氷 (ちくま文庫 か 67-1)

  • 筑摩書房 (2015年3月10日発売)
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感想 : 101
5

 作品を評する際に、美しく、かなしい物語、という形容詞をつけるのは陳腐すぎるだろう。しかし、少なくとも美しさに関して言えば、この小説は私が今まで読んだどんな物語よりも美しいと感じた。
 得てして美しい物語というものは、解説や感想を述べづらい。人間の最も根源的な感情に侵入してきて、言語化することを妨げるからだ。加えてカヴァンの氷は、序文や解説で述べられているように、明瞭な筋道が存在しない。物語は不連続かつ不確実で、フラッシュバックのように脈絡のない文章が、一行空きもなく差し込まれる。そのため読者は絶えず混乱しながらページを捲ることになる。
 時代や場所、登場人物の経歴などは作中に一切提示されない。軍部が力を持ち、おそらく核兵器も存在するようだが、「王」や「竜」といった単語も登場し、中世的なメルヘンの様相も帯びている。そもそも筋がめちゃくちゃなのは先に述べたとおりだが、視点すらも定まっていない。「私」が主軸の一人称単数の文体のはずなのに、主人公は見ていないはずの風景も、あたかもそこに存在するかのように語っている。神のように。そうなると、これは惑星自身が死の直前に見る走馬灯なのではないかとすら思えてくる。
 作中のなかで、唯一確かな存在といえるものといえば「少女」だけである。少女はあらゆる時代と場所に存在するようだ。何度となく損なわれたはずなのに、完全に消え去ることはなく、主人公の心を惹きつけ続ける。しかし、主人公が少女を手に入れることはできない。
 少女は脆く、儚い。常に被害者であり、虐げられている。主人公は少女を追い求める。絶対的な真理を求めるかのように。しかし、それが叶うことはない。加えて、主人公の最終的な目的は、少女を守ることではなく、少女を手に入れて傷つけるためだ(主人公が少女を守ることを決めたのは物語の最終盤である)。では、なぜ主人公はそんな目的を抱いたのか? 二人の関係性は? もちろん、作中でそれが明示されることはない。少女とは何者なのだろう。何かのメタファーなのか。
 少女とは対比的に描かれているのが「氷」だ。氷は絶対的、圧倒的な存在で主人公(と人類)を追い詰める。カヴァンの緻密かつ、過剰な文章によって、氷の、その無機質で究極の恐ろしさが描写されている。読んでいるだけで息が詰まりそうになる。そして、それは絶対的であるからこそ美しいとすら感じてしまう。

と、その時、驚異的なものが現われた。この世のものとは思えない超常的な光景。虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった。その光景を見下ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光のもと、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。
――アンナ・カヴァン『氷』P212

 氷は死の表出なのか。あるいは、死、そのものなのだろうか。いや、氷は死をもたらすだけで、死そのものではないはずだ。限りなく抽象的なのに、どこまでも現実的で、鋭く、触れれば痛みを伴うもの。心とか、愛とか、そういったものに近い気もしてくる。
 それでは少女は生の象徴か? いや、どちらかというと少女の方が「死」の具現のように思える。長官は少女を屈服させ、従属させようとする。だが、それは不可能だ。死を超越できる人間がどこにいるのか。
 やはり、読者は主人公はなぜ少女を追うのだろう、ということに根本の疑問に行き着く。少女的死と氷的死には違いがあるのか。少女の甘美さと無垢さは、死そのものを追い求めるほどの力に変換されるのか。幻想、孤独、真理。
 もしかしたら、人間というのは、完璧な死を望むものなのかもしれない。死という最終的なゴール、その一瞬を完全なものにするべく人は生きているのかもしれない、なんてことすら考える(そういえば、凍死が一番美しい死だと述べていたアーティストがいた)。

 と、ここまでつらつら文章を書いてみたけれど、感想にも考察にもなっていない。この小説は一度通読した後、適当にページを開いて、そこに書かれてある文章をただただ受け入れるというのが、正しい鑑賞方法のような気もする。カヴァンの徹底的な描写力。これがこの小説のキモなのだから。

 終末系SFであり、壮大な叙事詩であり、セカイ系であり、心の底からの絶唱である。セカイ系のラストとしては、円満なオチだ。世界は終わるし、主人公は愛を手に入れる。カタストロフィックでドラスティックなのに、最後だけは暖かく静かに終わる。
 チョコレート、インドリ。こういうアイテムが出てくると、この世界は我々の世界と地続きなのだ、と思えてくる。しかし、この世界がはるか昔なのか、遠い未来なのか、現在の平行世界なのか。いや、これはどこまでも現実なのだ。暴力はやまず、犠牲者は増え続け、そして『氷は必ずやってくる』。

 彼は時空間の幻覚について語った。過去と未来が結びつくことで、どちらも現在になりうる、そして、あらゆる時代に行けるようになる、と。私が望むなら、自分の世界に連れていってあげようと言った。彼と、そして彼と同種の人たちはすでに、この惑星の終末と人類と言い種族の終焉を見ていた。人類は今、集合的な死への願望と自己破壊の衝動によって、この地上で死にかけている。ただ、生命そのものは終わらずにすむかもしれない。この地での生命は終わった。だが、別の地で生命は続き、大きく広がっている。そのより後半の生命に我々人類も加わることができる。我々がそれを選ぶならば。
――アンナ・カヴァン『氷』P201

https://www.youtube.com/watch?v=FjdFG_MV2MU

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年6月25日
読了日 : 2022年6月25日
本棚登録日 : 2022年6月25日

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