完訳カント政治哲学講義録

制作 : ロナルドベイナー 
  • 明月堂書店
3.71
  • (1)
  • (3)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 71
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903145389

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • カントの美学的判断力には、特殊的(個別的)対象に対して概念によらず形式だけを直観する感性的な側面と、同時に主観的ではあるが、悟性的な合法則性つまり普遍性がある(主観的普遍性=範例的妥当性)。美は、普遍的なものから特殊を規定する客観的認識の悟性概念の判断(規定的判断)とは異なり、特殊を主体が反省して普遍的な合法則性に包摂する判断(反省的判断)である。反省的判断には、客観的普遍性はないが、主観的普遍性として、人間の感官の形式が同じであることから、同条件として、個別的な他者に伝えられる一般的伝達可能性がある。そして、その根底には共通感覚(共同体感覚)がある。
    アーレントは、このカントの美学的反省的判断(趣味判断)の構造から、他者の立場に自身を置く複数性に、政治的判断を見出し、理論づける。
    講義録の前に収録されている「「思考」への補遺」では、意志だけでは見出しえない人間の尊厳を判断に求めることが示唆される。講義録の後の「構想力」では、カントの判断力において大きな役割をもつ構想力の分析が展開される。
    編者ベイナーの解説では、講義録の解説だけでなく、ベイナーの観点として、ニーチェとアーレントの対比がなされ、生の意味づけに対するニーチェの問いをアーレントが共有してたという論が面白い。ニーチェは瞬間を永遠化することによって意志を過去に対して満足させるが、アーレントは回顧的判断力によって過去の瞬間を不滅にする。いずれも固有性の問題といえる。ニーチェがカントに対しての呼応し真逆の回答を突きつけているところも浮き彫りにさせる。
    ストーリーテラー的に、アーレントが饒舌にカントの哲学を読み解いていく。講義形式なので読みやすく、カントの思考のおもしろさを豊富な文献引用で、充分に引き出している。他方で、普通の『判断力批判』解釈と異なった、政治哲学的観点からのアーレントの着眼点と独自性を愉しむことができる。アーレントの政治哲学に、カントの思考方法がうまく合致して生まれた講義といえる。
    この講義のコンセプトは、『人間の条件』における活動の重要視する立場を転換し、哲学的な判断へと力点を置いている。『人間の条件』は本来のタイトル『活動的生活』として、活動が第一義的に強調されているが、生は残り半分の観想的生活を改変した『精神の生活』「思考」「意志」に続く「判断」で述べられるはずだった(いずれもカント3批判がモデル)。そのヒントがこの講義にある。
    なお、カントの注釈で、判断力の欠如、幸福で測る人生の無価値などの注釈に注目した引用は、カントを読んでいて印象的な箇所だったので、楽しめた。また、『純粋理性批判』の二項対立を超える方法としての批判という解釈は、ポストモダンにも繋げうる捉え方だ。ヘーゲル(とマルクス)の否定的消極的な批判の意味とは異なる、という対比があることでさらに際立つ。また、歴史的進歩についても、カントの永続的な終局なき進歩というものは、ヘーゲルマルクス的な終末論の閉鎖性を超える、現代においても使用に耐えうる概念であるといえる。アーレントの観点は、マルクス主義的な哲学史解釈を、カントに戻って刷新するという効果があったように思われる。
    主眼は、カントの著作から政治的思考を抽出することにあるが、そもそも、いかなる分野でも凝縮された思考は政治的になるように思う。また、ベイナーの解説における引用にあるように、ヨナスが「カントの主張は最高善であって、判断力ではない」というのは的確であって、アーレントの意図的抽出であることは間違いない(カントは気づいていないとまでいう)。他者の立場から考えるというのはかなり曖昧で、多数の側に立つことや感情移入ではないという前提があるにせよ、これは小学校的な道徳ではないかとも思う。世界単位でそれすらできていないというのはそうかもしれないが、改めて理論化されると自明性は拭いきれない。いずれにせよ、カント解釈の政治的観点という新しさに本書の価値があるといえる。
    なお、訳者の仲正昌樹の著書である『〈法と自由〉講義』において解説しているカントの著書が、本書における引用元と完全に重なっていて、アーレントの観点と密接に結びついていたのだと腑に落ちる部分があった。訳者の好みに合わせたのかもしれないが、「というのは、」など句読点でつなぐ引用の仕方も共通している。後半は英訳に忠実であるが故に=で繋いで言語を、()で表示するなど、読みにくい部分はあったが、研究に利用するにはこの方がよいのかもしれない。
    本書はカント『判断力批判』の豊かな読みとしての活用にもよいし、アーレント『責任と判断』『革命について』などの著書への導入にもよいといえる。
    ・編者ベイナーによる序文
    本書の目的は、生前書かれなかった『精神の生活』第三巻『判断』におけるテーマについて参照できるテクストを示す。最初のテクストは『精神の生活』第一巻に対する補遺であり、計画と主題と意図を示しているので、『判断』への序曲となる。『カント政治哲学講義録』は、カントの美学的政治的著作の解説であり、『判断力批判』に政治哲学のアウトラインが含まれていることを示すもの。このあとに行われたセミナーから採った『構想力についてのノート』は、講義と密接に関連する。「範例的妥当性」と「図式性」が、構想力によって結びつくこと、両者にとって構想力が基本的範例的であることを示す。本書は講義ノートであるから、構成されたものではないが、生前展開できなかった諸観念へのアクセスを可能にする。アーレントの引用は大雑把で不正確なものもあった。
    ・「思考」への補遺
    思弁のパースペクティヴから見れば、意志と判断は、まだ存在しないか、もはや存在しないかのいずれかである。意志と判断は、思考活動であるにも拘らず、現象界に遥かに接近している。目的なしの意味を探究する理性欲求に際し、共通感覚=常識は不快になるがゆえに、"思考は、あるべきものを決定し、存在しないものを評価する準備"だと欲求を正当化したくなる。
    →決定判断のために思考はあるとして、思考に伴う不快を宥める(なだめる)。
    とすると、判断は意志のための準備になる。制約付きの正当なパースペクティヴではある。しかし、思考が非有用だという非難からの擁護にはならない。意志は、欲望や熟慮から導き出せず、因果を中断する自由か、幻想のいずれかである。意志は、ベルグソンが言うように、欲望と理性に対する「一種のクーデター」である。このことは、「自由な行為は例外的である」ことを含む。自由に触れず、意思を語ることは不可能。
    →意志は欲望や理性を中断する自由な決定としてあり、思考を必要としない。
    判断は、演繹・帰納では導き出せないということを示す。つまり、判断は、論理的操作とは無関係である。「沈黙の感覚」を探究する。それは、「趣味」美学に属すると考えられていた。実践的道徳的には良心と呼ばれていたが、良心はなすべきことを告げるだけで、判断しない。良心の声は、人間の法と規則を超え、彼方の権威に依拠する。カントは、判断力を、訓練できるが、教えられない特異な才能として示す。思考する自我が、現象界に回帰するための、現象を扱う新しい才能。カント曰く、「愚かな頭でも博識になれるが、判断力は欠けているから、使用において改良されない欠点をもつ学識者がいるのも不思議ではない」。
    →カント『純粋理性批判』注、馬鹿は治りません。
