二十世紀の忘れもの: トワイライトの誘惑

  • 雲母書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (385ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784876720729

作品紹介・あらすじ

二十世紀が受信し忘れた量子力学の美しい物語を宇宙物理学者と編集工学者が詩的言語で読み解く『ナイーブ・フィジックス』への道標。

感想・レビュー・書評

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  • 尊敬する佐治晴夫先生と松岡正剛の対談本。どちらも好きな方なので、その二人が対談しているだけでも嬉しい本だが、やはり内容もとても面白かった!一つのテーマに対して科学、芸術、文化、歴史、宗教からの話しを交えなが、ロマンチックな意見を交換し合うお二人に本当に憧れを抱きました。
    知識の幅の広さも素晴らしいんですが、その解釈が本当に素晴らしいです。

  • ・さて、この風景は、晴れた日の昼間、望遠鏡のレンズ越しに“真昼の星”を見ているときの様子なのだが、人々はどうして、こんなにも“真昼の星”を見て心を揺り動かされるのだろうか。それはおそらく「昼間は太陽の光にはばまれて、弱い星の光は打ち消されてしまって見えないのだ」という常識にとらわれているからだとも言えるだろう。

    ・佐治: 私はよくこんなたとえを出すんです。森を調べたいという時に、二つの方法があると思うんです。その一本一本を徹底的に調べるやり方と、もう一つは木と木の間にあるものを見ていくという方法です。たしかに森を知るために木を一本ずつ調べていくことは大事なことですが、よく見ると、その木と木の間に落ち葉があって、虫がいてということで森がつくられているんですね。

    ・佐治: 「光だけではものを見ることはできなくて、影がなければ見ることはできない」と、ゲーテが書いているでしょう。相反する対極的なものがあって、初めて全体としてものが見えてくるということです。平たく言えば、善とは何かというと、悪があって善があるというように、対極的なものを一緒に考えないと見えてこないんですね。ですから落ち葉を描いているときに、落ち葉があるゆえに落ち葉でないものが見えてくるというのは、きわめて物理学的な見方でもあるんです。私たちは、いつもそんな発想をしているから不思議でもないんですけどね。

    ・佐治: みなさんは「ボールをある一定方向に秒速何メートルで放つと何秒後にどこに着くか」ということを数式にあてはめて予見するのが物理だと思われているでしょうが、ただそれだけでなくて「感じる」という、すごく情緒的な部分があるんですよ。やっぱり最初に夢を見なくてはわからないでしょう。ガストン・バシュラールというフランスの科学哲学者が言いました。「すべてのものはまず知られる前に、夢見られる」とね。

    ・佐治: 物質の構造がどうなっているかは、いきなり見てもわかりません。しかし、ここに水があって墨汁を一滴垂らすと墨汁は広がって、だんだん溶けていきます。ということは、水も墨汁も小さい粒粒でできているかもしれないなあと夢見るわけです。「ああそうか、小さい粒粒でできているのかな」と夢見たところで、本当にそうなのかどうか調べていったら、原子でできているんだとわかるわけです。

    ・松岡: 近代における「自我」の確立や近代社会が確率されてく過程で、ニュートンの強直で力学的な世界像も同時に取り入れられたんだと思うんです。しかもその力学的法則性は、経済学の法則とかに全部応用されてしまって、距離は時間×速度で、速度は距離÷時間で求められるというような説明の仕方を始めてしまって以来のことだと思いますね。
    佐治: それではダメだよということは、直感的に子どもたちが見つけたりしている。最近、とても感動したんですが、三歳の子どもが「水道の蛇口さんは自分で自分を洗えないから、私が洗ってあげるの」と言うんですね。すごいでしょ。

    ・松岡: ぼくはいつも思うんですが、部分を足せば、それで全体になるわけではない。実は部分と全体の関係はけっこう複雑である。たとえば30センチと1メートルの物差しでは、たしかに1メートルのほうが大きいようですが、「では、点の数を数えてごらん」と子どもたちに聞けば、「一緒!」とすぐ答えてくれるわけです。単に30センチとか1メートルとかのメジャーを持ち出せば、とりあえず1メートルのほうが長いけれど、でも、ぼくたちはそこに点を持ち出せるし、夢を持ち出せるし、記憶も恋も持ち出せるんですね。だから、部分が全体を構成する一部とは限らないということなんですよ。

