世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング) (2012年6月30日発売)
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感想 : 70
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 ヤンキーについて論じた本。で、おそらくではあるが、ヤンキーを対象にそれを細かく分析するというよりは、そこからだんだんと、日本神話のある部分にヤンキーがある、日本のこの大きな問題にヤンキーがあるといった、巨大な多様な固まりの部分にヤンキーが当てはまっているので、ほらヤンキーがいた!というヤンキー発見器と論文が化しており、だんだん、ヤンキーという言葉を別に使わなくてももっとさらに抽象的な用語にまとめられるのではないか、むしろ「からごころ」とかそういうのでいいのではないかと思えるところもあり、ずっと江戸時代から松岡正剛まで散々論じられつくしてきた日本文化論の焼き直しというか、当てはめ直しに近いところもあるかしれない。

 で、ヤンキーについてであるが、「気合」の美学こそ、ヤンキー由来のものではなくてなんだろうかという。
 「気合を入れて納得のいく仕事をして、スタッフと一緒に泣きたい」と言う横浜銀蝿は全員が大卒か大学中退で、ツッパリのパロディというニュアンスが確実にあり、「ファンシー」の要素がある。かわいがられているのだ。かわいいといって消費されている。ヤンキーの純粋さ、気合、ぶつかっていくエモさ、勝てるかどうかわからないけれども、突っ張る感じ。かといって崇拝する対象じゃなくて、自分の目の届く範囲に置けそうな感じ。それがヤンキーの消費のされ方だ。動物園の動物に近い。もしくはドッグカフェのようなものだろうか。そうだとすると、猫は非ヤンキーとなる。猫は個人主義的で、気合という感じではない。すると、本著のタイトルは「犬と精神分析」でも別に構わない感じにはならないかとも思う。

 面白かったのは、アメリカと日本文化について論じたところだ。
 初期の暴走族文化が、バイクや車というもっともアメリカ的なアイテムを軸として、縦社会や和テイストの改造でヤンキーの美学があり、アメリカとのかかわりは外せない。
 それは手塚治虫がディズニーアニメの画風を自己流にアレンジすることで、現在のマンガ、アニメ文化の基礎を作り上げていった経緯を連想させる。表面上は両極端にみえるオタク文化とヤンキー文化は、こと「アメリカ的なもの」のアレンジという意味では、きわめて似通った出自を共有していると考えられる。また、ヤンキーの当事者はアメリカへの憧れはそれほど強いものではない、と述べているところだ。
 これは樋口ヒロユキのゴスロリの評論本でも、当事者にインタビューしても、そこまでイギリスの歴史などに造詣が深いわけではなく、何も考えてなくて戸惑ったことが書かれていたのが思い出される。かといって、ぜんぶ忘れていて、自分たちの文化と完全に認識しているわけではなく、まるで元号を残すように、保留している。便利性や、きっちり白黒させるといよりも、保留的な感じで、アレンジをさらにされるのを待っているかのようなやり方をしているのは、マンガ、ヤンキー、ゴスロリも同じではないかと思う。外国の影響はあるけど、日本流にもしてるので、「どこのもの」でもないし、俺らが楽しんでいたらいいんじゃない? というものだ。これは古代から文化を輸入している国だからこそ言い続けられることだし、共通点があるうんぬん言ったら、文化なんかみんなそうだし、畳にちゃぶだい文化である日本がみんな机やイスを使っているのは興味深いと述べているのとほとんど変わらない。

 しかし、イノセントな衝動のみに基づいた自己投企を成功させる。それを全面的に受容してくれる無垢なる母性としてのアメリカが想定されているというのは、面白いと思う。
 また、齋藤環の人間観として、他者の欲望を内面化することや、「変われば変わるほど変わらない」という、変化というものがなんらかの恒常性や普遍性を担保にしなければ起こりえないという意味も含まれていることがベースにあることも注目すべきことだと思う。

 ヤンキーへの批判的な分析として、原点・直球・愛・信頼を大事にすることがあげられている。危険なのは、それが行き過ぎると、子どもに対する理論的・知的な理解を一切否認するところまで暴走してしまう不安がある。この辺はスピリチュアル系との共通点がある。
 だらしない子どもを殴ってでも更生させるのは、「正しい理由のもとで、暴力的に他者の自由を奪う」行為を「楽しんで」いることであり、それは勧善懲悪が普遍的な人気を集めるか説明できなくなるとして述べている。ここで、ヤンキーの危険性は、全世界共通のことであることになっているので、日本文化論という枠組みをはみだしかけている。

 母性・父性に対する分析について。
 父性的にひきこもりに対応するのは「放っておくこと」。希望がないなら放置する。切断的暴力である。関係なんかしてもどうにもならん。男性型社会の極北は、カルト、ファシズム、共産主義、関係より原理が優先される世界だという。
 母性的には、ほうっておけない、わたしは何とかしてあげる、という家族主義であるという。関係さえすれば何んとなかる、である。
 そして、ヤンキーの熱は、関係すればどうにかなるという母性を持つ。
 女性型社会は、原理より関係が優先され、地縁、村落共同体、親族共同体のありようは、母系父系問わず女性型である。
P175
【こうしたことを考えていくと、ヤンキー文化の女性性を思わないわけにはいかない。関係性優位の集団は、やはり「女性的」と形容されるべきだろう。現にホモソーシャルの問題にしても、実際には女性の集団においても同様の関係性がしばしばみられるという指摘もある。またマッチョイムズは、基本理念よりも「マッチョな見かけ」のほうを重視する傾向が強く、ここにも本質以上に外見が優先されるという意味で、女性的な要素がみてとれる。もっとも僕の考えでは、ホモソーシャルもマッチョイムズも女性的発想である】
 では、ヤンキーではないものとは何か。家族のためでもなく、仲間のためでもなく、ただ自分自身のためだけに貫かれる規範なき正義。究極のナルシシストだけが獲得できる純粋な公共性。これがヤンキー性と対極に位置している。
 つまり、誰かのためになりふりかまわず発揮される正義=ヤンキー性である。
 また、ヤンキー漫画が一般にコミカルだったり大風呂敷だったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダークサイドを否認・隠蔽するためであるというのは確かにそうだと思う。

P240
しかしひとたび視点を変えれば、「生存戦略」としてこれほど強力な文化もない。何しろ彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自らに気合を入れ、テンションをアゲてことにあたることができる。それどころか、彼らは場当たり的に根拠や伝統を捏造し、そのフェイクな物語性に身を委ねつつ、行動を起こすことすら可能なのだ。宗教的な教義によらずにこれほど人を動員できる文化は、おそらくほかに例がない。

 というが、輸入文化国家であるので、「からごころ」の論以上のものがこの冊子にあるとは思えない。ヤンキーの反対語はついにはでてこない。インテリが反対語なのだろうか。堅気に生きている庶民が反対語なのだろうか。オタクのなかにも、ヤンキー的なものは指摘できるし、正直に言ってしまえば、ほぼ血液型とかわらない。A型にもO型っぽいのはあるし、みたいな。

 けれども、読み物としては大変面白いと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 心理とか福祉など
感想投稿日 : 2020年10月26日
読了日 : 2020年10月25日
本棚登録日 : 2020年10月25日

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