    判断力の助けは、統制的理念の理性であるが、能力的に分離されているならば、判断力には固有の作用の仕方がある。このことは、二つの道を示す。ヘーゲル的に歴史的進歩を判定とみなすのか、カント的に精神の自律を歴史と無関係とするか。
    歴史の語は、ギリシア語起源であり、いかにあったかを告げるために探究することhistorein。ヘロドトス、あるがままのものを語ること。動詞の起源は、ホメロス『イリアス』、歴史家historは、判定者である。歴史家は、過去を物語ることによって、過去についての判定を下す位置にいる、探究者である。★
    であれば、歴史という近代の偽りの神に、歴史判定者としての権利を否定し、人間の尊厳を返還請求できるかもしれない。これを含む、政治の原理を要約する老カトーの言葉がある、「勝者の大義は神々を喜ばせたが、敗者の大義はカトーを喜ばせる」。
    ・カント政治哲学講義録1970秋
    ・第一講義
    カントは、政治哲学の著作がない。ハンスザーナー、ヤスパースがそのようにカントを扱うが、カント自身は『永遠平和のために』などを観念の遊戯、単なる遊覧旅行、夢想と呼ぶ。人間を立法的存在として扱うカントの実践哲学は重要だが、法哲学ならばブーフェンドルフ、グロチウス、モンテスキューに取り組むべき。
    カントは歴史について触れているが、中心概念ではない。歴史ならば、ヴィーコ、ヘーゲル、マルクス。カントにおいては、歴史は自然の一部。人類は被造物の一部であり、創造の最終目的であるが、偶然の憂鬱さを指摘する。それは、歴史進歩に仕向ける自然の狡知(こうち)。個人の有機的発展との類比による世界史。
    →人間の技術との類比による自然の技巧、神の創造
    カントの関心は、過去ではなく、人類の未来。人間は、自然によって、楽園から追放された。幼児保育の無害安全からの追放によって、歴史が始まった。歴史の進歩の産物は、文化、自由。人類の使命である社交性。進歩は、個人の生にとって、憂鬱な悲しい観念。
    カント、今ある状態は、彼がそこに入ろうと用意しているさらに善なる状態に較べれば、常に悪であり続けるからである、だから究極目的への無限な前進という表象は実は同時に諸悪の無限な系列を予想することでもあるのだ、そのため…満足が生じることはない。
    歴史に関する著作は、老人性による知能低下があるとする異議がある。これに対抗するために、カント初期の『美と崇高の感情にかんする観察』を読んでほしい。著作と伝記を知れば、社会的なものから区別される政治的なものこそ人間の条件の基本であると気づいたのが晩年であると言いたくなるはず。そこで『判断力批判』の意義、すなわち批判的応答の前二批判と異なり、自発的に書かれた本書こそが、偉大な仕事の欠落部分をカバーする一冊ではないかと言いたい。★
    カントの批判後の二つの問題。思考が知る限界を超えてアンチノミーに陥る、理性のスキャンダル(躓きの石)の問題を先に片付けようとして残した。1970年の認識と限界の発見が『純粋理性批判』につながる。堤防のように除去しない限り進めない途上の石。このことで『人倫の形而上学』は、1970年に執筆し、出版は30年後になってしまった。仮タイトルは「道徳的趣味批判」であり、三批判でも趣味の批判と読んでいた。18世紀のトピックだった趣味の背後に判断力を発見し、美醜の趣味の判断と分けて、道徳的正不正を理性のみで決定されるべきとした。
    ・第二講義
    カントの二つの残された問題、第一は「社交性」。人との相互依存、神との相互依存。『判断力批判』あるいは「趣味の批判」が、批判期以前の積み残しの問題への応答であることは明らか。「美と崇高の感情にかんする観察』の中で、吝嗇な金持ちカラツァンが、夢で神に永遠の孤独を宣告され、現実で人間の尊重に目覚めるという思考実験が出てくる。
    第二は、「なぜ人間が存在しなければならないのか?」。カントは三つの問いを哲学の固有の任務としている。「私は何を知りうるか?」「私は何をなすべきか?」「私は何を望むことが許されるか?」そして、講義の中で第四の問い、「人間とは何か?」を追加している。四つを『人間学』に入れられるとし、最初三つは最後の問いに関連しているからだと述べている。第四の問いは、ライプニッツ、シェリング、ハイデガーの「なぜ無ではなく、ある物が在るのか」と関連する。この「なぜ」は原因を問うものではなく、むしろ目的を問うもの。それは、自然、生命、宇宙を超えたものでなければならない。
    後期ハイデガーは、人間と存在を互いに前提し条件づける対応関係に置くことを試みている。存在は呼びかけ、人間は保護者あるいは牧人になる。存在は現れのために人間を必要とし、人間は実存のために存在を必要とし、自己自身と関わっている。このようにしたのは、「なぜ」に内在する、目的に対する手段となる相互格下げを回避するため。
    『判断力批判』では、人間が「自然の目的とは何か」問うのは、人間が目的と終点を描く志向的存在者として自然に属する、目的を有する存在者だから、としている。
    『判断力批判』の二つの部の結びつきは弱いが、政治的なものと結びついている。まず、人間を叡智的認識的存在者として語っていない。真理の語は出ない。第一部では現実に存在し生活する人間、第二部では人類として語っている。『実践理性批判』で道徳的法則がすべての叡智的存在者に妥当するとされたものが、『判断力批判』では、偶然的特殊的なものを扱う、地上の人間に限定される。バラの美しさをカテゴリーで論理的に論証するのではなく、偶然的特殊を判断する。第二部では、特殊的自然物の産出を機械的には説明しえないことを示している。機械的因果関係の反対が、目的をもった人為的のような技巧的なもの。
    →人間技術との類比によって、自然の技巧を考える。
    ポイントはいかにして、「理解」しうるかということ。カントの解決は、自然の目的論的原理を自然法則探究の発見的原理として導入することだった。自然や歴史を判断する能力は、社交性、つまり精神的に仲間に依存するという政治的な意義を有している。これは、カントが批判の仕事に着手する前から関心をもっていた問題。
    判断力は、実践理性の立法と命令とは異なり、観想的快あるいは非能動的満足から生じるにすぎない。このときの感情を趣味と呼び、それは実践哲学においては挿話的に語られるにすぎない。
    しかし、フランス革命のとき新聞を待ち焦がれたカントは、注視者=観客の立場だった。「競技そのものには参加していない」けれど、「希望的かつ情熱的に関与」しているつもりで、見守る人々。関与は、単なる共感で、観想的快と非能動的満足から生じたにすぎない。
    初期のカントにはなかった、国家体制的、制度的な問題が晩年に最重要になる。『判断力批判』刊行の1789年、フランス革命の年、65歳の歳以降。特殊、歴史、社交性ではなく、憲法。政治体の組織・構成のあり方、共和制的すなわち立憲的政体、国際関係。
    『判断力批判』65節の注、民族を一つに改編する企図は、有機的組織と表現される。全体の中で、構成員は手段だけではなく目的でもあり、協力によって、全体の理念から自分の地位と機能を規定する。
    晩年の関心は、いかに人民を一つの国家=共和政体へ組織・創設するかという問題と、法的問題。『永遠平和のために』、他国を訪問し、歓待され、一時的滞在ができる権利、訪問権。同論において、偉大な芸術家としての自然が、永遠平和の保証として現れる。これが、『人倫の形而上学』を法論から始める理由。『諸学部の争い』第二部、憲法=国家体制を考案することは非常に甘美である、実現は国家元首の義務。
    ・第三講義
    ヒュームが独断論のまどろみから、ルソーが道徳的まどろみから目覚めさせたように、アメリカ革命、さらにフランス革命がカントを政治的まどろみから目覚めさせた。