    ・松岡: 『大般若経』のあれだけの情報量を千分の一ぐらいに縮約した玄奘の編集力もあったでしょうね。『大般若経』はだいたい西暦紀元前後のもので、キリストが生まれているころにインドで編集されているんですが、西洋が「愛」を説いているとき、東洋は「空」を説いている。妙なもんですね。しかもこのあと、「なぜ“空”というものと、“色”というものが入れ替えられるのか」ということを追求した時期がありました。そこで、バーガルジュナ(龍樹)がテトラレンマをつくりましたね。あれはすごいですね。
    佐治: そうですね。否定するときにジレンマでなくテトラなんです。四重否定ですね。
    松岡: こういうことなんです。「私が私であることはない。私が私でないことはない。その両方であることもない。その両方でないこともない」。これで、四重否定をしているんです。これはすごいですね。

    ・佐治: たとえば、円形のテーブルがあって、その周りに人が等間隔で座っていて、その一人が私だとします。どの人からも左右対称の位置に水の入ったコップが置いてあります。フランス料理のマナーでは、自分のコップが左にあるのか右にあるのか決まっていると思いますが、それがわからずに水が飲みたくてしょうがないときに、左右のどちらのコップに手を出してよいのか迷ってしまいます。
    松岡: よく間違える。実際に人のパンを食べたりしてね(笑
    佐治: そうそう。だから松岡さんが間違って人のパンを食べた瞬間に、他の人はどれが自分のパンだかわかるんですね。同じように、誰かがどちらかのコップに手を出した瞬間に、他の人はどれが自分のコップなのかわかるんです。だから、手を出す前の、どれが自分のか見分けがつかない状態が“対称性”(シンメトリー)なんです。その対称性が、手を出した瞬間に崩れるんですね。その“対称性の崩れ”が宇宙を発生させた。
    つまり、完全な対称性だと何もおこらない。これもある意味では“空”の状態なんでしょうね。対称性の崩れが、つまり“色”の状態なんです。これをシュレディンガー方程式なんかで書くと、たいへんきれいなんですけどね。
    松岡: 日々の活動で、ぼくもすごく感じるんですが、ぼくはたくさんの方とコラボレーションをするでしょう。そうすると、ありがたいことにぼくと同じようなことを感じたいという方が出てくるんです。でも、同じようになろうとすると、対称性ができあがってしまい、パリティが固まってモーメントが出ない。ちょっとずれないとダメなんですね。

    ・佐治: 私のとても親しい知り合いの外科医が話してくれたことがあります。彼は癌の手術にかけたは腕利きの医者だったのですが、ある患者さんに対して完璧な手術をやったんです。とにかく癌を完璧に取り去ったんですね。ところがその患者さんは、退院する直前に再発して亡くなってしまった。
    もうひとつの例は、同じく彼が診たのですが、75歳を過ぎたお年寄りでした。その方は他にも癌が転移していました。だからとりあえず悪いところを半分だけ取り除いた。そうしたらその方は、なんと15年も生きておられて90歳になるんです。それで彼は、東京大学の医学部のエリートとして勉強してきたことはなんだったのか、非常にショックを受けてしまったんですね。そんなときに、彼と私は宇宙の話をする機会がありました。そのときに「宇宙は空っぽだよ」という話しをしたんです。
    たとえば、太陽をリンゴぐらいの大きさだとすると、地球は1ミリの小さい砂粒で、ちょうど10メートル離れたところにある砂の一粒です。お月様はそこから3センチ離れたところに28日かけて回っている小さい塩の一粒にあたり、木星は50メートル離れたところにあり、太陽系の大きさは、ここ六本木からは渋谷のちょっと手前くらいまでで、あとはなんにもなくて空っぽなんだという話しをしたのです。そしたら彼も、「人間の体の中も空っぽなんだよね」と言うんです。どういうことかというと、空っぽだから、胃が手術で取れるんです、完璧に。

