- Amazon.co.jp ・本 (333ページ)
- / ISBN・EAN: 9784901477765
作品紹介・あらすじ
よろこびは町のなかに、パリを愛し、パリに愛された写真家の言葉のスナップショット。街と人、写真をめぐる30話。
感想・レビュー・書評
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写真がよく情景をとらえている
撮影時のお話のあれこれ
ポーズは誰がつけているのか -
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翻訳が堀江敏幸さん。写真のことは詳しく分からないけど、一気に引き込まれて、思わず立ち読みした。 -
「全国大学ビブリオバトル2014~京都決戦~四国Aブロック地区予選」
(9月29日/徳島大学附属図書館) (チャンプ本)
所蔵なし -
フランスの写真家ドアノーの原動力は好奇心、不服従の精神、そして魅了される力。洞察力に満ちた感覚で日常に潜むドラマを作品に残している(例えばパリ市庁舎前のキスなど)。頑固で不器用でややひねくれたユーモアのある彼の話し言葉のような自伝(すこし難解ではあるが)を読むことができることは大きい。彼が写真を撮るに際して影響を受けたのは詩人だった。きみが《写真を撮る》って動詞を活用するときは、いつだってレンズの半過去形でなんだ(ジャック・プレヴェール)。
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"機会あるたびに、私は彼らの写真をさっと掠めとるように撮影したものだ。
それがまっとうなやり方かって? 考えたこともない問いだ。”
・・・いい時代だったんだろうな。
パリの写真家(1912-1994)。
ブレッソンを語ったところが面白かった;
”即決こそが、彼の領域なのだ。
「力いっぱいに、巻かれたゼンマイ」。こんな評言が彼の気に入らないはずはないだろう。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの精神のメカニズムは、電光石火で機能する。この直観と地理と文化、そして他の多くの素材を精神に混ぜ合わせるために、彼の頭の歯車はなんと素早く回転していることか。”
”しかし、驚くべきことは、おびただしい苦役を犠牲にして得られたイメージが、正確無比なフレーミングのなかで、じつにみごとな均衡と穏やかさを示していることだ。”
”アンリ・カルティエ=ブレッソンとは、キューピッドとその矢である。優雅さと集中力。今度会ったら、そのあたりをちょっとつついてみよう。” -
amazonの「おすすめ」で目にした本。表紙に惹かれてる。でも、円高の日本に注文して送料込みで買う、までの道は遠い。
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『これがヌード写真だったら、同様の実験をするのは無理だったろう。女性の身体は流行の気まぐれをこうむって、あまりにも形を変えやすい。映像の二重映しを許さないのである』-『「デ・ブブリエの抜け道」におけるアジェ氏』
例えば、全く読めないにもかかわらずフランス語の本を読みたいという気持ちだけで、発音すら覚束ないままに読み(?)進めたとして、そこからは何も生まれないのだろうか、と考えてみる。論理的に考えれば、何も意味として理解され得ないのだから何かが生まれるべくもない、との答えに至ることは至極当然だと解ってはいるのだが、どこかでそれを否定したい気持ちがやはり残る。
ことは単に言葉の意味の問題なのだろうか、ということなのだ。フランス語でなく英語なら何かが生まれるか。もっと端的に日本語で読む場合なら必ず何かが生まれると言えるのか。そんな風に誰に対するでもなく詰問したい気持ちが沸々と湧いてくるのだ。
もちろん、ドアノーの語る世界に親しみがある人ならば、この「不完全なレンズで」でドアノーが「言っている」ことにきっと直ぐに「ああなるほど」となるのだろう。彼が言及する芸術家や文化人、その作風や人となりについて、前提となる知識があればドアノーが「言わんとしている」こともより深く理解できるには違いない。しかし、何故か自分には「言っている」ことに対する既知が「言わんとしている」ことの理解に対する絶対必要条件であるようには思えないのだ。それが絶対必要であるとすると、自分の中で静かに湧き続ける頁を繰りたい気持ちの源はなんなのだろう、と解らなくなってしまうのだ。
本の価値は情報だと断定する作家もいるけれど、そうであれば、この本の価値は文中に数多く添えられた注釈の番号と本の後ろにまとめれた事実にこそある筈だ。しかし、ドアノーの語る世界を知ることがこの本の面白さの全てなのか。自分が頁をめくりたいと思う気持ちは事実の発見や「へえー」と感じるところにあるのではない、と断言できる。ドアノーの語られた世界を知ることではなく、ドアノーが世界を語るのを聞くことが面白いのだ、と。
例えば、自分はたまに英語で小説を読んだりもするけれど、その読みたい気持ちの何割かは、このドアノーの本を読んで面白いと思う気持ちとつながるものだと思う。翻訳されたものを読めばよりよく小説が語っていることは理解できるのに、敢えて曖昧な理解を抱え込みながらも作家の書いたままの文章に接して生まれてくる何かを感じたいという気持ちを、あきらめることができない。理解できている世界がたとえ小さかろうとも。そして、その考え方を推し進めていくと、読めもしないのに、この本は原文のフランス語で読んでみたらどうなるのかな、という気持ちに辿り着いてしまうのだ。
それは何も「オリジナル」に対するこだわりではないのだと思う。結局のところ言語に対する非常に大きな懐疑と、人と人とのコミュニケーションは大いなる幻想と勘違いによって成り立っているにもかかわらず、結局のところ通じ合い得るのだと確信が、そこにはかかわっているのだと思う。そういえば以前、川上弘美のフランス語翻訳をかなりまじめに購入してみようかと思ったこともあったけ。
ドアノーの言わんとしていることが確実に理解できたとはおよそ言い難いけれど、ドアノーが何かを言いたいという気持ちで溢れていることは間違いなく受け止められる。その納得さえ得られればこの本を読んで面白かったと言ってもいいんだろう、と自分は、やや慎重に判断するのみである。
『私はそれらを、郊外人たちにおずおずと見せた。目にしたのは、まったき関心の欠如だけだった。宝の発見者としての私の歓びは、ひとさまに伝わるようなものではなかったのである』-『ヴィラ・メディチとバヴィヨン・ミミール』