    →アーレント『革命について』
    国家組織と道徳哲学(実践理性の命令)を和解させるかについて、カントは道徳哲学が役に立たないと知り、全てを道徳化することを避けた。憲法によって初めて道徳的教養が期待されることを知っていた。アリストテレス、善い人間は善い国家においてのみ善い市民でありうる。しかしカントはアリストテレスを超えた結論、理性的存在者は、普遍的法則を要求するが、個別には逃れようとすることから、私情を抑制し公的秩序を与える体制=憲法を組織することが重要(「諸学部の争い」)。
    →『永遠平和のために』天使の国と悪魔の国
    この一節は決定的に重要。つまり、(道徳的に)悪い人間も善い国家であれば善い市民でありうる。カントの悪い人間は、自分のために例外を設定する者で、悪を意志する者ではない。悪を意志するのは不可能だから。これらは『実践理性批判』より前から懸念だった。道徳哲学用語で定式化されただけ。
    『美と崇高の感情に関する考察』、原則に従っても誤ることが生じるから善き人は少数だが、善良な心の衝動から行為する人は自然意図の遂行としての本能であるから多数。利己心は大多数、勤勉、用心深い、公益的で全体の支えと堅固を与える。
    啓蒙された利己心を軸とするこの理論は、自然の偉大な目的を前提する場合のみしか成り立たないという欠陥がある。ポイントは第一に、自然は種の保存、悪魔は自己破壊。第二に、政治的改善は、改心も革命も要求も期待も必要ない。第三に、一方で憲法、他方で公共性。悪しき思想は秘かなもの。
    『諸学部の争い』、支配者は、国民が不満がなくても立ち上がるだろうから、抵抗する権利を認めない。
    しかし、知りうる、なすべき、望みうるのカントの3つの問いは政治的動物には関わらない。活動と関係がない。社交性の要素として伝達可能性と公共性(ペンの自由)を挙げるが、活動ではない。
    →『啓蒙とは何か』知識人のみならず誰にでも意見を公表する権利がある。
    なすべきは自律行為に関わり、知りうる自己、不死性を望みうる自己と同じ自己。『純粋理性批判』において「何を知りえないか」が重要で、それは神の存在、自由、魂の不死。つまり実践的な問い。そして、至福に値するのであれば、至福を望みうる。講義において、三つの問いを一つにまとめる、「人間とは何か」。三批判には出てこない。『判断力批判』の、いかに判断するかは四つに入っていないので、これらは複数性に関わらない。
    →趣味判断における、社交性、普遍的妥当性、共通感覚
    道徳的法則は、人間だけでなく、宇宙のあらゆる叡智的存在にとって妥当するべきというカントの主張は、複数性を最小限にしてしまう。三つの問いの根底は、自己関心であり、世界ではない。カントにとって最大の不運は、自己蔑視であり、他人からの尊厳喪失ではない。同様にソクラテスは、自身との調和を失うことより、他人との不和の方がましだと言った。カントの描く個人のゴールは、至福に値する者になること。この意味では、自然目的の種の進歩も周辺的にすぎない。
    政治に対して哲学者がとりがちな態度、プラトン哲学者が王になることによって平穏と平和を得る、アリストテレス政治的生活は最終的に観想的生活(活動的生活)のためにあり、哲学こそ他者を要しない自分だけで楽しむことを可能にするもの。スピノザ、目標は政治ではなく、哲学する自由。ホッブズ、『リヴァイアサン』執筆は政治の危険を回避し、平和と静穏を確保するため。
    パスカル、プラトンアリストテレスの政治学は談笑慰みであり、精神病院の規則のようなものだ、狂人どもの害悪をできるだけ少なくしようとしたにすぎない。
    ・第四講義
    ロバートカミング、政治哲学のテーマは、政治ではなく、政治と哲学の関係にすぎない。実際全ての政治哲学に当てはまる。カントと哲学者一般との共通点は、生死への態度。プラトン、肉体だけがポリスに居住し、『パイドン』哲学者は死に向かって生きている。つまり死、肉体と魂の分離はプラトンにとって望ましいことだった。なぜなら肉体は魂を妨害するから。これはイオニア哲学に含まれる。ローマ人、人々の間にある(生きている)ということをやめるのが、死。生きるべきことが前提なら、一つの宗派への引きこもりが救済策になる。哲学を天から地へと降ろしたソクラテスでも『弁明』に曰く、死を眠りに喩えた上で、人生で最も楽しかった時を思い起こすのは困難。ギリシア人のペシミズム。ソフォクレス『コロノスのオイディプス』、生まれてこないのが何よりもましだ、世に出たらなるべく早く帰るのが次にましだ。
    →反出生論
    このような言説は、ギリシア人と共に消えた。プラトン『パイドン』ほど影響の大きい書物はない。プラトン以降、死を好むのが哲学者の一般的テーマになった。キリスト教以降は無関心となり、近代の弁神論(神の正当化)において再び見出される。その背後に、生を正当化しなければならないという、苦痛と不快の「憂鬱なまでのでたらめさ(『世界市民的見地における普遍史の理念』」を含む生への懐疑がある。カント『人類の歴史の憶測的始源』、人生が長ければ、労苦との戯れが長引くだけ。悪徳がより積み上げられてしまう。新旧の生死によって人類は常に中断される。新しいメンバーは、古いメンバーから学ばねばならない。
    →東浩紀『悪の愚かさ』
    生の価値が問題となり、カントはギリシア哲学者と意見が一致した。
    カント『判断力批判』、人生の価値は、幸福によって評価されるならゼロ以下である、同一の条件で、あるいは新たな計画で単に享受を目指すなら誰がこの人生を始めるか。
    カント『弁神論についての試みの失敗』、弁神論が生きるべきと示すなら、この詭弁には、人生という芝居をもう一度演じ直すかと問えば、答弁となる。
    →これに反して、ニーチェ、ならばもう一度
    カントは、同論で、最良の人間でさえ、自らの生を「喜ぶことができない試験期間」としている。『人間学』、人生につきまとう心労。
    →仏教的。
    カントの省察の多くで、快不快のみが絶対的なものを構成する、なぜなら生活そのものであるから、としている。『純粋理性批判』、道徳的法則が空虚とならないためには、幸福に値することと幸福が結びつく、未来の生活を想定せざるをえない。「何を望んでよいか」の回答が未来の生活なら、不死性より良い生が重要になる。
    →未来の生活は、むしろ来世では?快不快は動物的な生であり、絶対的なのは間違いない。
    カント自身を描いたとも取れる憂鬱気質の人は、『美と崇高の感情に関する観察』、他人の判断を気にかけず、人間本性を尊び、従属に耐えられず自由を望む、自他の審判であり、自分と世間に厭わしく思われがちで、空想家や変わり者になる恐れがある。
    特殊的カントの思想は第一に、人類や歴史の進歩は、特殊としての個人を度外視し、普遍や全体に向けさせる。特殊から普遍への逃避は、カント特有ではない。
    →反省的判断力
    反してスピノザは、全ての存在者への黙従、運命の愛を信条とした。ただしカントにも、文化のために戦争、大災害、害悪苦痛が必要だとした。
    →特殊を要する
    それなしでは人間は動物的満足にとどまる。
    第二は、個人の道徳的尊厳についての考え方。なぜ人間が存在するのかという問いは、道徳的存在者には人間は目的それ自体なので、問えない。
    →人類を善に向かって存続させることが、道徳の目的、前提。存在を問うことは前提を問うので無意味。
    人間的事象を考察するための三つの観点。①人類の進歩、②道徳的存在者かつ目的としての人間、③複数形の人々。複数形の人々は、本考察の中心。
    目的は社交性。カントの人間の言及は、この三つを区別しなければ理解できない。
    →人類(悟性)、道徳的人間(理性)、ヒト(感性)