    ・松岡: いまの話で重要なことは、血液のヘモグロビン(血色素)の分子構造と、植物のクロロフィル(葉緑素)の分子構造がほとんど同じだということですよね。鉄とマグネシウムだけが入れ替わっている。ちなみに、緑と青というのは民俗的心理の問題では、なにが「青」かということに触れなくてはいけません。信号がみんな「緑」に見えるのに、私たちはなぜか「青」と言っても気にならない。ただしその問題はちょっと横において、とりあえず緑も青も一緒にして語るとします。
    話しを戻すと、やはり私たちの生命の原型の中には、葉緑素的なブルーというものが前提にあったんだと思うんですよね。赤い血の動物というのは、実はかなり少ない。ぼくの小さいころに、昆虫を潰してみたら血は赤くなく、あのブルーブラッドが出てきてドキッとしました。そうなってくると、地球の酸素によって安定した環境のなかで葉緑素のもっている化学式が、まず根底的に、青的な生命的インフラストラクチャー(下部組織)を作ったような気がしますね。
    佐治: ちょっと理屈っぽくなりますけれど、「青」から「赤」に行くというのは、葉緑素の分子の中にあるマグネシウムが鉄に取って代わったんですね。星の中でおきている核融合反応のプロセスを考えたときに、マグネシウムは核融合反応で、かなり前段階でできる物質なんです。鉄はというと、星が死ぬときにできる物質です。核融合反応での最終生成物が鉄ですね。

    ・佐治: マウナケアっていうのは、標高が4200メートルの山で、その頂上に、反射鏡の直径が8.2メートルもある世界最大級の望遠鏡「すばる」を日本が設置しようとしています。そのマウナケアの頂上に立って、とても驚いたことがあった。空の青さもさることながら、夕焼けがすごくきれいなんです。そこまではいいんですよ。想像できますよね。「きれいな夕焼けだなあ」と言いながら見ているでしょう。そして、目線をスーッと上げると、上は満点の星なんです。
    満天の星と夕焼けが共存している。日本の山でも天の川を見ると小さい星がたくさん集まっているのが見えるけれど、そのレベルの天の川のような星が満点にあって、天の川といえば、まさに牛乳を流したように真っ白なんです。その背景の空は真っ黒というよりも、紺色のような実に不思議な色なんです。ああいうのを見たときに、やっぱり、「人間にとって青っていったい何なのか」とフッと思ってしまいますよね。

    ・佐治: よく私が出す例ですが、「慈悲」の「慈」というのは、サンスクリット語では「メッタ」で、人に喜びとか安らぎを与えてあげるのではなくて、与えてあげようと心から望むことなんです。それから「非」は「カルーナ」という言葉で、人から苦しみとかいろんな不安を取り除いてあげるのではなくて、取り除いてあげようと望むことなんです。

    ・松岡: 10年ぐらい前に知ってビックリしたのに、ホートンの法則というものがありました。ネットワーク分岐の数は、だいたい樹木も血脈も神経系も4.2から4.5ぐらいであるという法則です。ということは、何かの情報を5人とか100人とかに伝えようと思えば、まず4人ずつに伝えればいいというわけです。やたら6人にする必要もないし、支線6本をターミナルから出す必要もなくて、4本ぐらい出せばすべてになる。

    ・佐治: たとえば科学は、すべてを割り切ってわからないものをわかるようにすることだと一般的には思われています。しかし、逆に私たち科学者の感覚からすると、割り切れないことを知ることも科学なんです。寺田寅彦も、「物理学とは、世の中にこんなにわからないことがたくさんあることを知るための学問だ」なんて言っていますしね。だから、「星占いは当たりますか」と問われたときに、星占いが当たるか当たらないかを科学の言葉で説明しようとすること自体が非科学的なんです。

    ・佐治: 屋久島に行ったときに、あるおばあさんから「時計ではいま、何時ですか」と尋ねられたことがありました。おばあさんは時間を時計で計ってなかったんですね。つまり物事は、ある時刻になれば起こるということではないんですよ。ものごとは、その時刻、そのもの、あるいは「事」が「時」を運んで来るんですね。

    ・松岡: まあ、企業文化部なんかをつくっている程度ではダメですね。企業そのものにも「企業自己」があると思うんです。それはコーポレイトセルフみたいなものですが、そこには癖もあるし、エゴもあります。こういうものと、利益と言うその企業自己にかかわらず普遍的に価値が算定できるものと二つあるわけです。もちろん儲かってない企業もあるのですがね。そのときに、企業自己を投影したフィランソロピーやメセナ活動をやるか、あるいはもう一度ゼロから考え直してみて、たまったもの、つまり貨幣のようなものを何か普遍的なものに使うかどうかを考えてみる、その二つがあると思うんです。日本の場合は、「企業自己」から初めて、「普遍」に向かうのが下手ですね。
    たとえば、お金がたまったから、いまオペラがはやっているから呼ぼうとか、スポーツの冠イベントをやろうとか、そういうことを思いつく方は多い。つまり何にでも使えるお金なんだから、いちばん簡単なものに、いちばん影響の出やすいものに使おうと思い過ぎている。それよりも、企業はコーポレイトセルフというか、コーポレイトエゴのような難しい問題を抱えていますから、それに基づいたフィランソロピーやメセナ活動をやった方がいいと思う。そういう視点にたって動いている人たちがあまりにも少ないです。

