[現代訳]職業としての学問

  • プレジデント社
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  • Amazon.co.jp ・本 (151ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784833419154

感想・レビュー・書評

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  • 現代語訳ならぬ「現代訳」。その心は、今の日本の悩み多き若者たち向けに、現在の文脈のなかでウェーバーを読み替える試み。『下流社会』の三浦展氏らしさが出ていると思う。巻末の姜尚中氏との対談や、本書成立の過程を記したあとがきから読んでみるとよい。

  • いまさら!って気もしますが。
    マックス・ウェーバーの職業としての学問を現代風にアレンジして訳し直したもの。若いサラリーマンを読者層に狙ったのでしょう。狙いすぎな気もしますが、時代を超えて訴えてくるものがあります。姜尚中氏との対談が付いています。

  • ウェーバー2冊目
     前回の記事(「社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」」)が非常に頷ける内容だったので、読んでみた
     やばい、ファンになりそう
     でも、今回読んだのは、「現代訳」となっているように、「下流社会」の著者(翻訳の専門家では全くないが、大学時代にウェーバー研究をしていたらしいからオファーが来たらしい)が訳したもので、あとがきで訳者が述べているように、原文に忠実ではなく、現代の文脈に合わせた訳になっている
     だから、読みやすかったけど、ちゃんとした訳文とはかなり違うらしい
     まあ、そもそもウェーバーの原文は以上に難しいらしく、どうしても意訳が多くなるということなので、大意にそこまで違いはないのかもしれないけれど


     内容は、題名の通り、「職業としての学問がいかなるものなのか」というテーマの学生相手の講演を文章に起こしたもの
    学問に限定して話しているが、現代の職業一般に対しても当てはまることを言っていて驚いた

     それもそのはず、ウェーバーが講演した時代は、「ドイツが一度工業国として成功したにもかかわらず、フランスとイギリスと対立して第一次大戦で負けて、混乱のさなかにある」という時代だったからだ
     経済国として成功したにもかかわらず(戦争はしていないけれど)混乱のさなかにある、という点で現在の日本と状況が似ていると直感的に思うのは強引過ぎるだろうか

     ともかく、ウェーバーの言っていることは、現在の状況にかなり近いと思う

     これとか

     現代(当時のドイツ)の若者は、「やりがい」や「自分らしさ」ばかり求めているが、果たしてそれで、彼らの言う「やりがい」や「自分らしさ」を得ることができるだろうか

    と言っている

     また、プラトンの「国家」の洞窟の例えを例に出して

     真っ暗な洞窟に一つだけ光源があって、光源が見えない位置に鎖に繋がれていて動けない人がいる。彼は、壁の方向を向かされていて、目の前以外は暗くて見えない。光源の目の前に何かがあるが、彼からはそれは見えず、壁に映った影しか見えない。しかし、彼はその影やその影と自分の影の関係性ばかり追いかけていて、それが真実だと思っている。だが、実際にはそれは影であって真実ではない。真実は、光源の前にあるものだ。この状態は、彼らのうちの誰かが鎖を解いて光源を見るまで続く。鎖を解いたものは、彼が見たものを眩しさに目がくらみながらも、鎖につながれた人たちに、自分が見たものについて語り始める。しかし、鎖につながれた人たちは、彼の言っていることを信じない。でも、どうにかして、彼は鎖につながれた人たちに光源を見させようとする。
     これが、哲学者であり、真実を追い求めるものである。

    と言っており、さらに、

     現代の若者たちは、真実を追い求めている学者たちの考えている理論や世界像(光源)こそがニセモノであり、現実の世界の一部を切り取っただけの抽象にすぎない、と言っている。これでは、虚像と実像が逆転しているぞ。

    と言っている


     一つめの方は全くその通りだし、二つめの方もいくらか修正が必要だとは思うけれど概ねその通りだと思う。


     一つめについては、この前読んだ「カーニヴァル化する社会」でも同じようなことを述べられていた
     そもそも「やりがい」も「自分らしさ」も幻想だというのだ

     二つめについては、アンチミステリということで日本四大奇書の一つに挙げられている本で「現実の方が人間の想像を超える世の中になっている」と述べられているように(1974年出版だからウェーバー講演1919年の56年後の本)だから、学者たちが考えた理論や世界像がいつでも通用するというのは間違いだけれど、それはその理論や世界像が間違っているのであって、学者たちが考えると言う行為そのものは間違っていない
     プラトンの例に当てはめるなら、光源についての説明が間違っている、ということはいつだってあり得ると思うけれど、光源を見ると言う行為自体は間違っていない、と思う
     問題は、現在を把握することが情報の氾濫と共に難しくなっている
    つまり、光源を直視すること、それを説明する自体が難しくなっているのであって、決して影が本当のことではない、ということだ
    そして、ウェーバーは、早とちりして、影の方を真実だと思わないで欲しいっているのである

     これは、現在の日本でも同じことだと思っていて、世界を解釈するための理論や物語(大きな物語)が、失われていると思う
     かつ、そのことであたふたし過ぎていて、「今のままで良いんだ」とか「いや今の状況はおかしい。こうすべきだ」と言って、情緒的な反応をするということが多い気がする
     それで、部分最適ばかりを追い求めて、全体最適をないがしろにしてしまっている気がする