    要約すると、
    ①人という種=人類=自然の一部=歴史は、自然の狡知に従属している目的=理念の、目的論的判断で考察されるべきもの(『判断力批判』第二部)。
    ②人間=理性的存在者であり、実践理性の諸法則に従う自律的、霊の国、叡智的存在者の国に属する、目的それ自体(『実践理性批判』『純粋理性批判』)。
    ③人々=共同体で生き、常識=共通感覚を付与されている他上被造物で、自律的でなく、思考すなわち「ペンの自由」のために共存する存在。(『判断力批判』第一部美的判断力)。
    →ギリシア哲学者たちとの共通点は、生への懐疑、異なる点は、特殊から普遍へ向かう苦の肯定、道徳的存在者には生きることが目的として前提となる。★
    ・第五講義
    プラトンは、快楽が不快と同様に精神を混乱させ、道を外し、真理探究に肉体が重荷になること。つまり、プラトンは、真理は感覚に惑わされない精神によってのみ可能とするが、カントは、悟性認識には感性が必要とする。感性の正当化。そのことによる二つの帰結、第一に哲学者は経験を明らかにする者、仲間と共に生活する普通の人間。第二に、反省する良識のある人ならば、哲学者でなくとも、生を評価する仕事を担える。この二つは、平等というコインの表裏。
    『純粋理性批判』、認識は常識を凌駕すべきで哲学者のみ可能ということはない、自然が与えた普通の悟性以上には到達しない。
    (誤植p54最終行ありない→ありえない)
    『純粋理性批判』最後の一節、私の道に好意をもつ場合、何世紀も成就されなかった人間理性を満足させることが、今世紀のうちに達成されないかを、今判断していただきたい。
    『美と崇高に関する観察』、探究だけが人間の名誉をなしうると信じ、俗衆を蔑視していたが、ルソーが正直に戻してくれた、人間を尊敬すること、人間性の権利を作り出す価値を信じなければ、俗な労働者よりも役立たずだ。
    哲学が、たんに人間理性の欲求だとすれば、哲学の政治への没頭も消失する。★
    なぜなら、哲学者には私利がなく、権力や憲法も必要ない。カント-アリストテレスは、プラトンに反し、哲学者支配ではなく、支配者が哲学者の言葉に耳を傾けるべきとする。カントは、アリストテレス的な観想的生活(政治はその手段)を最高とはしない。むしろ階層を廃棄し、政治と哲学の緊張関係も消す。精神病院的な政治規則は、哲学の仕事ではなくなる。
    プラトン-カント、あらゆる快は一つの不快を排除するもので、快しかない生は、むしろ快を感じることができないので、一切の快を欠く。つまり、欠如と損失に悩まされない満足などありえない。ただし、美の快は異なり、自然美に感動することは人間が世界のために作られ適合していることを示す。
    ここで、カントが弁神論を書いたと想定してみると、人間の尊厳と同じくらい、美が重要な役割になるはず。実際の弁神論者は、地上界を、旅人宿、刑務所、瘋癲(ふうてん)病院、下水溝として喩えた。
    世界は美しく、人が生きるにふさわしい、道徳的存在者は目的それ自体、進歩に従うと想定してみる。カントの政治哲学はないが、あるとすれば、少数の論文ではなく、著作全体に見出せるはず。周辺的な論考に含まれていないのであれば、カントの思想とは異質であるといえる。サルトルを除けば、カント以外で批判とついた哲学書を書いた人はいない。批判の時代、啓蒙の時代、啓蒙を成立させるのは専ら消極的態度。啓蒙とは、偏見からの自由、権威からの自由、浄化の業。
    『純粋理性批判』、宗教、立法は批判から逃れようとするが、尊敬は自由で公開の吟味に耐えうるもののみ是認される。
    批判の帰結は、自立的思考、自身の精神の使用であり、このことによって理性のスキャンダル(伝統や権威ではなく、理性能力が我々を迷わせる)を発見した。批判は、源泉と限界の発見。体系の予備学。批判とは、完全性安全性を保証することによって、計画を建築術的に構想すること。これは美学、芸術、芸術批評の18世紀的関心と結びつく。芸術批評の目標は、趣味規則の策定と芸術基準の確立。
    批判は、独断論的形而上学、懐疑論に対立する。
    →全てを決定する独断でも、全てを疑う懐疑論でもなく、可能を限界づける。
    批判的思考。これは新しい道であって、予備学ならばカントは新たな独断論にすぎない。★
    →道徳の形而上学は独断論、批判は脱構築として生き残る。つまり批判はポストモダン的。
    カントが、カントの批判を契機にしたフィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思弁的実践を見ていたらこの態度は変わっていたかもしれない。批判と啓蒙の時代、すなわち人類の成人によって、哲学が批判的になった。批判的思考とは二者択一を越えていく道。★
    ヴォルフ-ライプニッツの形而上学と、ヒューム懐疑論を克服するカント流のやり方。我々は哲学的あるいは宗教的な独断論から出発する。この反作用が懐疑論で、恣意的に独断論を選択してよくなる。批判は、両者に反対し、人間には真理を保有する力はない。ソクラテス、賢い人はいない。しかし、探究することは可能で、その能力とともに生きねばならない。これが批判と題された理由。
    →知的興奮を掻き立てる文章の物語的な構成。しかも極めて明快。★
    ・第六講義
    カントは、書物や体系の批評(criticism)という消極的精神よりむしろ、理性能力の批判(critique)を意図した。独断論、懐疑論も他の真理を排除する誤った真理概念。人間は、真理を所有できないが、真理があると告げる理性能力を分析しうる。思弁的理性を制限する批判は、消極的であるが、積極的な効用はある。阻止する警察と同じ。カントはそれまで信念を解体したのではなく、公衆には無益な学派の独占から、人間の利益を取り戻した。
    →大学の独占から知を取り戻そうとする現代と同じ
    真理は大多数の人が到達できるもの。ただし、その後啓蒙は終わる。
    例えば青年ヘーゲル、哲学は群衆のためではなく、秘教的なもので、常識を転倒した世界としてある、なぜなら、普通意識を超えた高次の真理を予告せねばならないからである。
    これは、ギリシア哲学への後戻り。カントが一つの体系になってしまったことによる。ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、哲学の放棄。理性批判の帰結は、批判的思考の樹立、あるいは破壊としての批判という洞察のいずれか。
    →脱構築の方法論化としての堕落と同じ。揚げ足取り。
    マルクス『資本論』は、もともと『政治経済学批判』と呼ばれていた。序文、弁証法は批判的で革命的。
    →柄谷行人、カントとマルクスの批判としての共通点
    マルクス、ヘーゲルは、カントをフランス革命の哲学者と呼んだ。マルクスにとって、理性を実践へ結合するのが批判。マルクスは、カントを啓蒙の最大の業績とみなし、啓蒙と革命を同じ部類とみなした。カントの理性実践の中間項は、実務として規則を適用する判断力。ソクラテス産婆術的。吟味を経ていない生活は生きるに値しない。★
    ソクラテスの一貫性の規則、無矛盾性の公理。論理的かつ倫理的(自己矛盾しない)。アリストテレスの思考の第一原理。カントの格率の一致。
    批判的思考の技術には、政治的含意がある。なぜなら、反権威主義で、既存の真理の柱が揺さぶられるから。カント『純粋理性批判』は破壊者であったが、それでも万人の大道にすることを諦めなかった。通俗性の欠如は、書がありさえすれば是正される。
    →晦渋でも生み出すことにまず価値がある。
    批判的思考は、自由かつ公開の吟味という試験に晒す。
    カント、どんな哲学書も、無意味を隠さず、通俗性を持ちうるものでなければならない。啓蒙の時代とは、自分の理性を公共的に使用する時代。★
