黄昏の彼女たち 下 (創元推理文庫) [Kindle]

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  • 1922年。兄と弟、父を相次いで亡くしたフランシスは、母と二人で暮らす屋敷の二階に下宿人を置いて家賃を得ることにした。入居してきたのはレナードとリリアンのバーバー夫妻。元は上流階級のフランシスたちと都会的な若夫婦はなかなか相入れなかったが、リリアンの親類が屋敷を訪ねてきてからフランシスとリリアンの距離は少しずつ縮んでいく。フランシスが同性愛者であること、家と母を捨てようとした過去があることを告白すると、二人の関係は友情から恋愛へ急速に変化する。だが、一つ屋根の下での不倫関係が思わぬ悲劇を生み……。


    サラ・ウォーターズの現状最新作(原著2014年刊)。上巻を読んで「今回はじっくり恋愛にテーマを絞ったのか」と早合点してしまったが、んなはずはなかった。平野を鈍行で走ってるつもりが、いつのまにかえげつない高低差のジェットコースターに乗せられて頂点まで運ばれていたことに、落ちる寸前になっていきなり気づいた感じである。
    上手だな〜と思うのは、上巻の前半はフランシスの淡々とした繰り返しの日々と愚痴しかないのに、退屈させずフランシスの性格を説明して彼女を好きにならせてしまうところ。堅物でちょっと世間知らずで、時々ぎょっとするほど無鉄砲な振る舞いにでるウォーターズの主人公らしい主人公。家と恋の二択で家を選んだ過去に忸怩たる思いを抱えながら、元カノのアパートを訪ねていくフランシスの心に寄り添ってあげたくなる。
    そして徐々にリリアンとの穏やかな友情が育まれていく。初めて心が通じ合ったと感じたフランシスが、友情の芽生えを卵の白身やホワイトソースが煮立つ様子に例えるくだりは映像的であると同時に温かな匂いまで伝える素晴らしい比喩だった。それからなんと言っても二人の関係を激変させたフランシスの告白、そして自身のことを〈心臓に杭を打たれた吸血鬼〉に例えたフランシスの胸にリリアンが手をかざし、見えない杭を無言で引き抜くという、血が踊りだす最高にロマンティックな名シーン。『キャロル』のホットミルクのシーンと同じく、戻れない一線を踏み越えるイニシエーションの意味を持つ強烈に印象的なシーンだ。ここのためだけにでも本書を読む価値がある。恋愛小説として1000000点。
    愛し合う二人は一秒を惜しんで求め合う。しかし当然のことながら幸せな日々は長く続かず、リリアンの妊娠と堕胎、そしてレナードの死という思わぬ事態が二人の運命を狂わせる。大戦中は政治活動に参加し、女性だけで生活することも考えていた進歩的で聡明なはずのフランシスが、やはりどこかお嬢様気質な理想主義者であることが暴かれていく。堕胎と殺人という未知な経験を通し、フランシスにとってリリアンが再び異物のように感じる存在に変わっていく過程は胸が塞ぐ。フランシスは自分に自信がないから相手の気持ちを疑ってしまうのだ。「愛ってそのためだけのものなの?孤独から逃れるためだけのもの?誰にも相手にされなかった時のための保険?」という問いには胸がチクチクするし、堕胎シーンは本当にお腹が痛くなる。レナードとの口論は心理的ストレスで胃に穴があきそうになり、雨の中の死体運搬シーンは夜中に読むと怖すぎるほどの描写力で、マジでウォーターズは自分でくっつけたカップルをどん底に突き落とすことに容赦がない。
    疑心暗鬼に陥ったフランシスが久しぶりにリリアンとベッドに入り、悪霊に取り憑かれたように思ってもない言葉を吐いてしまうシーンは下巻の山場だと思う。ここでは読者にとってフランシスこそ異物と感じられ、リリアンが覚醒する。てっきりこのやりとりをきっかけにリリアンがフランシスを裏切って罠に嵌めるんじゃないかとハラハラしたが、あの言葉を食らわされても最後にフランシスに手を差し伸べるのは、殺人という決定的な罪で繋がる二人だからなのかと思うと切ないものがある。
    レナード殺しの容疑者として19歳の少年が逮捕されてからは、〈真犯人たちの目から見た不当裁判もの〉という捻ったサスペンス展開になる。戦争が殺人罪を男にとって名誉なものにした、とフランシスが激昂するシーンは物語の舞台である1920年代を象徴している。しかしそう言いながらも二人は自首することなく、中央裁判所で一度無罪になった事件は再捜査されないという一点にすがりながら無実の少年が裁かれるのを見ているだけだ。ここに至ってフランシスの正義感もぐちゃぐちゃに壊れていく。
    少年は無実だが、普段から棍棒を持ち歩くような街のゴロツキ。被害者のレナードも家庭内ではモラハラ常習者だったし、リリアンの気付かぬところで不倫もしていた。そしてリリアンとフランシスは恋に落ちたがために罪を犯してしまう。この事件全体がある種、自分だけが純粋で正しいと思っていたフランシスにとっての苦々しい通過儀礼だったとも言える。人の世に一点の曇りもない正義はなく、勧善懲悪を無邪気に信じる時代は終わった。そんな第一次大戦後の空気をひとつの女性カップルの秘めた恋を通じて描き出した、とてもとても苦いラスト。放り出されて茫然とする気持ちと、「サラ・ウォーターズは傑作しか書かないのか」という気持ちで二重の放心状態に陥る素晴らしいエンターテイメントだった。

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