- Amazon.co.jp ・本 (151ページ)
- / ISBN・EAN: 9784833419154
感想・レビュー・書評
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現代語訳ならぬ「現代訳」。その心は、今の日本の悩み多き若者たち向けに、現在の文脈のなかでウェーバーを読み替える試み。『下流社会』の三浦展氏らしさが出ていると思う。巻末の姜尚中氏との対談や、本書成立の過程を記したあとがきから読んでみるとよい。
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いまさら!って気もしますが。
マックス・ウェーバーの職業としての学問を現代風にアレンジして訳し直したもの。若いサラリーマンを読者層に狙ったのでしょう。狙いすぎな気もしますが、時代を超えて訴えてくるものがあります。姜尚中氏との対談が付いています。 -
フランスと違ってドイツには学問の不死の存在は存在しない。研究と教育という二つの課題を持つドイツの大学の伝統を正当に評価すべきです。
学問の分野で何か実際に完成した仕事をしたという確信は、この上なく厳密な専門的な研究ウをなしえたときにのみ得られるもの。だから隣接領域に手が広がっていく研究、特に社会学者は林節遼幾にしょっちゅう手を広げざるを得ませんが、そういう研究を達成するにはあきらめが必要です。
ゲーテ級の個性的な人物でも、自分の人生そのものを芸術作品のように創作しようとすれば、彼の芸術は疑問視され、彼は芸術によって報復されるでしょう。
学問における進歩のような概念は芸術にはない。
学問は神への道だった。学問を合理主義や主知主義から救いだすことが神と一体化した生活の大前提だというのが、宗教的な気分を持った現代の若者たちの、あるいは宗教的な生きがいを得ることに懸命な若者すべてに共通しています。
学問に意味はない。なぜなら学問は我々にとって唯一重要な問い、つまり我々はなにをなすべきか、われわれはいかに生きるべきかという問いに何も答えないからである。学問はその問いに答えない。これは全く争う余地のない事実。ただ十洋なのは、どういう意味で学問が何も答えないかです。
アメリカの若者は何に対しても、誰に対しても伝統や役職に対しても経緯を払わない。彼らにとって重要なのは個人的業績だから。
学問に価値があることが前提されている。
どんな学問も絶対的に無前提ではない。またどんあ学問も、その前提を拒否する人に対して、学問の価値の根拠を説明することはできない。 -
難解な印象を持っていたが、この翻訳(解釈?)のおかげで読みやすかった。逆にすらすら読めすぎて、もっとかみしめて読んだ場合にこころに残るであろう箇所が右から左に流れてしまったのではと不安。
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6/28:マックス・ウェーバーの本を読んでみたかったのだけど、とっつきやすそうだったので、これを借りてみた。昔々の講義(講演)らしい。
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訳者の三浦氏が 姜尚中氏との対談で言っているように「プロ倫」の訳を諦めた代わりに、「職業としての学問」を訳したとのこと。
三浦氏の過ごした学生時代の特異性からウェーバーの考え方とフィットしたとのこと。
夏目漱石と同時代のウェーバーはアメリカという新しい資本主義の国に留学に行き、色々悩むこととなったとの見解だ。
真面目すぎるくらい真面目な学者としてのウェーバーが言ったことの普遍性こそ今の時代にはまさしく必要であるし、学生、また、サラリーマンに読んで欲しい本であるとしている。 -
[現代訳]職業としての学問 中身をよく知らずに読んだのだけれども、結局よく分からなかった。自分の中のデーモンに従えば任務はいとも簡単に実行できるとかなんとか。 http://bit.ly/5oINDQ
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■目次
職業としての学問
特別対談 姜尚中×三浦展
■レビュー
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すでに広く普及している岩波文庫版に尾高邦雄訳と、その後に脇圭平訳があり、そして今年2月に中山元訳(日経BP社)が出ているのを尻目に、今をときめく「下流社会」の三浦展が、単なる翻訳書というのではなく、換骨奪胎してあえて世に問う問題の書です。
いやらしくなく強欲的でなくサラリとさり気なく、「姜尚中さん絶賛!」という惹句=キャッチコピーと一緒に、TVで見慣れた本人の超アップで写った腰巻き=帯がかかっていたり、巻末に堂々と姜尚中との対談が載っているのはご愛敬というものでしょうか。
いや、違います。これは、そうとう戦略的な、虎視眈眈と大ベストセラーを狙った本です。
でも、何故★1つなのかは、2000年に我が長部日出雄が『二十世紀を見抜いた男・・・マックス・ウエーバー物語』を出した際、それに啓発されて読み散らかしていたマックス・ウエーバーを、殊勝にもまとめて系統的に読み返そうと発奮した張本人の私としては、これはどういうことなのかと自分でも疑うほどなのですが。
もちろん、たとえ90年前の著作でも、マックス・ウエーバーが古臭くてまったく役に立たない遺物であろうはずもなく、あるいは、三浦展の一橋大の卒論がマックス・ウエーバーだったことは知っていましたが、いきなりプレカリアートなどという雨宮処凛語(!)が出てきたりして、またしても彼一流の翻案なのだわと、恐れ入ったりしました。
今の日本のビジネスマンや大学生・高校生に、自分の問題として『職業としての学問』を読み替えて理解してもらおうという意図はあっ晴れなのですが、どうもその依拠する市民社会や国家そのものが崩壊してしまっている現代に、有効なものなのか私にはよくわかりません。
それにウエーバーの本は、半分以上批判的に読むことで初めて現代に生きてくるものなので・・・・・