- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784862380685
感想・レビュー・書評
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哲科の人には物足りないだろうが、何から読めばいいか見当もつかない人には「この人こんな感じだよ」と紹介してくれるのでとても良いと思う。個人的にも読みたい所が広がって良かった。
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飲み屋でカントが同席していたらどうだろう?
「飲むべきであるがゆえに飲みうる」とか「飲むことよりも、飲むに値する人間になれ」なんて鬱陶しいことばっかり言ってて降参か?
グッとくる哲学者の殺し文句がある。
「それはあるところのものではなく、ないところのものである」(サルトル)
わけなんかわからなくてもなんとなくカッコよくて人前でつぶやいてみたくなったりする。
「私は私であって私ではない」
これは誰だ? …幸福の科学の代表の人(笑)
哲学ガイドというよりも哲学書ガイドである。哲学書に取り組むための基礎訓練としてミーハーな気分で魅惑のセリフに浸ってみる。
「哲学とは始まりの更新である」(メルロ=ポンティ)
「<私>の宣言には私の死が構造的に必然的である」(デリダ)
「光が、光と闇を顕す」(スピノザ)
「お前はすでに知っている」(ソクラテス)
「ものごとは、もっとも情熱的にそれを求めるものに対して、もっとも早くその姿をあらわす。われわれの必要が、われわれの知力を研ぎ澄ますからである」(ジェイムズ)
などなど。
昨年あるセミナーに出かけて行って初めてナマ鷲田先生を体験した。大阪大総長までつとめた方だが、磯野波平的風貌、軽薄な(よい意味で)物腰と語り口は哲学者というよりたこ焼き屋のオッサン髣髴でずいぶん親近感を持った。
ここ何年かは臨床哲学という取り組みを続けているが、臨床とは「身を置いたら、思っていたものが全部壊れてしまう体験」という姿勢を見習ってゆきたい。 -
鷲田清一と永江朗が、大哲学者の「グッとくる」言葉をネタに語り合う。あんまり意味が分からないけどカッコいい言葉を永江朗が提示し、それを鷲田清一が解説するスタイルで話が進んでいきます。
しかし、なにかと男女間の話に喩えようとしたり、なんだか飲み屋でしゃべってるようなラフな感覚が読んでて面白い。内容は決してラフじゃないのだが。 -
10月8日課題図書
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立ち読み:2011/5/7
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[ 内容 ]
意味もよくわからないのになぜかグッとくる。
哲学者の書くとぎすまされた言葉には、歌舞伎役者の切る「見得」にも似た魅力がある。
かたや大阪大学総長にして臨床哲学者、かたやフリーライター、肩書きにちがいはあれど、ともに哲学にとことんイカれた2人が、キェルケゴール、デカルト、カントから、ニーチェ、サルトル、メルロ=ポンティまで、古今東西の哲学者23人の「グッとくる一言」を題材に、哲学の魅力、おもしろさ、アブなさを語りつくす。
ときにはんなりとやわらかく、ときに熱く繰り広げられる、極上哲学漫談。
[ 目次 ]
セーレン・キェルケゴール―『死に至る病』
ジャン=ポール・サルトル―『存在と無』
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン―『論理哲学論考』
オルテガ・イ・ガセット―『大衆の反逆』
エドムント・フッサール―『デカルト的省察』
カール・マルクス―『資本論』
フリードリッヒ・ヘーゲル―『法の哲学』
フリードリッヒ・ニーチェ―『善悪の彼岸』
エマニュエル・レヴィナス―『全体性と無限』
ロラン・バルト―『テクストの快楽』〔ほか〕
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
トイレにあり。
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読むのに頭をとても使う本。おもしろいんだけども。個人的には表装がすごく好き。
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「相手のものになってしまう、言いなりになってしまう。自分で自分をコントロールする能力を失わされてしまう。これが快楽の最たるものと違うの?だからセックスが小さな死、というのは、自分というのは死ななければならないということ。」
いつもの柔らかで和む鷲田清一ではなく、かなり懐を開帳した生の鷲田清一を垣間見れる。そんなこと言っていいの?っていうことをサラッと言う。
やっぱり、カントは一般受けしない、頭の固い禁欲的理想主義者だったようだ。 -
サインもらってもた☆