    カントにとってのこの政治的自由は、言論及び出版の自由であって、スピノザ的な哲学する自由ではなかった。
    ただし、学者として、すなわち市民ではなく、世界公民社会の一員として。『啓蒙とは何か』
    現在の言論思想の自由、すなわち見解を共有してもらい意見を表現する個人の権利とは異なる。なぜならカントには、自由かつ公開の吟味という試験なしには、意見形成は不可能。他者との共同性を形成するようにできている理性。
    →たんに表現する自由ではなく、他者への公開に耐えうるものという制限がある。
    これが注目に値するのは、政治ではなく、哲学者思想家の立場だから。思考は自分自身との無言の対話。ヘーゲル孤独な営み。しかし、発見を公表し、他者による試験がなければ無意味。『判断力批判』、哲学的真理、趣味判断に必要なのは、一般的伝達可能性。
    ・第七講義
    伝達可能性は、共同体を前提にしている。思考は孤独であるが他者を必要とするとするカントは、他の思想家と異なるところ。
    「思考の方向を定めるとは」、話し書く自由がなくとも思考の自由は奪われずあるかもしれないが、伝達可能性がなければ、考えることをしない。伝達する自由がなければ、思考の自由はない。
    ソクラテスの吟味は、言明から含意を引き出すこと。批判的思考は、大部分が分析から構成される。
    (誤植?p77L12行なおう→行おう)
    プラトンは、ソクラテス以前の哲学者は思想を説明しなかったとしている。説明答弁計算accountという語が政治的。政治家は、責任を取る、応答できるresponsible者だった。
    →デリダresponsabilité応答可能性、責任
    これが知識・真理探究が哲学と転換したもの。ソフィスト、ソクラテス産婆術問答法、カントへ。
    カント、事実に関する問い、いかに概念を獲得したか。権利に関する問い、いかなる権利で概念を所有し使用するか。
    批判的思考は、自身の思想にも適用されうるし、それは公開性なしには学べない。カント、自分の判断に反論を織り込み、公平に眺め第三の何かを常に望む。別の面から眺め、視野を拡大し、考えうるすべての立場で判断を検証する。
    精神の拡大は、『判断力批判』において決定的に重要。他のあらゆる立場に自分を置き換えること。これは構想力=想像力と呼ばれる。批判は他者に開かれていなければ可能でない。
    →批判は、孤独な思考ではなく、あらゆる他者に開かれている。
    世界市民の立場でもある。★
    拡大された心性で思考することは、訪問の旅への想像力を訓練する。『永遠平和のために』の訪問権。
    偏見を交換するような感情移入ではなく、自分で思考すること。理性の他律は偏見。啓蒙は偏見からの解放。拡大された思考は、判断の制限を捨象すること。私利は、判断を制限する。動ける立場の領域が大きくなればなるほど、思考は一般的になる。
    →柄谷行人、トランスクリティーク
    これは、特殊な個人としての条件と結びついている。一般的立場は、公平性であり、反省的判断の視点。行為を教えるものではない。知恵の政治的適用でもない。
    (誤植p82L9経駿→経験)
    カントが教えるのは、いかに他者を考慮に入れるか。
    このことから、一般的立場とは、注視者=観客のことか?という問いが生まれる。カントが自然地理学を教えていたことが、心性の拡大に真剣だったことを示す。旅行記の熱心な読者、ロンドンとイタリアの地理に通じていた。知ろうとしたせいで旅行の時間がなかった。世界市民の立場。しかし、世界観察者ではないのか?
    カント『諸学部の争い』、フランス革命は人間の偉大あるいは悪行にあるのではない。むしろ役者に感情移入する観客の非利己的な考え方にある。これは、人類が一つで道徳的性格を持つことを証明する。進歩への希望。革命は残虐であるが、観客の共感を得る、この原因は道徳的素質である。金も名誉も国民の法の革命には対抗できないが、観客の共感を得た。人類は目的を達成し、善い方向に進歩し後戻りしないことを予言の才能がなくとも予言できる。自然法進化は、歴史上もはや忘れ去られることはない。革命が失敗してもそれを思い出し、再び立ち上がるだろう。そのことは地上すべての国民へ広がり先の時代への展望を開く。★
    →マルクス『ブリュメール18日』演劇
    ・第八講義
    共感がなければ起こったことの意味は全く違うものになる。しかしカントは、革命に対しては、手段が道徳性でなければならないとして、用心深くなっている。反乱は決して正当ではない。
    (誤植?p89L4正統→正当)
    行為と判断の原理の対立。カント、人民が自由の段階まで成熟していないという言い方では、あらかじめ自由が前提されないので、自由が生じることはない、自ら理性を使用しなければ成熟しない。カントは、公共性において、行為者(演技者)と注視者(観客)の対立を政治と道徳の争いと呼ぶ。
    『永遠平和のために』、公共性に反する格率は不正である。公表・告白できず秘密にせざるをえない格率は、反対する人がいる不正に由来する。
    (誤植p91L23明らになる→明らかになる)
    反乱は公になると不可能であるから、必然的に秘密にしなければならない。
    →反乱は公開性に反するから、格率として不正。
    ただし反論を対置しうる。第一に、公開性は、不正を判断する否定的消極的性格にすぎない。公開されていても不公平なものは正当にはならない。第二に、支配者は格率を隠す必要はない。
    『永遠平和のために』、公開性を必要とするすべての格率は、法と政治両方に合致する。
    これは道徳哲学に由来する。個人は理性に自己矛盾でない格率を見出し、命法を導き出す。ここでは公開性が正しさの基準になる。私的格率は隠そうとするから、公的なものと一致させねばならない。私秘性に固執するのは悪。道徳性は見られるに相応しい。神にも。しかし、これには「ペンの自由」が前提になる。反乱においては、言論の自由が廃止される。マキャヴェリ、自分以上に都市を愛する、すなわち命よりも世界と未来を愛することから、悪事でも悪に抵抗せねば悪が蔓延するという、この道徳性への挑戦に、答えられなくなる。
    紛争から身を引く二つの仮定。第一に、善き時代への希望、進歩という前提がなければ、あらゆる活動が無意味、不可能になる。第二に、悪に抵抗せねば悪が蔓延するというマキャヴェリに対して、反対にカントは悪が自滅し、善が支配するとする。ここでも、傍観者の観点が重要。進歩を前提しないなら、後退か停滞であり、その劇の観客ならば耐えられない。
    →反乱は、進歩を前提とした公開性の言論を不可能にし、後退あるいは停滞を生むので、正当な行為ではない。
    ・第九講義
    注視者=観客から見てうまくいっていることの保証は、自然の摂理、運命。人間の不和も進歩。注視者は自然の計画を光景として見ることができる。事件に意味を与える。しかし、崇高な行為、すなわち戦争は、カントは革命と異なり、断固として平和にシンパシーを置く。
    『判断力批判』崇高、危険に挫けない軍人は、美的判断を通じて、尊敬される。戦争ですら崇高であり、これに反し長期的な平和は国民の心構えを低劣にする。
    自然の究極意図、すなわち世界市民的全体=一つの国家体系からすれば、戦争は苦難の帰結として平和をもたらし、文化的才能を最高度に発展させる動機である。これが注視者としての美的反省的判断の帰結。
    しかし、実践理性には戦争すべきではないと拒否し、永遠平和があるかのように行為しなければならないという義務を告げる。
