20世紀言語学入門 (講談社現代新書)

  • 講談社 (1995年4月17日発売)
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本棚登録 : 406
感想 : 23

残念ながら本書はただの入門書となってしまっている感は否めない。個人的に良質な入門書はあまりがっつかずに特定の人物や思想などに限定して述べていくものの方が実は内容が充実していることが多い。なぜなら、入門書を読む読者には空白を生める知識がないために、要点だけ掻い摘んでぱっぱっぱと説明されてしまってはその知識が生きてこないのである。結局のところ別の書物を読むときの空白的知識としてか生かされず、それだけではわざわざ本著を読む意義は限りなくうすいと言わざるを得ない。例えば全編をソシュールを基軸としてソシュール的に解釈していくくらいのことはしてくれてもよかったと思うのだけれど、そのあたりはどうなのだろうか?確かにあとがきにあったように、ゲーテやシェイクスピアを読んだことがないのに、彼らは天才で素晴らしい作品を作り上げているという知識だけが独り歩きしていることは多々見受けられる。個人的にはシェイクスピアはそれほどすごいとは感じない。少々大げさすぎるし肌に合わないところがあるゆえだ。それでも彼の詩的な感性は凄まじいとは感じるし、流れるような言葉にひきつけられるのも事実。だが、世界一の劇作家かと言われるとそうではないような気もする。こうしたところからは著者の指摘はかなり的を射ているように思われるが、しかし、何かを基軸にしなければ読者はついていけないのである。哲学を学ぶときも、結局は誰か特定の人物や思想を基軸にしていくことで他の人物や思想を理解していく人が多いし、実際にそうでもしなければ理解できないのではないか?結果として著者ですらよくわかっていないのではないか?といった疑いを抱かれても仕方ない内容である。

とはいえ、個人的に解釈するならば言語学の流れは基本的にはソシュールひとりで解せるだろう。ソシュールはラングとバロールという二つの分類をわけた。ラングは言語体系であり、バロールはメッセージのようなものである。ソシュールはさらにラングをシニフィアンとシニフィエに分類する。シニフィアンはいわゆる音素や音節などといったものであり、シニフィエは意味的な要素である。結局のところ言語学が歩んだ道筋はこの、シニフィアン→シニフィエ→バロールへと重点が移っていったということになるのではないか?と思われる。無論それぞれの定義がずれたりそれぞれの意味合いがずれてしまい侵食しあったりなどしているのでややこしいし、同じ問いが別の形で繰り返されたりもしているのでなおややこしいのだが、簡単にまとめると、まず、シニフィアンに焦点が当たる。これはシニフィエという意味はその場その場で変わりうるし体系だてるのが困難なのでシニフィアンが重視されたのである(乱暴だけれど)。その後、シニフィアンには意味が含まれないという限界にぶち当たり(当たり前の限界)、シニフィエへと重点が移るがやはりシニフィエをまとめきれずに難儀する。おまけにシニフィエは誰がどの場面で使うかによって変動するのでバロールが重要視されるようになる。そして、結局のところ何がわかったのかと言われれば言語を捉えることは非情に難儀するということであり、シニフィアンシニフィエバロールそれぞれにある種の記号論的分類や分解がなされるものだからなおのことややこしい(ややこしいをどれだけ連呼したのかわからないくらいややこしい)。ちなみに哲学において言語学がこれほど重点だって述べられているのは、それまでの哲学は真理への志向性が強かったが、現代はその真理が言語によって述べられているだけだといった理由によっているのだろう。つまり言語という前提なくしては哲学は成立しえないのである。だが、それに対して、デリダは言語学について議論していく中でも哲学的な命題にぶち当たると述べている。哲学が言語によって成っているから言語学を追求しているのにそこに哲学が必ず入りこむのだから元も子もなくなっているという始末だ。おまけにアメリカ学派はコンピュータ理論で言語を説明しきろうとしているのだから、哲学の機械化みたいな感じでなんとも嫌らしい、と言うほうが嫌らしいのだろうか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学、思想
感想投稿日 : 2011年7月14日
読了日 : 2011年7月14日
本棚登録日 : 2011年7月14日

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