岡本行夫 現場主義を貫いた外交官 90年代の証言

  • 朝日新聞出版 (2008年12月5日発売)
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故・岡本行夫氏の回想録。1968年に外務省に入省してから1991年に北米第一課長を最後に外務省を辞め、その後、総理補佐官や内閣官房参与として沖縄やイラクに冠する政策立案に参与したところまでをカバーしている。サミットの調整、武器技術移転問題・戦闘機開発・SS20・湾岸戦争などの同盟管理の諸調整、沖縄問題などに、筆者が切り込み隊長として、外務省の同僚はもちろんのこと、官邸各省や米国、沖縄のキーパーソンと体当たりで調整し、難しい案件を前に進めて行く行動力、構想力、体力、精神力の全てに驚嘆するし、その当時の外交史の裏面を知る意味でも面白い。外務省版、安全保障版の官僚たちの夏という印象(課長で辞められてしまったが)。

また、当時の意思決定のシステムやステークホルダーが現在と異なっているのも面白い。特に政策を主導するレベルと主体。

まず、岡本氏が外務省を辞められたのは、霞ヶ関の仕事は課長クラスが一番面白いからで、その先は自らが切り込み隊長になるよりもマネジメントの要素が強くなること、自身が昇進するにつれて仕事が手堅く保守化してきていることから一度外に出たいと思ったということ。

このことは、官僚たちの夏よりも時代は下るが、80年代、90年代もまだ霞ヶ関の仕事は課長中心に動いていたということ。現在は官邸主導が言われて久しい。役人主導では、岡本氏のような型破り官僚をもってしても各省の利害を超える調整は困難を極める一方、役人自身のやりがいには繋がっている。現在のトップダウンシステムにより、採用にも影響が出ていると聞くが、官邸主導・政治主導も必ずしも魔法の杖ではない。

また、岡本氏の記述の中で安全保障を外務省だけが担当しているのは日本だけというような記述があるが、戦後の異常な体制は安全保障を外務省に押し付けるほど狂った体制だったのかと改めて思う。他国の例を見ても、外務省だけが安全保障を担当するのは、異常だし片手落ちを越えて両手落ちに近い。現在は、安倍総理の下で国家安全保障会議が出来て、内閣官房、防衛省、経済産業省、財務省など関係省庁が参加して意思決定を行っていると見られるが、この点については、岡本氏の時代よりも進化した点であると見られる。

そうした視座を与えてくれる点も含め、良書だった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年9月22日
読了日 : 2020年9月22日
本棚登録日 : 2020年9月22日

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