    要約すれば、第一に、事件に意味を与える傍観者としての立場がある。没利害性、非関与が根拠となる。第二に、進歩への希望。二つがフランス革命を偉大と判断した。注視者の重要性は、観想的生活様式の優位という考え方、すなわち、真理は活動を慎むものに示される、という伝統的な考え方に基づいている。
    ピタゴラス、人生は祭典の競技会のようなもので、最も優れた人たちは観客としてやってくる。人生においても、奴隷根性の人は名誉や利益を求めるが、知恵を愛する者は真理を追求する。
    →アーレント『人間の条件』で活動を最重要視していたのとは真逆。★
    この見解の根拠として、第一に、注視者だけが全体を見渡せる。ゲーム外へ撤退することが全ての判断の必要条件。第二に、行為者=演技者は、名誉(他者の意見)doxaを気にかける。★
    →演者は他者に評価軸がある。東浩紀、観(光)客の哲学。
    つまり、行為者は自律していない。観客の期待が基準になる。注視者的観想的生活様式の優位。世評の洞窟から抜け出し、(叡智的な)真理の狩りに出る。
    カントにおいて、判断するのは、裁判官の立場。カント哲学の術語は、メタファーで貫かれている。
    →ローティ、新しいメタファー。比喩によって、元の意味より情報が豊富になる。
    カントがアリストテレスと異なるのは、進歩。ギリシア哲学は個々の観察にとどまり、出来事や行為の意味は、因果関係にない。物語は終局で完結する。しかし(進歩の)歴史は、あらゆる物語を含む大きな書物。カントにおいて、歴史の重要性は、終局ではなく、未来の地平を開くこと。フランス革命の重要性は、未来の希望。ヘーゲルは、日の出、夜明けと喩えた。
    ヘーゲル『歴史哲学』、行為の結果としての世界史は、人間の意識にはなかったそれ以上のものである。
    ヘーゲルとカントの進歩の違いは、二つある。一つは、ヘーゲルは絶対精神だが、カントは人類。二つ目は、ヘーゲルの歴史はend終局=目的に到達し、realize認識=現実化されるが、カントの進歩は永続し、歴史に終焉はない。★
    ヘーゲルはマルクス同様、歴史の終局があるとする。ではその後に何が起こるか?終末論的な終局が生きているうちに起こると思い込むよくある傾向。コジェーヴ、ヘーゲル哲学を突き詰めれば、歴史終焉の後にできるのは、歴史過程を再考し続けることになる。マルクスにおいては、無産階級の自由の王国で趣味に耽ることになる。
    カントにおいて、歴史主体としての人類が動物と異なるのは、人類の使命が、永続的に進歩することという点。
    以上から、歴史とは、人に刻まれている何か。人間がなぜ現存するかは答えられない。価値は人類全体においてのみ現れる。カントの道徳哲学の中心は個人だが、自然哲学の中心は人類の歴史的進歩。ここから「一般的視点からの自然史」の構想が生まれる。
    →柄谷行人、自己言及性の不可能。自己差異的な差異の体系。哲学者は、人類であるにも関わらず、注視者としての視点があるかのように判断する。理性として考えられるが、証明できない。
    ・第十講義
    観客と演技者の衝突、歴史が後継として現れるが、主役は無限を目指す世代系列としての人類、これに終局はない。人類の使命は永続的進歩。ただし、至高の者は実在しないし、終末論的な使命は存在しない。被支配からの自由と、国家間の平和という目標が、永続的進歩を導く。この理性理念がなければ、歴史物語は無意味になる。自然の目的を問うことによって、自然を超える。人間が動物から区別されるのは、理性能力が発展の可能性を秘めているから。
    注視者が単数なのは、第一に光景は1人の傍観者が視野に入れうること、第二に観想的生活の孤独な営みは多数者からの撤退であるとする伝統があること。そして、プラトンの洞窟内の注視者もまた眼前の影絵しか見えず伝達できない孤独な状態にある。プラトン哲学において、政治的活動的生活と、哲学的観想的生活は対立する。最善を知る者とそれに従い実行する者は絶対的に異なる。これがプラトン『政治家』の要旨。カントは逆に、公開性=公共性が超越論的原理であって、政治と正義を結合する、行為。公共性を与えるのは、読者としての公衆。カントにとって活動は、権力者の行為、すなわち統治。カントは、革命をクーデターとみなして誤解していたがゆえに、公開性に反する陰謀、秘密結社として非難した。
    観想と活動は、理論と実践の違いではない。カント『理論では正しいかもしれないが実践の役に立たないという通説について』で述べている。『実践理性批判』、理性の格率だけに従う個人の意志が決定的。思弁的使用で考えるなら、個人の究極目的として最も崇高なものに関わる。永続的進歩と人類という理念として、現実的な理論は、連邦的統一。これらの理念は、観客の願望や高揚ではなく、共感。
    このことから、カントが書いていない政治哲学についての考えを知るには、美的判断力の批判にあたることになる。芸術作品と趣味との関係は、演技者と観客の関係にあたり、通常は後者を、前者がなければ判断できない二次的なものと考える傾向がある。しかし、観客がいないのに見せ場を演じる演技者はいない。カント、人間がいなければ砂漠。
    →ニーチェ砂漠
    天才の作品を美的と判定するには趣味が必要。天才は生産的構想力と独創性に関わるが、趣味は判断のみに関わる。美には、構想力が自由で悟性の合法則性に適合しさえすればよい。構想力が豊富でも無法則では無意味になる。趣味は、天才に明晰さと秩序を与える訓練ないし訓育であり、確固とした理念によって永続的に文化に耐えうる、一般的賛同を得られるものにする。天才の趣味への従属。構想力、悟性、精神が趣味によって合一され、精神の調和によって天才は他者に伝達可能になる。精神は、霊感であり、教えることも学ぶこともできない、天才によって初めて伝達可能になる、心の状態における名づけがたいもの。★
    →ハイデガー精神
    美的対象が実在するための不可欠な条件は、演技者あるいは制作者ではなく、批評家と観客による伝達可能性。★
    批評家と観客は、演技者と製造者に内在している。天才の独創性は、理解されるかにかかっている。
    こうした洞察は、キケロ『弁論家について』からある。誰でも本能的直観によって学芸学問で何が正しいかを判別できる。絵画彫刻、とくに言葉のリズム声の調子は遥かに的確。それは、誰もが経験する共通感覚に根ざしている。制作の専門家と素人は差があるが、善し悪しの判定はそれほど差はない。
    カント『人間学』、狂気は注視者の判断のための共通感覚の喪失にある。
    共通感覚の反対は、私的感覚、論理的強情、すなわちコミュニケーションなしの論理能力。
    →共通感覚は、共同体、慣習、言語なしのコミュニケーションに近い。
    正不正判断の共通感覚は、趣味に基づいている。五感のうち、視聴触は対象同定により共有可能、再現できる構想力もある。嗅覚味覚は、私的で伝達不可能な内的感覚。グラシアン以来、趣味、判断力が持ち上げられた。趣味は伝達できない私的感覚だが、再現する構想力は、客観的対象を感受された対象に変容させ、表象の反省を通して快不快を喚起する。反省の作用。
    →対象を一度直観から概念にせず再現表象して、内的感覚の対象にすることで同時に快不快を生む。
    ・第十一講義
    カントの注視者は、伝達可能性から互いに関与し合うことができる。反対に、ピタゴラス祝祭、プラトン洞窟の注視者は伝達できない。芸術家制作者天才と、鑑賞者は、誰が高貴か、制作の仕方を知ることは要件か。キケロ、誰もが美的判断=沈黙の感覚は可能なのに制作できるとは限らない。カントは判断力批判を趣味の批判と呼んでいた。味覚と嗅覚は、一度感受すれば認識であるが、物が不在であれば、光景やメロディのように再現はできない。
    →味嗅覚も想起できるし、光景も再現までいかないのでは?そこまで差はないように思える。カントも言及していなかったはず。