    ・松岡: 私たちヒト族は、直立二足歩行したでしょう。どうして立ち上がったのでしょうか。サルのように戯れていればいいのにね。しかも詰めをなくし、走力を落とし、牙をなくし、毛皮をとって、最も“フラジャイル”な最弱者として直立二足歩行をしてしまったのです。それで、どんな成果を得たかというと、子宮の入口は小さくなり、脳は大きくなって、どの動物も持っていない大脳皮質を発達させました。しかし、生まれた子どもは動物界では信じられないくらいの未熟児になったんです。だって十月十日をまず懐胎期間として持って、かつ生まれた赤ちゃんは数カ月たっても母親が乳を与えなければならず、一年たっても両親は眼を離せない。これをネオテニーというのですが、つまり私たちは、全生物界の中で唯一“フラジャイル”な動物としての最初の期間をつくってしまったのです。つまり親と一緒じゃないと育たない。
    これが、私たちの「はじまり」というものなんです。これが太始なのです。その太始を、私たちは存在の出発点においてわからなくさせているんです。“情報”は外から訪れて、外来して来ているものだし、そして生まれた「私」としての生命自体も、その太始は母と一緒なんですよ。

    ・濱辺の石はえらい石、みんなして海をかかへてる(金子みすゞ「濱の石」)

    ・松岡: 彼女(萩尾望都)がいろいろなヒントを教えてくれるんです。「いま、ここに誰かがいて、いなくなったという情景は、絵では描けないし、映画でもできない。でも、マンガでは描ける」と言うんです。「誰かそこにいたな」という気配を描ける。「何か、一人多いな」とか、「誰か、一人いないかな」とか、「あっ、この夕暮れで、この椅子に誰かに座ってほしい」とかいうことが描けるんだ、と言うんですよ。

    ・佐治: 最近、私がちょっと個人的にやってみておもしろかったのは、望遠鏡を使わないでも昼間に星が見えるというエクササイズです。ぜひみなさんも一度やってみてください。窓なんかに貼る黒い紙を筒状に巻いて、昼間の星を見るのです。金星ならばよく見えます。金星は季節によって太陽から何度くらい離れているかがわかっています。いまは、ちょうど40度くらい離れています。手をいっぱいに伸ばしたとき、握りこぶし一つが10度くらいですから、太陽から握りこぶし4つぐらい離れているところに金星がありますから、見当をつけて筒を向けるのですね。

    ・佐治: 「宇宙」という言葉は、いまから2000年以上も前、中国の非常に古い古典的な文献『淮南子』の中に、その定義が書いてあります。「宇」というのは、「四方上下のことだ」と書いてあります。それは言い換えれば、前、後、左、右、上、下のことだから、“空間”ということを意味しています。それから、「宙」というのは、いろんな書き方があるのですが、往古来今(おうこらいきん)だと書いてあります。つまり過ぎ去ったことと、そしてこれから来るということです。つまり“時間”ということですね。となると、「宇宙」という一つの言葉でもって時間と空間ということを示しているということです。

    ・佐治: さらに考えてみると、「分かれていないもの」ということは、私たちに「認識できないもの」だということになりますそれで「分かれていない状態」のことを物理学では、“無”と呼ぶのですね。分かれていないということは、他と区別がつきませんから、私たちの認識を超えているということです。

    ・佐治: 宇宙が広がる中、光の粒が散らばって「自由」に動いている。だけど、これは「自在」に動いているわけではないんです。私は昔、家庭教師をしていたときに、『自由自在』という参考書があって感動したのですが、自由と自在というのは違いますよね。自由というのは不自由に対しての自由です。だから「自由にしていいよ」と言われると困るんです。ほんとうに自由に勉強していいよと言われると、何をやっていいか困ってしまう。だけど自在というのは、やっぱりその枠を飛び越えていくことですよね。

