつである。
レスキュー隊にとって、認知症患者の捜索は骨の折れる行方不明者の代表だ。
彼らは、どこまでもひたすらにまっすぐ進む傾向があるため、介護施設から道に出ると、その道をどこまでも辿る。
荒野の中での捜索では、それ以上先に進むことのできない藪の奥から何人もの認知症患者が救い出されている。
なぜ「まっすぐ」なのか?
その理由は、彼らの空間認識がたったひとつの次元にまで崩壊してしまっているからだ。
「彼らの現実は、見えるものだけに限定されていて、背後にあるものは考慮に入らない。それはもはや存在しないのです。彼らにとって、選択肢は目の前にあるものだけ。だからこそ、彼らは必死でまっすぐに進もうとするのです」
アルツハイマー病は、一般に記憶の疾患だと考えられているが、基本的には方向認識の病である。
周りの環境とのつながりがゆっくりと切れていく。
空間の途切れが最初の症状のひとつである。
今までより鍵をなくすことが多くなる。
いつものルートが分らなくなり、新しいルートを学ぶこともできなくなる。
病状が進行するずっと前に、脳の空間システムが崩壊することが分かってきたことから、空間テストを使ってのアルツハイマー病の早期診断が可能になってきている。
方向感覚が怪しくなってくるのは、何も病気だけとは限らない。
正常であっても、老化に伴って誰でも迷いやすくなる。
なのに、老人ホームのレイアウトはどうだろう?
どの階の廊下も壁も同じに見えないか?
正常な脳でも区別するのはとても難しい。
しかも慣れ親しんだ環境からわざわざ越してきて、馴染みのない場所がこれなのだ。
不安を募らせ、新しい場所で方向感覚が狂わされ、閉じこもり不活発になるのでは?
これこそ老人ホームに入ることの悪循環だ。
ホームの設計者は、この種の類似した配置や構造にもっと注意を払うべきなのにそうしていない。
レイアウトに問題があるのは老人ホームだけに限らない。
都市設計全般がそうだ。
レイアウトの拙い街では道に迷いやすい。
どの通りも、どの街並も同じデザインだ。
目立つ建物がなければ、視覚によって位置や方向がわかりにくい設計になっている。
「画一性と対称性はウェイファインダーの大敵である。同じように見えるふたつの場所に直面したら、海馬はごく当たり前にそれが同じだと決め込むだろう。それでも、このふたつの特徴は美しく、魅力的であるため、建築家や都市デザイナーは大事にするわけだ」
「GPSに頼ることで私たちはきわめて多くのものを失う。GPSは世界をデジタル機器にはめ込まれた抽象的存在に変える。空間の中で自分がいる場所を確実に知る代わりに、私たちは場所の感覚を犠牲にする。GPSを頼りに移動するとき、私たちはもはや、輪郭や色彩に気づく必要もなければ、交差点をいくつ横断してきたかを記憶する必要もなく、周りの風景の形や特徴に注意を払うことも、道筋を覚えておく必要もない。私たちは無関心でいられる。そしてこの無関心は無知に通じる。旅について語るべき物語を持たず、私たちはウェイファインダーであることをやめる」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
地図細胞と都市デザインについてのくだりがよかった
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第1章 最初のウェイファインダーたち
第2章 うろつきまわる権利
第3章 心の中の地図
第4章 考える空間
第5章 A地点からB地点へ、そして戻る
第6章 あなたはあなたの道を行き、私は私の道を行く
第7章 自然を読む
第8章 道に迷うことの心理学
第9章 都市の感覚
第10章 私はここにいるの?
第11章 道の終わり
人間は身体だけではなく、心もまた、空間に場所を占めている
GPSに頼ることで私たちはきわめて多くのものを失う
すべては歩くことへの衝動から始まった
人間の進化の歩み≒一人ひとりの一生
GPSの使用が空間認知に及ぼすはからいしれない影響
空間スキルの多くを使うことをやめた -
コールハウスのシアトル美術館が酷い動線計画とは知りませんでした。
建築家のエゴにも困ったものですね。