幸田文『台所のおと』、川口松太郎『深川の鈴』、高浜虚子『斑鳩物語』三篇のオムニバス作品。
冒頭『台所のおと』。
凄まじいほどの筆力で描写されているのに、息を呑む。
夫、佐吉のもう手の施しようのない癌を宣告された妻、あき。あきは、医師から、病人には決して悟られてはいけないと忠告を受け、自宅での闘病と看病とが始まる。
さてここまでは、別段変わりのない、どこの家庭にでもある話。
しかし、料理人一筋で、小料理屋を構えてきた佐吉のかわりに、あきは、自分が台所にとって店を取り仕切らなければならない。
そこへきて、佐吉は台所のおとを正確無比に聞き分ける。
水のあたる音を聞いて、菜のものの種類がわかる。包丁で刻む音で、板の前の人間の心情も読み取る。
料理以外には趣味も何もなかった佐吉は、障子を隔てて、台所に立つあきのおとを聞くのが慰め。
あきはそれを知っていて、自分のたてるおとが、佐吉に、病状の真実を伝えてしまうのではと、慮ってながら日々を送る。
物語は、近所の火事によって展開を見せる。
近所の魚屋の三男、秀雄が火事の出元と、ここの無事を知らせに家まで入ってきた。
どうやら、手伝いの下女、初子に気があっての行動だったらしい。
次第に翳りを見せていく佐吉と、それを取り巻くように物語の緊迫感は増していく。
夫婦の寄り添う日常は、そんな差し迫った死を前に、色艶を増し、佐吉は往年の夢だったあきとの新築を語り、あきは否が応でも、そう遠くない佐吉の死を前にして佐吉を見とるまで、自分が主人、手伝いの初子と秀雄の三人で料理屋を回していく未来を思い浮かべる。
後半にかけては、佐吉という男の一生を、これまで縁を持った女性たち、その女性たちが持っていた音によって語る。
人物の音によって、人物を描写していく筆致に恐ろしいほどの鮮明さがあって、ページをめくる手を止めさせる。
音という、限りなく抽象的な性質を持つモノが、人の描写に限りない具体性を与え得るという不思議に震えた。
物語の終焉は、くわいを炒めていたあきに佐吉の「ー芽がなすっちや、古株の形がわるいよね。そう思わないか?」の科白。
ここで、あきと同様に読者は、やはり佐吉は自身の不癒に気づいていたのかと、確信にいたるのだけど、不思議と死の陰鬱さとか、恐怖とかは無い。
新築の夢は、自身の叶えたかった夢を、やり残したことを終えてしまいたい、といったものではなく、あきがこれから主人になるその構える城として残すため。
見て覚えろと、教えなかった料理も、懇切丁寧に言い聞かせ、新築の具体的な間取りに、取付までも言い聞かせた。
それもすべては、最後の科白に集約される。
佐吉の臨終は描かれない。最後の科白のあと、〝えらくたくさん喋った〟と筆を置く。
佐吉にはこのような最後しか有り得ない。そう思ってしまうほどの、物語に付与された、夫婦の絆の辿る道。確実性。限定性に感服する。
私が一番好きなのは、茶を焙じる場面。茶葉を焙じるときのおと。
本オムニバスの命題、『音』に見事に合致する。
物語のそれぞれの場面で、当人以上に内情を語る音のかずかずを読めば、人の放つ音がどれほどその人を表すかを如実に物語っているとわかる。
幸田さん、よくここに視点をあてたなぁと、思う。
『深川の鈴』は、作家志望の青年、私と、子二人を抱え深川に鮨屋を構える後家、お糸さんの愛の話。
生きていくことの内実に焦点があてられつつ、生きていくとことの些末で、不都合なあらゆる雑多な出来事を、文学を志す純朴な青年の真摯さと、それを側で支えるお糸さんの愛が、打ち消していく。
人は物語に生きる。
それがよくわかる。洗い物から、飯炊き、料理、掃除、洗濯。労働、金銭の種々。すべてをひっくるめた、この煩雑な生活すべてが、他の何とも結びかずに、ただそこにあるのだとすれば、人は何のために生きているのかと、たちまち心を病むだろう。
愛は、生活に意味を加え、その他一切を打ち消していくことができる。
『深川の鈴』の凄味は、その生活を立ち行かせていくという点で、芽生え育まれていた愛を決定的に、すれ違わせる現実を描いたところだ。
私は、執念と努力の甲斐あって、懸賞に入賞し、文士としての道を切り開く。
お糸さんとの愛はますます、深まっていくと思えたが、鮨屋の職人として、二児の母としての生活とは、互いに交わらないものだった。
お糸さんは鮨屋の婿を取り、私はあっさりと、一人になってしまった。
しかし、お糸さんは自分の生活を守りながら、私を裏切ったのではなく、文士として羽ばたくであろう私を世に送り出した。
この愛の結実に、二人の愛の誠実さと、苦しい思いを断ち切ったお糸さんの人間としての深みが感じられる。
物語は終わらない。
文士と映画俳優養成学校をしていた、私のもとに、当時、私が可愛がっていたお糸さんの娘の娘が生徒としてやってくる。
私はお糸さんとの再開を試みるも、お糸さんは女性の容姿は変わるもの、と断る。
私は、それを認め、再開はせずに終わる。
愛を思い出の中にしまうことで、それが、損なわれないように、よりにも増して、輝くように保存する。
これが、琥珀のようでもあり、私の思い出の中に完全に生き続ける物語となって終わるというのが、心を打たれた。
『斑鳩物語』は、坊主と健気に働きながら、叶わぬ愛の前に精一杯生きる娘、お道さんを、主人公、私が眺め、描写するお話なしである。
私の、傍観者に徹する筆致が、読み終えてからじわじわと良さを覚える。
お道さんの恋が、機織りと筬の音、彼女の歌で表現されるところも、これは、聞いている、読んでいるこちら側に、それぞれの感傷を抱かせてくれる装置として意味を持っている。
描写的な文章が苦手だった自分には、その描写の目的と意味とを考えろと言いたい。
今は、斑鳩物語と題した、作者の真意がまだわからないが、法隆寺、若草伽藍を舞台にして、そこで繰り広げられる、修行僧と、娘との恋にもなんらかの意味があるのだろうか。
三作とも選りすぐられている、名作で、タイトルの通り、音が物語を動かし、人に命を吹き込んでいる作品ばかりだった。
この『音』。普段から、私も気をつけて聴いてみることにする。
人の放つ音といものに、人が読みとれるということを、本書より学んだのだから。
- 感想投稿日 : 2022年1月28日
- 読了日 : 2022年1月28日
- 本棚登録日 : 2022年1月28日
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