    ・松岡: 一般的に、ある人の中には周期的に回っているある言語があるんです。ある言語があるカオスを伏せたまま、つねにその周りをずうっと回っているんですね。この話もあの話しもその周期の中だけで回っている。本人はいろいろ説明したり、解いたり、自慢したり、あるいは自信を喪失したりするつもりになっていますが、そのカオスの「縁」に、ほとんどの問題が出ていましてね。だからブレイク(脱却)がないんですよ。
    …それの解決法はさっきすでに言われているんですが、実際に170キロを出して運転しているときの自分の視点をいまの状態にいながら170キロの外側の視点で想定できるかということにかかっていると思います。
    体験をバラバラにしないことですね。とくに快感のあった体験をつなげていけるかどうか。バルトークを聞いたことと自転車で土手を走ったことの、その両者の視点を同時にもって、自分を含めた世界を再記述する側にまわれるかどうかだと思うんです。しかもそれをゆっくりやったのでは、おそらくダメだと思う。自分のテンポに合わせて自分のできるときにやろうと思っているかぎりではダメで、むしろ、異常と言うとちょっとまずいけれど、ちょっとつんのめらないといけませんね。

    ・松岡: 蝶々が夢を見ているのか、夢が蝶々を見ているのか、どちかわからない。
    佐治: そう。それで目が覚めたら、ああ、あれは夢だったと気づく。しかし、そこで終わらないで、じゃあここいいる私というのは、あの蝶々が見ている夢かもしれない。
    松岡: 「胡蝶の夢」。
    佐治: このひっくり返しがいいですよね。実はね、数学を解くときにはほんとうはそれがあるんですよ。何か易しい幾何で問題をご一緒に解いてみるといいと思うんですけれど、その発想があると実に明快に解けるわけです。幾何学でも補助線をどういうふうに引くかということですが、補助線を引くのではなくて、その補助線を引かれた反対側から見ると解けるんですね。

    ・松岡: 古代的なユダヤ教の時代には、よきアニミズムというものがありましたね。それが新約聖書では少なくなっている。もともとモノが動くということと、私たちの脳が動くということと、あるいは感じるということは、ほんとうは“対”あるいは“多対”の現象になっていて、それを今日的な目で見るとアニミズムっぽいとか、シャーマンぽいとかいう話しになるんですが、そっちのほうがほんとうなんです。それが紀元前後になってきて、キリスト教が誕生するころですが、オリゲネスなどの教父神父が登場しまして、奇跡や秘跡を説くようになっていったんですね。つまり「このとおりにしなさい」と言うことしか、自信がなくなってくるんです。
    佐治: 制限を強めたんですね。
    松岡: 多様な解釈に置いておいたほうが、かえって任意に選んだ人のパワーを増幅するんだ、ということがもう信じられなくなっているんです。

    ・佐治: 記憶するということは、脳の中で何かの配列が変わるわけでしょう。変わるということによって、過去と未来の区別ができる。私はそれが時間を感じる起源だと思います。では、記憶するというメカニズムは何かというと、エントロピーの逆ですよね。ネガントロピーでしょ。だからディスオーダーという、無秩序なものがオーダーになるわけです。
    松岡: それが「情報の正体」です。

    ・佐治: この前、宣教師として自信たっぷりの私の知人がおりまして、彼が私のところに来て悩みを打ち明けたんですよね。彼はアフリカに行ったんですね。偉い人ですから、普段はあんまり現場に出ないんですけれどそのときは出たんです。そうしたら原住民がこう言ったんです。「あなたの言う神様は、年をとって病気になって、お家の中にこもりっきりの神様のように思います。私たちの神様は雨が降れば林の中にも来てくださるし、小川の中にもいらっしゃいます」とね。これは彼にとってはショックだったみたいです。

    ・松岡: 仮にみなさんが30歳だとすると、その間の記憶というのは、夢を含めてすべてあるとしても、それはほとんど再現不可能になっている。ごくわずかな記憶をわれわれは引き出して、自分の青春時代はこうだったとか、「私はこういうのが好みなんだ」とか言っているわけです。ほんとうは、朝起きたときのスズメの声とか、冬、水道の蛇口をひねってもなかなか出ないと思っていたが水が急に出たときに触れたあの冷たさとか、ある夜ラジオから流れていた曲とかということが、それこそ無数に私たちの背後に潜んでいるはずなんだけど、それはもう、ハイデガーの「現存在」の<意識>の中では立ちあがれないものになっているんですね。

    ・松岡: 一枚の紙にデタラメに点を打っていくとします。一生懸命にデタラメな点を打っているはずなのに、よく見ると何か模様になっているみたいで、さて今度はどこに打とうかと考えてしまう。そんなことがおきてきます。やはりデタラメにはなり得ないのです。それなのに、デタラメということがありうると信じているところに、私はすべての間違いの原点があるのでないかと思っています。