    味覚と嗅覚のみが、排他=判別的であり、特殊へ関係する。直接的で、思考に媒介されない。食べ物と匂いは、我々の中にあり内的感覚。直接的に触発されるので、正不正の議論は起こりえない。
    (誤植p123L7起こりない→起こりえない)
    苦手な食べ物の感覚は、説得できない。趣味が困惑させるのは、伝達不可能だから。この解決は、構想力と共通感覚にある。構想力は、対象を内面化しているものへ変化させ、非客観的に触発する状態にする。美は、知覚ではなく「単なる判定のうちで快を与える」。美は表象において快を与える。構想力が美しいものを用意し反省できる、反省の作用が起こる。フランス革命の注視者は、直接的関与ではなく、表象において正不正、重要性、美醜を判断する。問題は趣味から判断へ。価値を評価するための必要条件として距離(隔たり、非関与性、没利害性)がある。
    →当事者では価値評価の判断ができない。
    「美しいものが関心を引くのは、社会のうちだけである。他者と共に感じなければ満足することはない」『判断力批判』、「趣味は他者のために自分の好みを断念しなければならない」「趣味においてエゴイズムは克服される」『人間学遺稿』。非客観的な感覚のうちの、非主観的要素とは、間主観性。
    →フッサール間主観性
    趣味判断は、他者の趣味を反省し、他者の判断を考慮する。共同体の一員として。
    →ウィトゲンシュタイン生活形式
    味覚の内的感覚と趣味判断の他者指向性は、対立するように一見見える。
    →ウィトゲンシュタイン内的感覚
    カント、美しいものの対立項は、醜いものではなく、嫌悪感=吐き気をもよおさせるもの。カントは『道徳的趣味批判』を書く予定だった。
    ・第十二講義
    判断力には、二つの心的作用がある。一つは構想力。不在のものを表象し、直接的触発から離され、内的感覚の対象になる。趣味は自身を感じる内的な感覚。趣味批判から『判断力批判』が発展したといえる。
    →カントは、アーレントが言うように内的感覚のみではなく、「物を概念に結びつけずに直観する」、つまり外的感覚のルートを変更するといっていたのでは?結局反省なので同じかもしれないが。五感で説明するのはアーレント特有。同様に公開性、私秘的も。
    第二の作用は、反省。反省が判断する現実の活動。二重の作用が、判断の条件である、公平性を確立する。目を閉じることによって、公平な注視者、盲目の詩人となる。
    →ロールズ無知のヴェール、ローティ残酷を避ける、盲目の刻印、新しいメタファー。しかし、詩人は言い過ぎ。
    外的感覚によって知覚したものを内的感覚の対象にすることによって、多様性を集約し凝縮する。特殊なものに意味を与える。演技者は自分の役割しか知らないが、観客は一つの全体として劇を見る。演技者はpartial(役割的、部分的、党派的、不公平)。
    快もまた是非に従属する。吝な父の遺産、功績ある夫の死、学問の楽しみ、憎悪嫉妬復讐心の苦痛の不快。この反省は、思案によって是非を判断することそれ自体が快を与える。世界・自然が快を与えることに、我々が是認し快を感じる。否認は不快。伝達可能性、公開性が尺度となり、共通感覚がその決定基準となる。
    伝達可能性は、同じ感官をもつという想定から現れるが、個人の感官を前提することはできない。これらの感覚は、私秘的privateで、判断も自発性もなく、受動的反応。これに対し道徳的判断は必然的で、伝達可能性がなくとも妥当する。そして、美的判断の快は、知覚ではなく、把握=把捉。共通感覚。
    共通感覚common senseが、私秘的かつ万人に前提される一つの感覚senseを意味している。共同体communityに適合する。共通の人間悟性は、最小限度のものであり、人間の人間性。共通感覚は、伝達communicationに由来し、単なる表現とは異なる。
    『判断力批判』、共通感覚は、判定能力の理念。反省的に表象をアプリオリに顧慮する。総体的人間理性と自分の判断を照らし合わせる。他のあらゆる立場に自分を置き換える。普遍的規則としての判断には、魅力と感動を捨象することは、自然なことである。
    共通感覚の諸格率、自分で考えること(啓蒙の格率)、他の立場で考えること(拡大された心性)、自分自身と一致して考えること(一貫性の格率)。これらは認識ではなく、意見や判断。
    道徳的問題においては、行為の格率が、意志の質を証明する。同様に、判断力の格率が、共同体感覚による世俗的問題に対する考え方を証明する。
    天才でなくとも、主観的条件を乗り越えることができ、他者の立場による一般的※立場から、自身の判断を反省するならば、拡大された思考の持ち主たりえる。
    ※編者注:判断は、普遍的ではなく、一般的に妥当するからアーレントは通常の普遍的という訳から一般的に変更している。『過去と未来の間』、共同体ではない人には該当しない。
    趣味とは、共通感覚に属する共同体感覚であり、精神に対する反省の影響。趣味の排他的選択的な感覚。趣味は、概念を介さずに、一般的に伝達可能にする判定能力。
    『判断力批判』、趣味は、表象に対する感情の伝達可能性をアプリオリに判定する能力。この感情は義務としてあらゆる人に要求される。
    ・第十三講義
    共通感覚とは、私的感覚から区別される、共同体感覚。この感覚は、判断力が訴えかけるもの。快不快も共同体感覚に根ざしている。認識や科学においては人は判断しない。
    →政治的判断も完全な論証はできないから、趣味判断に属する。
    趣味判断は他人に強制できず、共同体感覚に訴えて、せがむ、乞い求めることしかできない。
    拡大された心性は、正しい判断の不可欠条件。構想力と反省によって、私的条件から解放され、公平性に到達できる。没利害性disinterestednessに、関心interestをもつことが美しいものに関心をもつこと。
    →美的なものは有用性がない。だが、公平性がある。★
    有用性を度外視して、実在に快を見出すのが美的判断。
    『判断力批判』、社交性が人間性に属するとみなされるなら、趣味もまた感情の伝達の判定能力として、自然的傾向性を促進する。
    『人間の歴史の憶測的始源』とは逆に、社交性は最終目的ではなく、人間性の起源。必要と欠乏の相互依存とは異なる考え方。判断力は他者が前提。判断力だけでなく、感情や情動は伝達可能である場合にのみ価値がある。キケロ「トゥスクルム荘対話」、「ピタゴラスと正しい意見をもつくらいなら、プラトンと共に間違っている方がいい」。伝達可能であれば、快の価値は無限に増大させる。
    →snsの原理でもある。共通感覚は人間性だとしても、快そのものは感性的=動物的であるかもしれない。共同体に合うような投稿、合わないで孤立する投稿。
    『永遠平和のために』の統一された人類と接続される。戦争の廃絶は、争いや残酷さの除去ではなく、拡大された心性を最大限にするための必要条件。他方で、生命の犠牲のうちに崇高なものがあるから、戦争がなければ羊のようになるともいう。
    →人間は動物的に望み誤るという意味で、戦争がなければならないという意見ではないのでは?
    一般的伝達は、根源的契約かのようである。
    →社会契約論
    これは、単なる理念にすぎないが、人類の理念として文明化される活動を鼓舞する。この点において行為者と注視者が一体となる。行為者の格率は、根源的契約が一般的法則になるような格率に基づいて行為せよ。
    『永遠平和のために』第六条項、他国との戦争において相互信頼を不可能にするような敵対行為をすべきではない。
    社交性と伝達可能性による第三条項、世界市民法は、歓待を促す条件に制限されるべき。
    滞在と友好の権利は譲渡できない人権になる。
    これは地球表面

