蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫 あ 2-7)

著者 :
  • KADOKAWA (1989年3月20日発売)
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感想 : 65
5

『袈裟と盛遠』
「源平盛衰記」を範に取った、遠藤盛遠と袈裟御前の秘め事とその結末を、お互いの独白で語る形式になっている。なんともいえぬ醜怪さと艶麗さに圧倒された。心理描写がすばらしかった。肉体の匂いや、懶惰な心の乱れ、倒錯的な媚態、お互いが何をもってここまで惹きつけられあってしまうのかを理解しきれずにずぶずぶと窮地に落下していく様が目を見張るほど美しい。恐らく、お互いが鏡であり、相手を愛するようで、自分の存在を見つめ、惨めな自分が愛おしいのだろう。どうしようもない二人だ。死をもって償う女と、殺人を持ってケジメをつける男。破廉恥で不道徳な二人の結末が碌でもないことは目に見えている。
違ったら申し訳ないが、この廃れ具合こそデカダンスと言われるものなのでは?と生意気な雑魚ながら思いました。

『蜘蛛の糸』
昔から内容はどういうわけか知っている話の原作についに触れた。殺人まで犯しているカンダタという男が、一度だけ過去に蜘蛛を助けるという善行を積んだだけで、地獄から極楽へと登って来れる権利があるとはまあ思えない。しかし、蜘蛛の糸という脆く儚いものを辿るという行為自体に、彼の器量が試されているととれば、結果は目に見えた惨酷なことをお釈迦様はするものだと感じる。きれた糸が短くなって天上にぶらぶらぶら下がっている描写は虚しさの極みである。蓮の花が静謐な池の水面に咲いていられるのは、カンダタのような人間が極楽にはいないからで、地獄での彼らの行為は、極楽にはなんの影響をも生じさせない。カンダタがどれほどかけて登ったかわからない時間は、極楽ではせいぜい朝から昼になったほどの一瞬である。地獄と極楽の明らかな隔たりに使われる極楽な美しい風景と地獄の凄惨な光景、このような明らかな対比がなんともいえぬ恐怖を感じさせる。これらは我々の心に焼き付いて忘却を許さない。この作品が寓意小説の中でも白眉である点はそこかもしれない。

『地獄変』
芥川龍之介は、良く言えばストイックな芸術家であり、悪く言えば狂気的人間であったのだろう。作中の、溺愛する娘を焼き殺してでも屏風絵を完成させる良秀の執念は常軌を逸している。当時自然主義文学が幅を利かせていたことへの喝とでもあろうか。しかしそう思う私自身も、この狂気な話に目を背けず、この物語の語り手のように目を開いて見入ってしまうほどの光景と、それを紡ぐ文体の美しさには脱帽。ただ語り手がちょくちょく腹正しい。大殿は優れた人間とか抜かしているが間違いなく嘘で、目上に逆らえぬ故に隠しているのだろう。あの最後の炎上の場面で、唯一見惚れることなく飛び込んで行ったのは猿だということも興味深い。人間にしか理解できぬ、奥底に眠る醜悪な審美眼を、みている全員に目覚ました瞬間とも思える。だから人間はあの場で立ち尽くすなり、不敵な微笑を顔に写すことくらいしかできないのであろう。

『奉教人の死』
伝説を基にしたような体裁で、昔話を聞かされているような感じである。キリストに関する言葉が並べられて馴染みがなく、少々苦労したが、読みすやすいとは言えないがこれまた艶麗な雅文が良い。伝説を聞かされるのならこの文体がいい雰囲気作りをすると思う。元は外国の話を改変しているのかはわからないが、話のオチも『ごんぎつね』や『鶴の恩返し』のように最後に驚かせられるような事実がわかる感じは日本風に感じた。ただ、印象的だったのは物語が語り終えられた最後の、
「その女の一生は、このほかに何一つ、知られなんだげにら聞き及んだ。なれどそれがら何事でござろうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換えがたい、刹那の感動にきわまるものじゃ。〜略)されば「ろおれんぞ」(その女)が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。」という部分である。普通なら語り継がれればいいという美学が用いられそうだが、この目に見えてるものこそが良いというのは、『地獄変』の良秀の考え方に似ているところがある。解説を読んでみると、「龍之介はやはり恍惚の一瞬に、あらゆる残滓を払った真の人生が出現するとの夢想を語った」とあり、得心した。

『枯野抄』
間も無く臨終が迫っている芭蕉の床の周りを、弟子たちが囲んでいる。師匠の最期の際に、その弟子たちは各々、万別な思案を巡らす。
人間の死に際に心の底から悼み、弔うことのできる人間がいかほどいるであろうか。その中には多からず少なからず、様々な雑念—例えばそれは安堵であったり、充足、悔恨、期待、解放、不安といった感情—が存在するのではないか。何故なら生きている人間には、この先に起こる未知の出来事がはらんでいるからである。それ故に人は純心を喪失し、鞠躬如として混濁な心を手にする。その様な心はおそらく、彼らが死ぬ時にもまた、彼の床を囲んだ誰かから向けられるのであろう。悼みを願うこと等は高慢ちきで不相応な願いなのかもしれない。それならどうするべきか。生きながらにして、何かに夢中になる事しかないのではないか。芭蕉は僅かな遺言だけを口にし、旅に夢中な瞳のまま死んでいった。その心に死を悼んでほしいといった願いは恐らくなく、恍惚のまま儚く消えることができたであろう。人生の最期の時に、誰かに縋らず、自身が自身へ向けた気持ちのみで完結できたら万歳であろう。

『邪宗門』
『地獄変』に登場した大殿の息子である若殿の物語。変なところで終わるなと思ったら案の定未完の作品らしい。とても面白いがテーマがいまいち掴みきれなくて解釈に困る。新たな価値観の侵入を、古来から続く価値観を保持する大衆はどうするかということに思えるが、芥川龍之介自身の判決が下されていないので我々で考えなければいけない。

『毛利先生』
生きる事は至極辛苦を伴うものだが、それを他人に理解されることは殆どなく、無様なその体裁を嘲笑われるのが常である。どうしてか、我々は客観に立場を置くことを苦手とする癖に、それを相手に求めてしまう。毛利先生も哀願の眼差しを生徒らに向けたが、失笑を喰らう羽目になった。私だって生徒の立場ならそうしないとも限らない。だからこのような物語によって人のそういう性質を学んでいる。
でも毛利先生は強靭な心を持っている。普通なら絶望してもおかしくない。誉も信頼も金も得られずとも「教師」を行うことが生き甲斐であり、自分が人としてあるための必須物なのであろう。歳を喰えばなお、この先生の痛みが理解できそうだが、それは人生がうまくいっているからとは言えないかもしれない。

『犬と猫』
日本昔ばなしにありそうな、童話であった。
誠実に生きれば報われるといった内容である気がしたが、手柄を自慢する様な心持ちが少なからずあるのが人間らしいなと思った。見せびらかさなければ二次災害も起こらなかったかもしれないのに。また、ネットのいろんな意見を見て改めて思ったのは、この主人公にとっては、木こりという仕事の他に、笛を吹くことが生き甲斐であり、それを続けた結果に幸運の道が開けた。前回の『毛利先生』のハッピーエンド版と思えば、芥川龍之介が望む生き方が見えてくるかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年12月8日
読了日 : 2021年12月8日
本棚登録日 : 2021年11月30日

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