当事者主権 (岩波新書 新赤版 860)

  • 岩波書店 (2003年10月22日発売)
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普遍的な当事者問題について扱っていると思っていたが、内容は8割ほど障害者や介護を通じて考える当事者問題。しかし、そこから、当事者主権への流れはわかりやすく、障害者や介護問題からフェミニズムへと当事者主権という点で繋がるのかぁと思って読んでいた。パターナリズムについても理解を深めることができたと思う。
当事者主権、「自分の事は自分で決める」を通じて、「はたしてどれだけの人が、障害者のように、みずからの人生の主権者として自己選択と自己決定にもとづいて生きているのだろうか。企業組織で働く時、欠陥品を販売していると気づいた時、自分の地位をかけて人生の主権者たりうるだろうか。いま日本社会が一番必要としているのは、一人ひとりの個人が、みずからの人生の責任ある当事者として生きることではなかろうか。」は、刺さったなぁ。

以下読書メモ
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・ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。だからニーズに応じて、人はだれでも当事者になる可能性を持っている。当事者とは、「問題をかかえた人々」と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである。

・当事者主義では、いろいろある主義主張のひとつ、それも偏った少数派の意見ととられがちだし、また当事者本位という言い方では、またしても「あなたがほんとうに必要なものを私たちが提供してあげましょう」というパターナリズム(温情的庇護主義)にからめとられてしまう危険性があるからだ。

・当事者主権は、何よりも人格の尊厳にもとづいている。主権とは自分の身体と精神に対する誰からも侵されない自己統治権、すなわち自己決定権をさす。私のこの権利は、誰にも譲ることができないし、誰からも侵されない、とする立場が「当事者主権」である。

・当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家族も、 専門家もーー私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である。

・当事者主権の要求、「私のことは私が決める」というもっとも基本的なことを、社会的な弱者と言われる人々は奪われてきた。それらの人々とは、女性、高齢者、瞳害者、子ども、性的少数者、患者、精神障害者、不登校者、などなどの人々である。この社会のしくみにうまく適応できないために「問題がある」と考えられ、その処遇を自分以外の人々によって決められてきた人々が、声をあげ始めた。

・障害者の自立とは何か。二四時間介助を受けても、自立していると言えるのか?自立生活運動が生んだ「自立」の概念は、それまでの近代個人主義的な「自立」の考え方ーだれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくことーに、大きなパラダイム転換をもたらした。

・ふつう私たちは「自立」というと、他人の世話にならずに単独で生きていくことを想定する。だがそのような自立は幻想にすぎない。どの人も自分以外の他人によってニーズを満たしてもらわなければ、生きていくことができない。社会は自立した個人の集まりから成り立っているように見えて、その実、相互依存する人々の集まりから成り立っている。人生の最初も、最期にも、人と人が支え合い、お互いに必要を満たしあって生きるのはあたりまえのことであり、だれかから助けを受けたからといって、そのことで自分の主権を侵される理由にはならない。

・高齢者に限らず、だれでもニーズを他人に満たしてもらいながら自立生活を送っている。そう考えれば、高齢の要介護者や障害者の「自立生活」は、ちっともふしぎなものではない。最期まで自立して生きる。そのために他人の手を借りる。それが恥ではなく権利である社会をつくるために、障害者の当事者団体が果たしてきた役割は大きい。

・私たちは当事者を「ニーズを持った人々」と定義し、「問題をかかえた人々」とは呼ばなかった。というのも何が「問題」になるかは、社会のあり方によって変わるからである。誰でもはじめから「当事者である」わけではない。この世の中では、現在の社会のしくみに合わないために「問題をかかえた」人々が、「当事者になる」。社会のしくみやルールが変われば、いま問題であることも問題でなくなる可能性があるから、問題は「ある」のではなく、「つくられる」。そう考えると、「問題をかかえた」人々とは、「問題をかかえさせられた」人々である、と言いかえてもよい。

