共にあることの哲学 ―― フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉1 理論編

  • 書肆心水
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784906917532

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  • 結局、それがべてるやアラヤシキのような実際的な共同生活の形をとっているかは別として、自分はここで「無」を紐帯とする共同体をつくりたいのだと思う。

    以下引用

    彼の理想は、人々にアイデンティティを強要しないし、帰属の条件も前提とせずにただともに属している共同体なのだ。これが到来すべき共同体

    あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない。暮らすということは、その場で自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作るということ

    規律に注目すると、一方に過度に否定的な形態として孤独や隠者の暮らしがある。他方に、過度に統合的な形態として、修道院がある。その中間に想定されるようなユートピア的であり、牧歌的な形態がありうるのではないか。共同生活でありながら、各自が自分のリズムで生きるという様態

    血統や領土に根差した何かではなく、クレオールという不在の言語、文化を共有する共同体。

    血縁や系譜と密接に結びついた領土とは異なる場所という考えで、新たな共同体の可能性を素描している。


    アセファル共同体は頭である、首長が不在の共同体

    頭は理性の隠喩で、頭による身体の支配は、理性による感情や感性の統御に外ならな

    伝統的には、共同性というのはみなが同じものに属していることを当然のものと想定している。

    社会的関係というのは、個々人よりも上位にあるなにものかとの関係であり、また社会的なものとは、慣習的なしきたりや規範に従うんものであり、同等なもの=同類であるものを真似て学習し、模倣しつつ吸収することのうちに存している。

    社会の中で、また自分がその一員である組織、制度のなかで、ひとはふつうこう考える。私は絶えず他者とかかわっているのであるが、この私が自分とは異なる他者と関係するということは、私を他者へと同一化する方向に向かう。、、、こういう協働性において、あくまで他なるものである他者は、その他性を保ち続けている他者なのだろうか

    対面の共同性は、暗黙のうちに共通する尺度によって仲介されることのありえない、手に負えないほどやっかいな向かい合いであろう。

    向かい合う、人間と人間のあいだには、神も価値も、自然もない。人間と人間のあいだの関係はむき出しの関係であり、神話をもたず、宗教の入り込む余地がない

    わたしーあなたという対面の共同性は、キリスト教の特、コミュニオン(一致、一体性、合一)のような共同体にはならないだろう。

    従来の共同性において、ともに同じ神を信じていることで、すべての人間には、共通する項があり、個々の人間はほかの者と共同の関係に入ることができる

    主体が対象を定めて関り、働きかけるという構図に収まらない、

    ★★愛の関係においては、主体ー対象という枠組みと秩序が通常のままで維持されず、そして私とあなたは対照的であり、相互性を持つという通念も根本から問い直される。愛の関係にとらえられるということは、ある強力な動きに運び去られることである。ほかの存在を求める運動に、そう決意したり、決定のイニシアティブをとったりする以前に、もう結びつけられ、うごかされている。だからそれは道へと乗り出す探求なのだが、また同時になにかを選択するよりも前に定まっていたことと感じられる、、、、必ず秘められたところに引き寄せられる、そしてその秘められたところをあらわにし、開示したいと願う。だから愛の経験には、人目を忍ぶような動きがあり、禁じられているものを力ずくで破るような感情がつきまとう。

    そういう侵犯的な開示の動きは、逡巡、羞恥心、恐れという仕方で抵抗する動きを押しのけて越境する。

    愛の関係が深く生きられるとき、主体は主体としてとどまることはない、主体と対象とのあいだにはまるで一種の合一が起こるかのよう思いえる、

    愛のパッションにともに運ばれる私とあなたは、もう双方が主体として、相手を対象としてとらえる様態で出会うのではない。双方がもう主体ではなく、対象でもなくなる次元においてのみ出会い、関係する

    ★通常の社会生活で出会う他者は、暗黙のうちに共通する尺度によって共約することの可能な他者、ほんとうにそうなのか否か問われる以前にもうすでにそうだと思われている他者であるとみなされている

    双方にとって愛する相手は、つねに私の主体的な能力の及ぶ範囲から逃げ去ってしまう。したがってまた、この相手をもうすでに一般化してとらえることのできる他者として主題歌して語ろうとする言術が言い表すことのできる射程からも抜け出してしまう

    ★他者は、私にとって真に出会い、真に関係するということの不可能な次元を秘めている。他者は私よりももっと秘められている、私はこの相手に到達していない、隔てられたままだと、感じる。他者は私にとってまだ出会っていないまだ来るべき出来事になるというあり方をしている

    愛においては、私とあなたはもう双方が主体として、相手を対象として捉える様態でかかわるのではないのであり、主体と対象との区別が破れ、主体ではなく、対象でもないある未知の位相において互いにかかわっている。双方はともに主体ーのー外の位相にあり、私はもう私として定立された同一者ではなくなる。つねに自己へと現前しているとは言い切れない、つまり、私は自分が生きる経験にいつも現在として立ち会っているとは限らない

    向かい合いの関係という共同性においては、私とこの他者とは親密に交流する両者として存在しているのであるが、しかしそうであるからといって、まったくの共時態として存在していると断定するわけにはいかない