  • カントは政治哲学について書かなかったが、その著作を通して政治哲学が見えてくるという主張。判断力についての考察を通して読み解いていく。
    翻訳が分かりにくい。

  • アーレントの最後の著作「精神の生活」は、「思考」「意志」「判断」の3部構成になるはずだったのだが、アーレントは2部の「意志」を一通り仕上げた翌週、「判断」の標題と2つの題辞からなるタイトルページをタイプしたところで、心臓発作で死去。

    「思考」「意志」が西欧思想の批判で一種の袋小路に入ってしまう構成になっていて、「判断」は、「精神の生活」の第3部というだけでなく、そこに「袋小路」を抜け出すアーレントの晩年の思想の中核があった思われることから、「判断」がどういう内容だったのか、というのは、好奇心以上のものとしてある。

    で、その「最後の思想」を推察するヒントが、「カント政治哲学講義録」ということになっている。

    「精神の生活」の「意志」はかなり難解だったのだが、こちらは、大学での講義をベースとしたものなので、比較するとかなり読みやすい。

    アーレントの「判断」論は、カントの「判断力批判」がベースになっていると言われているのだが、この本は、「判断力批判」だけでなく、カントを政治哲学として読むという試み。

    と言っても、カントは「政治哲学」なるものを明示的に書いているわけではない。アーレントは、「啓蒙について」「永久平和のために」などの小論文に加え、通常は「美学」の問題として読まれている「判断力批判」を政治哲学として読んでいて、カントは書かなかったけど、カントの著作全体に潜在的に存在する政治哲学を読み取る。

    カント哲学は苦手な私には、この読みがどの程度「正しい」かは全く判断できないが、晩年のアーレントの政治哲学をかなりまとまった形として表現しているものとして、かなり面白かった。

    そして、大いに助かったのが、編者のベイナーの「ハンナ・アーレントの判断論」という解釈論文。これは、このカント講義だけでなく、「判断」について、アーレントがどう考えて、それがどう変化していったかについて、アーレントの主要論文を丁寧に紐づけていく。

    何か、正しいというものが存在するわけではない。もし、何か正しいものがあるという前提にたつとそれは全体主義に向かう危険性を持つ。

    一方、全てが相対的であり、無価値であるとすると、そこに人間が生きる意味はなく、そのニヒリズムはまた全体主義の温床になる。

    そうした二極の間に、「共通感覚」がある、というところに注目してみる。例えば、「バラは美しい」と思う。それは、人に共通する感覚であるが、絶対の真理として抽象的に「バラは美しいものである」というものが存在するわけでもない。つまり、個人の個別的な感覚でありながら、他者とコミュニケーション可能なものとしてある。いわゆる「間主観性」の領域である。

    このコミュニケーションを可能にしていくため、「相手の立場で考える」ということが「判断」のポイントとなっていく。

    という感じで、もともと「美学」の「判断」の話しを「政治」の「判断」の話に読み替えていく。ここに「判断」が、「人間の条件」などの「前期アーレント(?)」の「活動」や「公的領域」、「生まれ」「世界への愛」などの主要概念に接続していく見通しが浮かび上がってくる。

    これで、「精神の生活」を読んでの結論部分が欠けているフラストレーションは、かなり解消できた感じ。(と同時に、「精神の生活」の第3部が書かれていれば、「人間の条件」と並び立つ政治哲学の古典となっていたであろう残念な気持ちも強まる)

    晩年のアーレントの最重要コンセプトであった「判断」がある程度見渡せたところで、アーレントの政治思想のもう一つの大きな流れである「ユダヤ人」問題を理解すべく、遺稿集の「ユダヤ人論」に挑むことにする。

  • アーレントによる講義と編者ベイナーによる解説論文を掲載している。「カント政治哲学講義」と題されているものの、中心的に取り上げられるテキストは『判断力批判』第一部である。美学的判断が他人に同意を求めるというカントの洞察が、アーレントによって政治的判断の議論に転化される。その際に問題となるのは、カントが思考の三つの格率として掲げるもののうちの一つ、他人の立場に立って考えること、である。この「拡張された思考様式」こそが、美学的判断および政治的判断の公共性の鍵になっているというのがアーレントの見立てである。もちろんカントの文字だけを忠実に読めば、このような政治理解がカント自身の考えとは一致しがたいようにも思われる。しかし、きわめて抽象的な判断力論を具体的生活に位置づけるための改釈の一つとして、アーレントのこの講義録は極めて興味深い取り組みの一つである。

全4件中 1 - 4件を表示

著者プロフィール

1906-1975。ドイツのハノーファー近郊リンデンでユダヤ系の家庭に生まれる。マールブルク大学でハイデガーとブルトマンに、ハイデルベルク大学でヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに学ぶ。1928年、ヤスパースのもとで「アウグスティヌスの愛の概念」によって学位取得。ナチ政権成立後(1933)パリに亡命し、亡命ユダヤ人救出活動に従事する。1941年、アメリカに亡命。1951年、市民権取得、その後、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任、1967年、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命される。著書に『アウグスティヌスの愛の概念』(1929、みすず書房2002)『全体主義の起原』全3巻(1951、みすず書房1972、1974、2017)『人間の条件』(1958、筑摩書房1994、ドイツ語版『活動的生』1960、みすず書房2015)『エルサレムのアイヒマン』(1963、みすず書房1969、2017)『革命について』(1963、筑摩書房1995、ドイツ語版『革命論』1965、みすず書房2022)など。

「2022年 『革命論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ハンナ・アーレントの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×