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感想・レビュー・書評
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何でも損得勘定しないと気が済まない消費者マインドが染み付いた現代の若者に、武術修行の価値を説いた書。「修行の意味は、事後的・懐古的にしかわからない」、修行で会得するものは予測不能。
「武術の稽古を通じて私たちが開発しようとしている潜在能力」は「実践的な意味での生き延びる力である」。そして「生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」であ」り、「他者と共生する技術」、「他者と同化する技術」である。
「石火之機」とか「啐啄之機」、「啐啄同時」、「キマイラ的・複素的身体」とか、どうにもイメージできなかった。これらは理屈じゃないような気がする。修行してその呼吸や極意を会得して初めて感覚的につかめるものなんだろうな、きっと。
「Ⅳ 武道家としての坂本龍馬」が特に面白かった。司馬遼太郎は合理性を重んじ、一見すると合理性に欠ける修行を嫌った。そしてその原因は彼の戦中体験にあるのではないかという見方、鋭いなあ。「坂本龍馬という人の天稟は、まさに剣の修業によって開花したのである」、何故なら、龍馬は剣術修行を通じて「生き延びる力」(=「使えるものは何でも使う」ことのできる力)を身につけたから、とのこと。なるほど!
自由が丘でUFOに遭遇したことがあるとか、師匠は「空中浮揚」することができるとかいうのはホントかな?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
内田樹は、修業とは何かということについて下記の通り書いている。
【引用】
師匠は「いいから黙ってやれ」と言うだけです。同じことを延々と繰り返しやらせることもあるし、そうかと思うと、まだ出来ていないはずなのに、「じゃあ、次はこれ」と新しい課題を与えることもある。処罰も報奨もなし。批評も査定も格付けもなし。それが修行です。
【引用おわり】
ただ、それは、今の若い人(あるいは若い人ばかりではなく)には通じにくいとも言っている。なぜならば、最近の多くの若い人(および若くない人も)、消費者的にふるまうこと、すなわち、「その実用性と価値についてあらかじめ一覧的に開示することを要求すること」が当然であると考えているからだと述べている。「努力させる以上は、努力した後に手に入るものを、あらかじめ一覧的に開示しておいて欲しい」というか、そうあるべきだと考える人には、上記で引用したようなことは理解できないということである。
私はどちらかと言えば、内田樹の言っていることの方に共感する。しかし、それは今になってというか、この歳になってということではある。「こんなことを勉強して何の役に立つのか」ということを、若い頃には気にしていた。でも、今は「そんなことは勉強してみないと分からないよ」と思うし、最近では、「勉強すること自体が楽しいのだよ」とも思えるようになってきた。
「こんなことを勉強して何の役に立つのか」というのは、今の言葉で言えば、「コスパ」を気にしているということであるが、世の中、結局はコスパでは説明できないこと、というか、何だか分からないけれども始めてみないと分からないこと(そして始めてみると結果的に面白いこと)が多い、むしろ、そちらが主流ということに気がついたりするのだ。 -
予想に反して深いテーマを論じている本でした。『修業論』なんてタイトルの上に新書版で薄い本だから、内田氏の経験談で息抜きで読めるかと思っていたらとんでもない。和洋様々な思想を援用して自身の哲学を論じていらっしゃる。いつの間にか著者の言葉と知識の遣い方の妙に惹き込まれていました。ちなみに氏はフランス哲学専門の元大学教授ですが合気道歴も40年、ご自身の道場まで建ててしまった方。
氏の専門はレヴィナスだけど碩学とは彼のような人の事を言うのですねぇ。守備範囲がものすごく広い。若い頃からの蓄積の大切さを突きつけられた気もしました(→あまり勉強熱心とは言えなかった私が持っていないもの)。
「敵=対戦相手ではない」という考え方、「広義で言えば、『敵』とは『私の心身のパフォーマンスを低下させる要素』」であり、それを最小化させるスキルの巧拙が「無敵」や、瞑想とは生き延びるために他者(広く自然や社会等も含め)との関連を「額縁」という言葉で捉え、「額縁をずらす」ことが生き延びる鍵であるという考え方には強く共感を抱いた。美術館で額縁が見分けられなければ、壁の模様を見ているのか絵を見ているのか分からない訳で、これは私にとって非情に示唆に富んだメタファーでした。
折に触れて読み返したい本。 -
武道と思想の二つの立脚点から描く修業論。武道修業の目的を「いるべきときにいるべきところにいてなすべきことをなす」と定義するなど、独特の視点が面白い。後半の司馬遼太郎論も、たしかに剣術関係って淡泊だなと思っていたので、目からウロコの視点だった。