雪国 (新潮文庫)

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・2002年に通読したという備忘録が残っているが、たぶん中学生で挫折し、高校生で通読したはいいがよくわからず、大学生で再読してなんとなくわかった気がしたのだと思う。今回は、よりひしひしと。
・時系列でいえば3段階なのだ。この点もおそらく中学当時にはわかりづらかったのだろう。

・そして、左手の人差し指の記憶、というエグいエロスをさらっと書くことの憎さに、たぶん20年前もピンと来なかったのではないか……童貞だったし!
・また、「こいつが一番よく君を覚えていたよ」とよりにもよって再開時の一言目が臆面もなくそれかという非道さは、笑うしかない。「友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ」という嘘の非道さも、また。
・そりゃ「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね」と詰られても仕様がない。また、199日目と数字で訴えられても、仕方ない。
・汽車、夕景色、窓ガラスが鏡になって、映画の二重写し……については、その後自分が通勤電車に揺られるときに思い出していたので、二十年弱川端の視点と共にあった、と言える。
・「徒労だね」というキーワードがあるみたいだが、視点人物が自らその言葉をキーワードに設定していた節があると思う。若さを喪い、かといって家庭人として成ることもできない、無為徒食というやはりモラトリアム的な……今風にいえば「大二病」なのだと思う。
・それに対して駒子、日記をつけて文化的であろうと噛り付く気概があったり、妊娠を想ったり(199日目というのも、日記上で数えていたのだろう)、帰ってと言ったかと思いきや、いてよと言ったり、酒で我を失ったり……、視点人物よりよっぽど「生きている」「もがいている」と感じた。少年にはまったく見えなかった魅力が、中年男性になって見えてきたが、中年女性はどう見るんだろうか。この女性に「一年に一度でいいからいらっしゃいね」と言わせる作者の鬼畜。行男の死に目に遭いたくないという思いは、半分はわかるけど半分は全然わからない、その点を全的に感じ取れる読者が、世の中にいると考えると、いつ誰がどんな状態で読むかによって生起する読書が異なるという現象が、面白い。
・で、中年男性として視点人物にも(愛憎半ばで)わかるっ/酷いっ、と思うのが、「ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情けなかった」という記述。こんなふうに男女の関係を断言してしまうって、人として終わりじゃないかしらん。まあ、「彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた」と語り手=作者に語らしめる視点人物の異様さ……語り手と視点人物はこの時点でほとんどそっくりなので、川端があの眼の異様さを自身で語るという記述になっているのだが、もう凡百の柔弱な男には辿り着けない(辿り着きたくない)極北にいるのだと思う。感情移入できるかできないかで判断すればこの小説大っ嫌いという人もいるだろう。しかし、まずは文章の運びで読ませる。そしてポリコレの時代ますます男性が言いにくい本音が、当の男性にとってすらギョッとするレベルで描かれているので、捨て置けない。

・ところで本書で視点人物が見る女性について順番で並べてみたら……葉子駒子駒子駒子駒子駒子葉子駒子葉子駒子、という感じ。10分の3くらい記述に割いた葉子の描写が、読み手がたじろいでしまうくらい鮮烈なのだ。「東京に連れて帰ってください。駒ちゃん(に)は憎いから言わないんです」と。冒頭で、まるでフェアリイかアイドルかのように見えた葉子が、急に地金を見せつけてきた瞬間の視点人物と同じ眉の顰め方を、読んでいてしたと思う。オボコな少女と幻想をかぶせていた相手が意想外の意思を差し出してきた時の驚き……人が一人いれば当然なのに、つい相手を見下すことで愛でる心理的機序がある。
・だからこそ「君はいい子だね」を連発して、「行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」と復讐される。男の身勝手への激烈なアンチも含まれているが、……
・「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」と、ひとり自然と感応して陶酔する身勝手さを、感じた。冷酷だ。でもだからこそ成立する美しさでもある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学 日本 小説 /古典
感想投稿日 : 2022年10月16日
読了日 : 2014年1月1日
本棚登録日 : 2014年1月1日

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