・それなら「障害者」に「問題」や「障害」を抱えこませた原因は、社会のしくみの側にあるのだから、それを補填する責任が社会の側にあって当然だろう。そのように社会の設計を変えるということは、「障害」を持った(持たされた)人がハンディを感じずにすむだけでなく、障害のない(と見なされる)人々にとっても、住みやすい社会となるはずだ。

・「女性問題」と呼ばれることがらを考えてみてもよい。「職業と家庭の両立」は、いつも女性にとって「問題」だ、と言われつづけてきたが、前近代までは、農家の主婦にとって「職業と家庭の両立」は問題にならなかったのだから、それは「職業と家庭の両立」がむずかしいような社会のしくみを造りあげてしまったことが原因である。しかも、それが「女の問題」であって、「男の問題」にならないのは、男がその「問題」を女にしわよせしてきたからである。女性解放運動は、それに対して、「問題」は女の側にではなく、社会の側にある、とパラダイム転換をおこなった。そのことで、みずからが、社会の「お客様」ではなく、主人公、つまり「当事者」になったのである。

・専門家とはだれか。専門家とは、当事者に代わって、当事者よりも本人の状態や利益について、適切な判断を下すことができると考えられている第三者のことである。専門家には、ふつうの人にはない権威や資格が与えられている。そういう専門家が「あなたのことは、あなた以上に私が知っています。あなたにとって、何がいちばんいいかを、私が代わって判断してあげましょう」という態度をとることを、パターナリズム(温情的庇護主義)と呼んできた。パターナリズムはパーター(父親)という語源から来ており、家父長的温情主義とも訳す。夫が妻に「悪いようにはしないから、黙ってオレについてこい」とか、母親が受験生の息子に「あなたは何も考えなくていいのよ、お母さんが決めてあげるから」というのも、パターナリズムの一種である。

・専門知としてのこれまでの学問と当事者学との、もっとも大きな違いは、非当事者が当事者を「客体」としてあれこれ「客観的」に論じるのではなく、当事者自身がみずからの経験を言語化し、理論化して、社会変革のための「武器」にきたえあげていく、という実践性にある。

・同じような動きをもっと大きな規模で実現したのが、フェミニズムがもたらした女性学であった。「女とはどんな生き物か」をめぐって古来からあれこれ論じてきた男の哲学者や宗教家たちはたくさんいたが、そのどれもが「女とはどんな生き物であってほしいか」「あるべきか」をめぐる、ご都合主義的な論議で、女自身の声は長いあいだ、表にあらわれなかった。女が自分自身の経験を言語化したのが、女性学の成り立ちである。「女とは何者か」を当事者自身が自己定義する試みであると言ってよい。

・専門家が「客観性」の名においてやってきたことに対する批判が、ここにはある。というのも「客観性」や「中立性」の名のもとで、専門家は、現在ある支配的な秩序を維持することに貢献してきたからである。むしろ当事者学は、あなたはどの立場に立つのか、という問いを聞く人につきつけると言ってよい。社会的弱者にとっては、あなたが「何もしないこと」――不作為の罪ーーが、差別の加害者に加担する結果になるように、当事者学は、実のところ、どんな差別問題にも、非当事者はどこにもいない、ということをも明らかにしてきた。なぜなら、差別を受ける者が当事者なら、他方で差別をつくる者も、うらがえしの意味で差別の当事者だからである。

・ 障害を持たないものも、この自立生活運動から学ぶことは多い。はたしてどれだけの人が、障害者のように、みずからの人生の主権者として自己選択と自己決定にもとづいて生きているのだろうか。企業組織で働く時、欠陥品を販売していると気づいた時、自分の地位をかけて人生の主権者たりうるだろうか。いま日本社会が一番必要としているのは、一人ひとりの個人が、みずからの人生の責任ある当事者として生きることではなかろうか。

