東方綺譚 (白水Uブックス 69)

  • 白水社 (1984年12月1日発売)
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感想 : 47
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『老絵師の行方』
幻想の世界を絵画の力で現実に作り出してしまうという何ともぶっ飛んだ内容だが、とてつもなく美しい表現がたくさん使われ、絵画になぞられるような比喩表現は絶品であった。
「沈黙が壁であり言葉がそれをいろどる色彩であるかのように、語ったのだ。」9ページ
世紀をいくつか遡るほど昔からアジアに伝わる伝説の物語のような雰囲気だが、これを書いたのはフランスの近代作家というのが驚きである。当時の漢には、こんな逸話が生まれるほど、絵画のような芸術に対する憧憬や蠱惑や未知や新鮮さというものがあったとでもいうのだろうか。
老絵師は現実に存在する事物よりも影像を愛している。そして老絵師が事物を絵の中に投影すると、その事物は瓦解していってしまう。ここがなんとも不思議であった。老絵師が弟子の妻を描くと事物の妻は萎れ、弟子は絵の中の妻の方に魅力を感じるようになる。また、海や山や花を描けば、その絵を一度見たら事物の自然に感動しなくなってしまう。ここに何か深い意味を見出すことは拙劣な考察力の私にはできないが、西洋から見た東方の珍妙な印象が育んだおかしさなのかも知れない。
芸術賛美の物語とも思ったが、それだけではなさそうである。老絵師の絵の持つ明証性というものがキーなのかも知れない。人間の生き方や価値観は定まることなく、長い時間の中で流転していく必然性がある。それ故に人間には脆さがある。しかしそれは必ずしも悪い事ではない。柔軟な都合の良さや狡猾さが現実の世界では求められる。しかし絵となると、ましてや一流のものとなると、絶対的な美となって、そしてそれは疑う余地のない真理として不動の物になってしまう。刹那的な存在である現実は、永続的となった影像の前には平伏すしかないのかも知れない。永遠がありえないのもさることながら、一瞬でも現実世界でその真理であることすら許されないなら現実は取るに足らぬ物となってしまう。妻もずっと綺麗ではいられず、自然もやがては朽ちる。現実と幻想の差異は尨大で、現実に生きる人間にはそれがなんとも残酷に映るのだろう。

『マルコの微笑』
血液や汗の匂いが充満する猛々しさの中に、官能の雫が滴るような魅惑を持つ物語であった。
豪傑さと艶やかさを併せ持つマルコに、拷問による苦痛を与える所は三島由紀夫の『仮面の告白』を彷彿とさせ、目を伏せたくなるグロテスクさがあった。英雄であるマルコはカリスマ性、権力、美貌を恣にし、戦禍であったために命を狙われる。安らぎを与えてくれた寡婦がマルコを裏切ったことで彼は敵に捕まり、暴虐の限りを尽くされるが、身躯をピクリとも動かさずに耐え、死んだふりをして遁走の時を窺っている。そして凡ゆる損傷に耐え抜いたマルコであったが、色仕掛けにあった彼は僅かに気を緩める。圧倒的苦痛を耐え抜く忍耐でさえ、官能の前には歯が立たないというのがいかにも古典的男の姿を象徴するかのように感じる。倒錯したような、この禁断の果実とでもいうべき領域にある甘美なエロスは、その描写自体にえぐみがなくとも、その前段階である残酷な苦痛のあとに添えられるだけでこの上ない扇情的な効果を持たせ、男をふりまわすに十分足りる。屈強なマルコに笑みを零させらほどの力がある。やがてマルコは自らを欺き拷問させた寡婦を殺害して自分を誘惑した女と共にその場から逃げる。英雄伝説に相応しい不思議な味を持つ物語であった。英雄とは豪傑と艶麗さのバランスが必需なのかもしれない。
だがあくまでもこの英雄伝は伝説のような物であり、事実かどうかは分からない。劇中でも現在の技師が歴史を語るように述べられているので、奇譚の一つである。