    ・佐治: 365個の空箱があって、その中に23個のボールをランダムに入れるという実験をすると、一つひとつの箱に別々に入るだろうと思いきや、「別々に入る」という確率と「一つの箱に二つ以上の球が入る」という確率とが同等になるんですよね。デタラメを原則としているに、「特定の箱にボールが入る」という“かたより”が生じます。だから最初に「デタラメさ加減」ということで確率だけで考えたときに、確率的なもの自体がそういう矛盾を含んでいて、完全にデタラメになりえないということがあるわけです。このことは「いま23人の人が集まったときに自分と同じ誕生日の人がいる確率は二分の一だ」ということを意味しているんですね。それがぼくの数学モデルなんです。
    松岡: いいかえれば、オーダー(秩序)の発生はちょっとしたことでおこるというふうに思ってたほうがいいんですよね。しかもちょっとしたオーダー・パラメーターで大抵予想を覆すことがおこってしまう。

    ・たとえば、ベッドの下に鉛筆が落ちて、床をころころと転がったときに、われわれは身をかがめて拾おうとしますが、そのとき、われわれの体はベッドと床の「隙間の形」になっている。その形にアフォードされるわけですよ。そういうときに、このシステムを解析するのに、ぼくとベッドと鉛筆だけでは解けません。

    ・佐治: せっかくですから、ちょっとかいつまんでお話しさせていただくと、皆既日食が近づいてくると、まわりの風景が何て言うのでしょうか、中世の幻想画家が描いたような、ダリの世界というかキリコの世界というか、ああいう感じになってくる。かんかん照りの真っ青な空が何となくどんよりと鈍くなってきて、空気がだんだん駅代になり、時間の流れも遅くなっていく。すると東のほうに美しい夕焼けが突如として現れる。振り返って西のほうを見ると、向こうから昼と夜の境が走ってきて、それにストンと入った瞬間、太陽を見上げると濃紺の夜空に真っ黒な穴があいているという感じなんです。その穴の周りは実にきれいなコロナが、白髪の髪の毛のように細い光芒として見えているんです。

    ・松岡: ぼくは愛国心もあるし、日本も好きですし、相撲も好きだし、諏訪神社の御柱祭も好きなんですが、何が根本的に間違っているかというと、まずサイズが違うんです。あの大きな会場というスケールの中で見せるサイズではない。たとえば鏡餅というのをどうしても見せるというなら、あの広い空間に鏡餅をちょこんと置いてもダメですよね。大きなスタジアムでも鏡餅だと思えるかということを考えていないですね。だから土俵入りにしても、横綱にしても、御柱にしてもそうです。これは日本のことがわかってないんです。三方ひとつにしても、ヒモロギにしても、どこでも使えばいいというものじゃない。プロポーションを考える必要もある。

  • 世の中で起きている事象をあれこれたとえ話とか引用を絡ませながら2人の「知の巨人」が対話していく形式。悪い意味でスノッブさが鼻につくし、引用が内輪受けだったりするのがキモチワルイ。「さすが先生はそう来ましたか」「いやいや先生こそご慧眼」みたいな。

  • 分類=対談集。99年1月。

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著者プロフィール

1935年東京生まれ。理学博士。鈴鹿短期大学名誉学長。日本文藝家協会会員。大阪音楽大学大学院客員教授。元NASA客員研究員。東大物性研究所、玉川大学、県立宮城大学教授などを経て、2004年から2013年まで鈴鹿短期大学学長。量子論に基づく宇宙創生理論「ゆらぎ」研究の第一人者。NASAのボイジャー計画、“E.T.(地球外生命体)”探査にも関与。また、宇宙研究の成果を平和教育のひとつとして位置づけるリベラル・アーツ教育の実践を行ない、その一環としてピアノ、パイプオルガンを自ら弾いて、全国の学校で特別授業を続けている。主な著書に『宇宙の不思議』(PHP研究所)、『夢みる科学』(玉川大学出版部)、『二十世紀の忘れもの』(松岡正剛との共著/雲母書房)、『「わかる」ことは「かわる」こと』(養老孟司との共著/河出書房新社)、『からだは星からできている』『女性を宇宙は最初につくった』『14歳のための物理学』『14歳のための時間論』(以上春秋社)、『THE ANSWERS すべての答えは宇宙にある!』(マガジンハウス)など。

「2015年 『量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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