著者は、ヘルシンキ大学大学院で音楽学を専攻した日本人。同時代・同国人の研究と、こういう読みやすい本にまとめてくれたことが本当にありがたい。

シベリウスについては、少し古い伝記を2冊ほど読んだことがあるけど、より新しいシベリウス像を知ることができる。

思っていたよりもはるかに借金まみれ(浪費癖があったらしい)、酒まみれ(友人や人付き合いを大事にする面もあったらしい)、苦悩まみれ(極端なあがり症だったり、創作への強いプレッシャーがあった)な人生だった。

かわいいアイノ(妻:本当にかわいい)を泣かすんじゃないよ・・・って感じ。

例の8番?を焼き捨てたことについても、「火刑」という表現を使うほど鬼気迫る決断だったようだ。

歴史に名を残すような作曲家というのは、こういう激しい面を持っているものなんだよなあ。

2019年6月9日

読書状況 読み終わった [2019年6月9日]
カテゴリ 音楽

タイトルの通り写真・図版が豊富で、しかも基本的に1見開きに1話題という構成がなかなか読みやすくてチャーミングな本。(奥さんめっちゃかわいいし)

訳者は前に読んだ本の著者で、監修者はいつぞやKitaraで聴いた舘野泉氏(脳出血でたおれる前)である。

大変な上がり症だったとか、歌曲におけるスウェーデン語とフィン語の問題など、前の本には出ていなかったトピックもありつつ、チャーミングな構成ゆえもうちょっと掘り下げて欲しい部分もある。オンガクはディテールに宿るのよ…。

さて、肝心な「謎」(晩年に筆を折った理由)についてだが、ズバリ「謎の年月」というページを割いておおむね納得できることが書いてあった。

第4や第7という深く内面に根ざした曲を書き上げた後では、新しい曲が完成できなかったということのようである。

今でもそうだと思うが、音楽家(ミュージシャン)が常に新しいもの・境地を求めて戦う相手は、まずはプレッシャーなのだろう。それはもちろん、「大衆からの」ではなくて「自身の芸術的良心からの」プレッシャーである。

2011年5月29日

フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの生涯と作品。

故国フィンランドが、スウェーデンとロシアに挟まれて長く微妙な位置に追いやられていたとか(自国の言葉も思うようにしゃべれなかったらしい)、その民族意識発揚の流れの中で民族叙事詩のカレワラ(カレヴァラ)に取材した作品を次々にものしながら、国際的・歴史的な作曲家に育って行ったなどの話は、それ自体一編の大河ドラマを追うような気分にさせられる。

また、伝記と作品論が対になっているのもこの本の特徴なんだけど、キチっと作品の歴史的意義づけを説明してくれるのも有り難い。

一方、気になっていた晩年になぜ筆を折ってしまったかの「謎」については、結局この本でも謎のままだ。

早くから認められ、国家から年金をおくられたことが却って創作意欲の減退につながった…
大物になり過ぎて、外とつきあうのが煩わしくなった…(もともと社交的ではあるが、器用なタイプではなく創作に没頭したい職人肌…的な人物だったようだ)
年いって自己批判精神が強くなりすぎ、書く曲書く曲気に入らなくなってしまった…

などの理由が示唆されるが、確証はない。

この本の執筆時点(再版の1976年頃?)に、晩年の書簡集や日記をもとにした本(原典はスウェーデン語)の英訳が始まっているのでそれを待ちたい、ということだったが、1982年に書かれた巻末の補記にもその辺のことは書かれていない。

その点、もう少し新しい本にも当たってみないと、というところである。

2011年5月15日

読書状況 読み終わった [2011年5月15日]
カテゴリ 音楽
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