『死者の乳』
形式は『マルコの微笑』と似ていて、現在の人間が伝説を語るという形式である。この物語にも、如何にも奇妙で残酷な面があったが、「マルコの微笑』が男の象徴する姿とするなら、この作品は女のそれといえるかもしれない。大昔の女性像の理想とは、男を支え、子を持ったら愛情を持って育てるということなのだろう。
アルバニアの男三兄弟は、トルコからの侵略を阻止するため、物見をするための塔を建設しようとするが、うまくいかない。当時の風習として、生贄を捧げなければ建築は行えないというものがあったため、男兄弟は配膳をいつも届けてくれる自分らの妻らに目をつけ、次配膳に来る3人の誰かの妻を生贄にしようと話が決まる。長男は妻に愛想を尽かし、新たに思い人がいるのであわよくば妻が生贄になればと思っていた。妻を生贄にする提案をしたのも彼である。次男は、妻を思う心があり、次の配膳の日は顔を出さずに洗濯をしてろと脅迫的に説得した。そして三男は妻と比翼連理であり、抱き合いながらどうか配膳当番が妻ではありませんようにと願った。三男は塔の建設という男の役割にも誇りを持っていたために生贄に関しても仕方がないと受け入れる。三男の夫妻には生まれたばかりの赤子がいた。
生贄を捧げるの当日、兄弟の前に姿を表したとのは残酷にも三男の妻であった。運命というのは悪いほうへ傾いていく。そんな運命すらも受け入れた三男の妻は、生贄になる前にある条件を提示する。それは、自身が捧げられた塔の前に息子を毎日連れ、私の乳を与えてくれというものである。畢竟、女は次の日には死んでしまったが壁からはみ出た乳は輝きと生力を失わずに、子供が必要としなくなるまで乳を出し続けた。その伝説が起きた聖地である塔には、何世紀か経っても、心打たれた母たちが訪れたという。しかしその塔も、今や誰の記憶にも留めることはなく忘却の中へと消え去った。かつて崇められた女性像はなくなり、金というものに縛られた母親が跳梁するようになったという。
新たなもの(それは価値観でもなんでも)が生まれる時、必ずしも温故知新のようにいくわけではないことを嘆くかのような話でるような気がした。ユルスナールは歴史作家でもあるようなので、歴史の捉え方を見直すように言っているのかとも感じた。


『源氏の君の最後の恋』
源氏物語を題材にしており、内容も外国の人が執筆したとは思えない程にとても日本的であった印象である。
若い頃の源氏の君は自分を慕う女に困る事などなく、困らせられたのは当然女の方であったが、耄碌してくるとその立場も反転してくる。嘗てのような麗しく新鮮な瑞々しさを失い、女からも裏切られるようになった君は隠居生活で人生の終焉を迎えようとし、矛盾と不純の愛に憔悴したような様子が感じられる。その生活の中で、やがて君は目から光を失ってゆく。その様子を描写した「彼の愛したかよわい女たちのために流した涙で目を焼かれたかのよう」という表現は、まさに過去の狂乱と愛欲に浸かった婚姻生活が垣間見れる一文である。現に彼を愛した女は沢山いた。そして花散里もその一人であり、彼女は身分と縹緻が共に斗出しているわけではなかったが、源氏に加え、その妻にまで忠実に仕えていた女である。それでも自身の境遇に不満を持つどころか、感謝の念を抱いていた。源氏の側に身を置くことがこの上ない幸せであったからである。そんな彼女は隠居している源氏に逢いに行くことを決心する。それも素性を隠して。昔を思い出すことを嫌がり、自身が忘却されることを願う君のためにである。そして正体を言わずに生活を続ける二人であるが、やがて君が亡くなる時、嘗て愛した妻や情人の追憶に耳を貸す花散里であったが、その中に素性を隠した自分はいても、花散里としての自分が思い出されることはなく、彼女が慟哭して物語は終わる。
この物語は、源氏の君と花散里が初めて純真な恋慕の情を抱くようになった所にあると思う。片方は派手で、片方は慎ましやかに恋をしてきた。そして過去の生き方があまりに異なりすぎた故に、最期は本来の自分としての過去の軌跡を共有することが叶わなかった。そして今まで見せてこなかった花散里の素直な気持ちが最後に表に出てきてしまう切なさは無情な悲しさがある。つつましく、自己を押し殺してきた生き方を痛罵されるような境遇は、運命が嘲笑っているかのようである。恋というものがいかに冷酷にできているかが改めて実感させられる。

『ネーレイデスに恋した男』
いままでの作品は全昔話の伝説を語るような形式であったが、本作は語り手と同じ時代に起こった不可思議な幻惑の物語となっている。
石鹸工場の所有主のジャンが、目の前にいる啞となったパネギョティスという男の身に降りかかった顛末を話すという形式。
美女の憧れの的であるほど眉目秀麗で、裕福な百姓の息子であったパネギョティスは、ある日家畜の羊が二匹倒れたので獣医を呼ぼうと、山の向こう側の麓にある獣医の元まで暑熱の中山へと出かけた。ところがあくる日の夕方にやっと戻ってきた彼は亡者のようになり、おぼつかない呂律で美しい裸の女を見たと言ったきり口もきけない腑抜けになってしまった。
倦怠と空虚のみしか感じない人生行路から抜け出し、幻影の世界を羨望する人間につけいるかのような、ニンフの蠱惑的なイタズラ。世間の潮流からの逸脱したものへの憧れがこのような話を生むのかもしれない。お金持ちのジャンもニンフの犠牲者のことを哀れむことはしない。むしろ羨ましそうな気さえする。
最後に登場する三人の外国人の女性らもネーレイデスと「私」に言われている。彼女たちは世間から隔絶されることを望んで三人だけで暮らしている人間である。度合いの違いからパネギョティスにはネーレイデス(ニンフ)と認識しなかったが、俗を生きるジャンや「私」には女神、ネーレイデスとして目に映る。
人物描写に大地に生きる神聖な生物を思うかのような神秘的な感じがしたのはやはり現実的な側面から乖離したものとして表したかったからであると私は思う。


