阿呆の鳥飼 (中公文庫) [Kindle]

  • 中央公論新社
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  • 鳥を中心にした小動物に対する百閒先生の、愛情にあふれる…、というか、熱が入りすぎたかと思えば、急に醒めたり、と、まあ、何と言うか…。不思議な随筆集である。

    愛でる気持ちと、その真逆の気持ちが表れる、人間の矛盾性。

    「魚の死ぬのを上がると云い、小鳥の死ぬのを落ちると云い」。

    鶏の鳴き声がうるさい。二階の書斎にいて我慢していてもあまりに騒がしいので、癪に障り、わざわざ庭に出て棒で追い出す始末。余計に鳴き声が激しくなるwそして余計に頭にくるwww
    このエピソードは、百閒先生の姿が思い浮かぶ。

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著者プロフィール

内田百閒(うちだ・ひゃっけん)1889―1970
岡山県生まれ。本名・栄造。15歳のときに親友・堀野寛と出会い、堀野を通じて読書の趣味に目覚める。翌年、夏目漱石の『吾輩は猫である』上篇を読み、漱石に傾倒。19歳のころには俳句熱が高まって、俳諧一夜会や苦渋会という句会を結成。岡山近郊の百間川から俳号を「百間」とした。1910年、東京帝国大学文科大学へ入学。翌年2月に、静養中だった漱石を訪ねる。漱石の面会日「漱石山房」に出席するようになり、小宮豊隆、津田青楓、森田草平、芥川龍之介、久米正雄などと知り合う。以後、陸軍士官学校や法政大学で教鞭をとる。1920年には、作曲家・筝曲家の宮城道雄に知遇を得て親交が続く。同年、幼少期より寵愛を受けてきた祖母の竹が死去。1922年、はじめての著作集『冥途』を稲門堂書店より刊行。翌年、関東大震災に遭い、『冥途』の印刷紙型を焼失してしまう。1933年に三笠書房から『百鬼園随筆』を刊行してから、『冥途』の再劂版や第二創作集『旅順入城式』(岩波書店)、『百鬼園俳句帖』(三笠書房)などを刊行。その他、『贋作吾輩は猫である』(新潮社)、『ノラや』(文藝春秋社)など多数の書籍、作品を発表する。1965年には、これまでの功績を評価され芸術会員に推薦されながらも「いやだから、いやだ」とそれを辞退。それからも『麗らかや』『残夢三昧』(いずれも三笠書房)などを著す。多くの名筆を世に刻み、1971年4月20日に逝去。

「2023年 『シュークリーム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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