絶望しそうになったら道元を読め!~『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する~ (光文社新書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • ▶︎800年前のマルクス・ガブリエル
     本書を読んで道元『現生考案』とガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』が全く同じ地点、絶対無を指し示しているように思えた。
     道元の言う絶対無とは、現実世界を支える仏法という場、つまり他の諸物=あらゆる物事を支えている世界の裏側で実体はない。
     そして、ガブリエルが「世界は存在しない」という時の世界もまた、あらゆるものを支える場であり、それゆえに他の場には現れることができず、存在できないものである。
     ガブリエルはハイデガーの思想を叩き台にして自身の存在論を確立したが、道元もハイデガー的な有無を対比させる存在論を越えた「絶対無の思想」という極みに800年も前に到達していたとは、、。

    ▶︎TODO : 身心脱落=純粋体験=縁起する
     道元の根本思想である身心脱落が主客未分の純粋経験であり、またそれは縁起という絶対無=世界の原理と一体化することであるという学びを得たので、これを実践したい。
     具体的には自分が今存在している場を意識すること。例えば地下鉄の電車の中にいること。それを具に観察すること。クッションが固く、エアコンは効いているが冷え冷えとしていること。
     こうして身心脱落すること、あるいはし続けることが、道元が指し示してくれた絶望から逃れる唯一の光であり、悟りなのだろう。

    ▶︎FOR : 道元思想を体験したい人
     道元の来歴やその後の曹洞宗がどうなったかのような周辺知識は一切ない。
     だが解説を『現生考案』に絞っているから論の展開は明るく、その深さは相当なもの。
     身心脱落を知識ではなく、体験に持って行きたいならこの本をお勧めする。

    p.s
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  • 薪が灰になるというところ。

    実体があるというのが言語心理学的な考え方。私がシンボルと呼んだ考え。

    一方、実体がないというのが道元の見方。つまり、言語がないということになるだろうか。

    もう一点。

    ハイデガーは無から説明。

    道元は有から説明。これは現実重視の道元らしいところ。

    絶望から救ってくれるかはわからないが、道元の現成公案に絞ったこの本はよかった。

  • <感想>
    禅哲学の本。
    要所要所で刺さる言葉が散見される。リフレーミング効果があり、自分が特定の視点に囚われていたと気づかされる。
    ただ、言い回しが難解なので、文章を行きつ戻りつ読むため時間がかかる。時間がないので途中だが終了。折りを見て改めて読みたいと思う。

    <アンダーライン>
    ・現生公案
    ★主観とまったく関係のない客観的な世界など、どこにもありません。わたしが気持ちよいとき、わたしの世界そのものが気持ちよいのです。
    ★主客末分
    ★「わたしには花が見えている」という主客未分の出来事にあって、わたしは花を見ることにおいてわたしであり、花はわたしに見られることにおいて花です。
    ★★右手と左手とを区別できるのは、右手は右手、左手は左手、それぞれ固有の本質を有しているからだと思いたくなりますが、仏教はそれを否定します。右手は左手に対する右手であって、もし左手がなければ右手もありません。
    ★★★右手には、意味上、左手が含まれているのです。
    ★★★船から岸を見れば、岸が動いていると思います。世界の方が「無常」なのだ、と。そんなふうに思うのは、自分は「常住」だと思っている証拠です。船そのものに目をすえれば、今度は船が動いているとわかります。自分はけっして常住ではないんだ、と。
    ★★★自分が「ここ」にいるのは、岸が「あそこ」にあるからだ、と。起きているのが「いま」なのも、眠っていたのが「さっき」だからだ、と。
    ★★★悟りとは「われ」がないことではありません。「われ」が実体ではないとわきまえることです。実体ではないけれども「われ」はあり、ゆえに生滅がある、と。
    ★★★いくら悟ったところで、悩むときは悩むし、死ぬときは死にます。でも、悟ったものは、悩みをあるがままに絶対肯定しながら悩み、死をあるがままに絶対肯定しながら死ぬんじゃないでしょうか。
    ★★★どうしようもないことを「愛惜」したり「棄権」したりするのは、たしかに煩悩です。けれども、それを捨てねばならないと思うと、今度は捨てることにとらわれてしまいます。だったら、しつこい煩悩はどうすればよいのでしょうか?放っておけばいいんじゃないかなあ。惜しいと思えば惜しむし、イヤだったらイヤがる。なるほど煩悩ではあるけれども、それを無理に捨てようとせず、それに身をゆだねるのです。
    ★★災難にあうときは災難にあえばよいと良寛さんも言ったように、迷っている時は迷いをとことん満喫すればいいんじゃないでしょうか。

  • 主客未分の経験は、主客の関係の成立を意識する「われ」をふくんだ経験です。わたしが意識していることを意識することができるのは、わたしの身に主客未分の出来事が起こっているということであり、それは仏法が見るものなくして見るというやり方で諸法を根拠づけているということである、と道元はイメージしているのです。Read more at location 566

    「われ」でない不生不滅の仏法に根拠づけられながら、あくまでも「われ」として生滅しているとき、わたしは主客未分の経験の主体として生きています。仏法に逆らう「われ」であって、はじめて仏法を表現できるのです。仏法と渾然一体でありながらも、「われ」というあり方をしているとき、そこにおいて仏法のリアリティが表現されるのです。Read more at location 611

    道元は、経験の内容のなかに経験の主体は現れない、といったことを考えているわけじゃありません。主客の関係の成立を、主客未分において考えているだけです。Read more at location 1128

    道元における経験とは、立場を前提としない経験です。主客がないわけではありません。主客未分という、立場を前提としないような経験があるのです。Read more at location 1170

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著者プロフィール

1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。東北大学大学院修了。博士(文学)。現在、弘前大学教育学部教授。著書に『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)『禅問答100撰』(東京堂出版)『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)『物語として読む 全訳論語・決定版』(トランスビュー)など。

「2020年 『哲学として読む 老子 全訳』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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