『燕の聖母』
修道士テラピオンという、キリスト教布教に邁進し、他の宗教に並々ならぬ憎悪を持つ偏屈な老人が、ギリシャの村で悪戯するニンフの撲滅を企む。これはキリスト布教の悪の一面とでもいえるかもしれない。ニンフはギリシャの村では信仰の対象であるが、テラピオンは蹂躙を止めることはない。宗教のあり方とはなんなのかと思った。やがて洞窟に追い込まれたニンフは飢死しそうになるが、突然現れた聖母マリアの象徴のような女性が現れ、ニンフ達を燕にして解放する。結局はキリストが問題を解決する。小説全体としては御伽噺として綺麗で良かったが、内容に関してはキリスト賛美をこちらに押し付けているような気がしてしまった。
ところでギリシャのニンフという存在にとても興味を持った。信仰の対象でありながら人に危害を加えるもの。自然という存在が、人が賛美しながらも、人を陥れるそのものなので、大地に生きる存在として説得力のある信仰であると感じた。

『寡婦アフロディシア』
短いながら怒涛の展開を見せる短篇であった。黒い情熱を宿す生粋の魔女、ここに誕生といった感じである。このような女が放つ蠱惑のような威光は何なのであろうか。窃盗や殺人を繰り返す悪漢と逢引きする、それも自らの夫を殺した人間と。この女のもつ凄まじい情念を、美しいメタファーと流麗な文体でつづり、読者は恐怖の酩酊へと誘われる。彼女は悪漢との逢引きが夫に見られてる様子を「影絵芝居の滑稽な嫉妬(やきもち)やきのように喜劇的で大げさなおびえ方」としか捉えず、「(私)の恋愛劇にちょっとした笑劇の風味」と嘲る。そして悪漢と自分の情事を「かくす掛け布団の役」と夫を認識している。何が彼女をそうさせたのかなど議論の対処としない。ただ扇情という名の悪魔から背中を少し押されただけである。我々は悪漢と魔女が交わした情交のグロテスクな瑞々しさを有り有りと体験しなければならない。男を誘惑し、騙し、裏切るが、誰よりも愛を信じ、尽くしきる。そしてその最期は無様にも儚く散りさる。この異様な弱々しさに気味の悪い切なさを感じてしまう。それはテーマが身近で月並みな愛だからであろう。深淵と黄昏の底に沈んでいく彼女から、声にならぬ叫びが私の胸臆に響き、気持ちの悪い何かを掘り起こされるような気分になる。文学に登場する悪女は、『真珠夫人』の瑠璃子しかり、既知である筈の愛を、魅力に包みつつも遥か知らない領域で展開してくるから面白い。

『斬首されたカーリ女神』
神の人間界への追放はよく聞くが、他の神々の嫉妬から人間界へ捨てられるような形で追放されるのは初耳であった。ヒンドゥー教の神話を題材にしているらしく、興味を持った。どうやらトーマス・マンもこれを題材にして小説を出しているらしい。神の頭部に娼婦の体を繋がれたカーリ女神。女神の神聖さと醜い情欲を持つ人間の混合である。魅力を知らなかった女神と魅惑をしりすぎている娼婦。女神はこれに耐えきれずに賢者に嘆くが、人間は多かれ少なかれその混合に生きている。自身の醜さには目を背けたくとも抗えない。哀れなカーリ女神こそが人間の象徴ではないか。

『コルネリウス・ベルクの悲しみ』
この本の冒頭の『老絵師の行方』との対比を為すのであろうことはすぐに気がつく。事物の影像をとことん愛した画家と、人間を描き、人間を探索し過ぎて嫌気がさした画家。芸術の探究心の持続が如何に艱難辛苦を伴うことか。最近読む作品には偶然にもこのことを実感させられる。
または幻想と写実の対決のようにも読めた。これは幻想の勝利の一つを提示しているのか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年5月26日
読了日 : 2022年5月26日
本棚登録日 : 2022年1月4日

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