・ピアは「なかま」、「同輩」という意味であり、ここでは助け、助けられる関係に上下関係が存在しないことが目指されている。

・自立生活運動は、これまで他人の顔色をうかがって生きてきた障害者に自尊心を与えた。ピアカウンセリングによってエンパワメントした障害者は、自分たちの側に「問題」があるのではない、自分たちに「問題」を押しつける社会の側に問題がある、だから自分たちを受け入れるように社会のほうを変えていかなければならないのだと気づいた。

・高齢者のなかには、いまだに介護保険を受けたくない、介護サービス会社のクルマは家の前に停めてもらいたくないという人がいる。
→自助能力を失うことが、意思決定能力を失うことと同じだと考えられてきたからである。

・ホームヘルパーはなぜ低賃金か?理由ははっきりしている。第一に、これまで女が家族のなかでタダで供給してきたから。第二に、女ならだれでもできる非熟練労働と見なされたから。第三に、無業の主婦のように、無尽蔵の労働力の供給源があると考えられたから。

・福祉において、善意や慈善というものはときには危険である。なぜなら、当事者に代わって第三者が、当事者にとって何がいちばんよいかを判断するからだ。

・ベティ・フリーダンの『女らしさの謎』(一九六三年、邦訳『新しい女性の創造』)である。幸せのはずなのに幸せに思えないのは、自分が悪いのではない、女の自己実現をはばむ世の中がまちがっている、と「問題」を一八〇度パラダイム転換したのが、第三波
フェミニズムだった。「女性問題」は、これ以降、女が抱える女だけの問題ではなく、女が問う社会全体の問題へとシフトしたのである。

・アルコール依存症にはしばしば暴力がともなっている。妻はドメスティック・バイオレンスの被害者であることが多いが、自分を被害者と認知することが少ない。配偶者の忍従と献身が、夫のアルコール依存を継続させるという関係が、イネープラー(enabler嗜癖を可能にする人)という概念で明らかにされ、妻も共依存という名の当事者のひとりであることがわかってきた。アルコール依存症の本人だけでなく、アルコール依存症の家族の会のような自助グループも各地に存在している。
やがて臨床家たちは、アルコール依存症の患者の家庭で育つ子どもたちが、成人

・アルコール依存症にはしばしば暴力がともなっている。妻はドメスティック・バイオレンスの被害者であることが多いが、自分を被害者と認知することが少ない。配偶者の忍従と献身が、夫のアルコール依存を継続させるという関係が、イネープラー(enabler嗜癖を可能にする人)という概念で明らかにされ、妻も共依存という名の当事者のひとりであることがわかってきた。アルコール依存症の本人だけでなく、アルコール依存症の家族の会のような自助グループも各地に存在している。

・これがACことアダルトチルドレン(Adult Children of Alcoholics)である。家族のなかのたえまないストレス、家庭が危険な場所であるという緊張状態、母親が暴力の被害を受け続けるのを目撃することからくるトラウマ(心の傷)などにさらされた子どもたちが、強い抑うつ感や自己評価の低さに悩まされることがわかった。その後、ACという用語は、斎藤学さんや信田さよ子さんの紹介で、「現在の自分の生きがたさが、親との関係に起因する」と判断した人々が、自己申告する概念として、ひろく定着した。

・ACに見るように、ひとは自己定義によって、当事者になれる。というよりも、問題を自分で引き受けたとき、人は当事者になる、と言ってよい。当事者とは、周囲から押しつけられるものではない。自己定義によって、自分の問題が何かを見きわめ、自分のニーズをはっきり自覚することによって、人は当事者になる。したがって当事者になる、というのは、エンパワーメントである。たとえ被害者としての当事者性をひきうける場合でさえ、当事者になることとは本人にとっては無力の証ではなく、みずからの主権者になるという能動的な行為なのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 知識増
感想投稿日 : 2021年1月19日
読了日 : 2021年1月13日
本棚登録日 : 2020年12月5日

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