    その他にも、頷く箇所がいっぱいあったのだけれど、もっと長くなるのでやめておく

     ウェーバーは、思い込みや感情と論理の混同などを非常に嫌いながらも、情熱を持つことの重要さを訴えていて
     また、自分の立場を明確にするがために他者との衝突は避けられないが、それがあってこそ真実に至ることができる
     と述べていて、これはこの本でも少し垣間見られるが、「社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」」で、特に述べられていた

     今の社会、自分を考えてみる上で最高に役立つ本である、と思う

  • フランスと違ってドイツには学問の不死の存在は存在しない。研究と教育という二つの課題を持つドイツの大学の伝統を正当に評価すべきです。
    学問の分野で何か実際に完成した仕事をしたという確信は、この上なく厳密な専門的な研究ウをなしえたときにのみ得られるもの。だから隣接領域に手が広がっていく研究、特に社会学者は林節遼幾にしょっちゅう手を広げざるを得ませんが、そういう研究を達成するにはあきらめが必要です。
    ゲーテ級の個性的な人物でも、自分の人生そのものを芸術作品のように創作しようとすれば、彼の芸術は疑問視され、彼は芸術によって報復されるでしょう。
    学問における進歩のような概念は芸術にはない。
    学問は神への道だった。学問を合理主義や主知主義から救いだすことが神と一体化した生活の大前提だというのが、宗教的な気分を持った現代の若者たちの、あるいは宗教的な生きがいを得ることに懸命な若者すべてに共通しています。
    学問に意味はない。なぜなら学問は我々にとって唯一重要な問い、つまり我々はなにをなすべきか、われわれはいかに生きるべきかという問いに何も答えないからである。学問はその問いに答えない。これは全く争う余地のない事実。ただ十洋なのは、どういう意味で学問が何も答えないかです。
    アメリカの若者は何に対しても、誰に対しても伝統や役職に対しても経緯を払わない。彼らにとって重要なのは個人的業績だから。
    学問に価値があることが前提されている。
    どんな学問も絶対的に無前提ではない。またどんあ学問も、その前提を拒否する人に対して、学問の価値の根拠を説明することはできない。

  • 難解な印象を持っていたが、この翻訳(解釈?)のおかげで読みやすかった。逆にすらすら読めすぎて、もっとかみしめて読んだ場合にこころに残るであろう箇所が右から左に流れてしまったのではと不安。

  • 6/28:マックス・ウェーバーの本を読んでみたかったのだけど、とっつきやすそうだったので、これを借りてみた。昔々の講義(講演)らしい。

  • 訳者の三浦氏が 姜尚中氏との対談で言っているように「プロ倫」の訳を諦めた代わりに、「職業としての学問」を訳したとのこと。

    三浦氏の過ごした学生時代の特異性からウェーバーの考え方とフィットしたとのこと。

    夏目漱石と同時代のウェーバーはアメリカという新しい資本主義の国に留学に行き、色々悩むこととなったとの見解だ。

    真面目すぎるくらい真面目な学者としてのウェーバーが言ったことの普遍性こそ今の時代にはまさしく必要であるし、学生、また、サラリーマンに読んで欲しい本であるとしている。

  • [現代訳]職業としての学問 中身をよく知らずに読んだのだけれども、結局よく分からなかった。自分の中のデーモンに従えば任務はいとも簡単に実行できるとかなんとか。 http://bit.ly/5oINDQ

  • ■目次

    職業としての学問
    特別対談 姜尚中×三浦展

    ■レビュー

  • すでに広く普及している岩波文庫版に尾高邦雄訳と、その後に脇圭平訳があり、そして今年2月に中山元訳(日経BP社)が出ているのを尻目に、今をときめく「下流社会」の三浦展が、単なる翻訳書というのではなく、換骨奪胎してあえて世に問う問題の書です。

    いやらしくなく強欲的でなくサラリとさり気なく、「姜尚中さん絶賛!」という惹句=キャッチコピーと一緒に、TVで見慣れた本人の超アップで写った腰巻き=帯がかかっていたり、巻末に堂々と姜尚中との対談が載っているのはご愛敬というものでしょうか。

    いや、違います。これは、そうとう戦略的な、虎視眈眈と大ベストセラーを狙った本です。

    でも、何故★1つなのかは、2000年に我が長部日出雄が『二十世紀を見抜いた男・・・マックス・ウエーバー物語』を出した際、それに啓発されて読み散らかしていたマックス・ウエーバーを、殊勝にもまとめて系統的に読み返そうと発奮した張本人の私としては、これはどういうことなのかと自分でも疑うほどなのですが。

    もちろん、たとえ90年前の著作でも、マックス・ウエーバーが古臭くてまったく役に立たない遺物であろうはずもなく、あるいは、三浦展の一橋大の卒論がマックス・ウエーバーだったことは知っていましたが、いきなりプレカリアートなどという雨宮処凛語(!)が出てきたりして、またしても彼一流の翻案なのだわと、恐れ入ったりしました。

    今の日本のビジネスマンや大学生・高校生に、自分の問題として『職業としての学問』を読み替えて理解してもらおうという意図はあっ晴れなのですが、どうもその依拠する市民社会や国家そのものが崩壊してしまっている現代に、有効なものなのか私にはよくわかりません。

    それにウエーバーの本は、半分以上批判的に読むことで初めて現代に生きてくるものなので・・・・・

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著者プロフィール

1864-1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。代表作は、本書に収められた講演(1919年公刊)のほか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920年)など。

「2018年 『仕事としての学問 仕事としての政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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