    対面の共同性のうちにある双方は、ある種の異方性のうちに、つまり自分ができることにも欲することにも無関心な私ーのー外との関係のうちにいるのであり、そういう外との関係は私の能力と可能性を超えている、私はこの他者へと向かって到達しようと思い接近するが、それに至る手前で私のイニシアティブと能動性はやんでしまう。

    ★双方はともに、自分が自分にとって異邦人(未知なる者)になっているといえるだろう。というのも、私は本来的な同一性としてつねに私自身に現前しているとは言えなくなるから。対面する両者は、最も親密な内的交わりのうちにいるのと同時に、双方がお互いにとって違法の者となっている

    向かい合う対面の共同性においては、通常の社会性のなかで私があなたを認識し理解するというという構造は根本から破られる

    ★この結びつきは一致や一体化に到達しない、こういうむすびつきはつねに逃げ去りやすく、瞬間的な過渡的な様相を呈している。それはひとつに溶け合う融合にはなりえない

    言葉は他なる人と私との関係を担っている、ほかの者と同じものとは互いに関係のうちに保たれつつ、この関係から、双方とも放免されており、こうして関係そのもののなかで絶対的なままにとどまる

    対面の関係という共同性においては、強い通い合いとか交流というのも、同一性に基づく関係のうちに結び合わされて統一化=一体化することではない。双方のあいだを触媒する項は、先験的な仕方では存在しない。ただ両者のやりとりと問いかけのあいだでのみ、事後的に生じるだけである。そして、そのように事後的に生じる触媒項も、一般的な心理、理念として固定されない。ほんとうにそうなのか、と問いなお押される。

    国家のような共同体の基盤をなしているのは、その集団の全員が理想的意な第三項へと参入してゆくこと。つまり、みなのあいだを触媒し、仲介する役割をはたす第三項(真理、神、教義)を分有すること

    国民国家のような共同体を構成する国民たちは、意識的せよ無意識的にせよ、後半に認められた真理をわかちあっているメンバー(成員)たちであって、多少ともその真理を信じており、愛している者である。

    もし合意と一致は、共同性が必ずそこに至るべき目的なのだとすれば、なにがおこるだろう。それは、私と他者とのあいだに、双方に生じる不可解という思いの交差や他者を問い直す言葉のやりとりを、つねに家庭と考えることである。

    対面の共同性においては、たしかに強い通い合い、交流、疎通が起こるのであって、しかしこういうコミュニカシオンは、常識のように、対称性を持つ双方が主体として相手をよく同定して把握し、この他者が意味しようとすることを、十分に理解すること、お互いにそうすることによって互いに意志、意図、意向が通ぞ会うことではない。私がその能力とイニシアティブを発揮して取り結ぶことの可能な関係のうちに相手を包み込んで統一性を実現することではない。互いに相手をよく理解できる他者にすることではない

    向かい合う関係においては、双方はともに主体ではなく、対象でもない次元において関係しており、

    もっと内密なもの、奥深く秘められているもの、ひとりの存在に特有ななにか、独特な、特異なないかが、すなわちひとつの主観性の深奥にあってほかの人には近づきようのないなにかが、ほかの主観性の深奥へと通い合い、交わる

    私のかかわる他なるものは、私が関係することなく関係するなにかを秘めているということ

    向かいあう共同性において、双方はコミュニケートするよう促される存在であり、私から抜け出していく私であって、いわば自分の主体的能力を中断され、宙づりにされている

    自分が生きていることを、真には経験しないままに経験している、つまり双方は、この相手が自分に語り掛けてくることを受け止め、わかろうとしているのだが、そのうちにあるひそかな部分が、いつも未知なるなにかとして生きている、すなわち現前的に出会う関係にはならない関係において関わるなにか、自分にとって他なるなにかとして生きている

    他者が発する意味ー私が受け止め、読み取らねばならない意味ーは、誰にとって了解される概念的なものといった意味であるものだけにとどまらない

    そういう特異な微妙な意味は、知的な操作によっては理解しようがない、なにか感覚的刺激、興奮を含む仕方でのみ、あるいは情念的、情感的なうねりを介してのみ、かろうじて伝搬する

    ★こういう他性をもたらすなにかは、もの的な次元、直接的=無媒介的ななにものかという次元につながれている。そういうなにかは、言葉がそれを遠ざけることによってしか近づくことのできないなにかであって、いわば言葉の能力が届かない外である。言葉は「もの」的な次元につながれている他性を現前化させようと願望し、そこへと繰り返し反復的に近づいていく
    →よくわかる。よくわかるし、けっきょくここをやりたいんだと思う。ことばにならないことばを「もの」として体感する装置

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著者プロフィール

澤田 直 ⽴教⼤学教授。著書:『〈呼びかけ〉の経験──サルトルのモラル論』(⼈⽂書院)、『ジャン=リュック・ナンシー』(⽩⽔社)、『サルトルのプリズム──⼆⼗世紀フランス⽂学・思想論』(法政⼤学出版局)、訳書:サルトル『真理と実存』『⾔葉』(以上、⼈⽂書院)、ペソア『新編不穏の書、断章』(平凡社)など。

「2023年 『はじまりのバタイユ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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