夏の終わりのト短調 (白泉社文庫)

著者 :
  • 白泉社 (1995年6月1日発売)
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感想 : 29
5

私の中で、歌人の穂村弘さんが絶賛された女性漫画家は、私にとっても、少女コミックの概念を覆されるような、世の中の見えない決まり事を軽く逸脱した、斬新な視点の多様さと、人間は単純な思考能力を持った存在では決して無いことを、文学的描写で表現されている素晴らしさを感じさせられ、それは、佐藤史生さんもそうだし、本書の大島弓子さんに至っては、第一歌集「シンジケート」の帯に言葉を書いてもらうくらい、穂村さんにとって思い入れのある、特別な方なのでしょう。

そして、そう思われた気持ちも今となっては、何となく分かるような気がしてきて(実は読み終えて半年近く経つが、感想を書けるまでには至らなかった)、それは、五つの中篇が収録されている中、特に前半の二篇に感じられた点が多かったので、それらを中心に書いていきたい。


まずは、表題作「夏のおわりのト短調」。

簡潔に書くと、外面は理想的な家庭のようでも裏から見ると・・・といった、一昔前の昼ドラなどで、よく見られそうな展開といえばそうなのだが、大島さんの凄いところは、それを少女コミック本来の対象であろう、そこで三年間暮らすことになった、高三の少女「たもと」に思い知らせながらも、何かを得たような終わり方にしている点である。しかも、かつてガキ大将だった、そこの長男「力(ちから)」が、すっかり大人のわきまえを知ったかのような文武両道型に豹変し、無意識な恋ともつかぬものに戸惑いを抱えながら。

だが、そんな裏返すと、あっさり崩壊してしまいそうな家庭には、それを構成する一人一人に非があるのだろうか?
仮に、そうで無い場合もあると書いたら、はたして信じる人はどれくらいいるのだろうか?

例えば、ここでの場合、普段は昔ながらの素敵な洋館で、理想的生活を半ば強制的に執り行う完璧主義の妻「蔦子(つたこ)」が、夫の何気ない一言だけで、コーヒーカップを置くときに、つい動揺して音を立ててしまう、そんなさり気ない動作ひとつが妙に気になってしまい、それはまるで、明かされたくない秘密がありますよと言っているようなもので、これを知るだけで、自ら非があるのを知りつつも、平気でそういうことをしている輩とは違うような気がする。

蔦子の台詞。
『ああ こんなことで 転倒しちゃだめ。
しっかりしなくちゃ しっかりしなくちゃ』

夜中、外出した夫の後を追おうとした、たもとに対する力の台詞。
『鳥に鳴くなと言えるか?
鳴いた鳥はうるさいからライフルで撃てるか?』

再び、力の台詞。
『眠っているときがいちばんこわい。
起きているうちは自分を管理できるけど、眠りの中の本心が秩序もなしのうわごとになり、それを母に、父に聞かれたら』

おそらく、夜中に夫がどこに行くのか、蔦子は知っていて、その影響で不眠症になっていることも含めて、力もそれらを知っている。そして力はそんな両親の為に優等生になった。しかし、力もそれが負担となり、家族の知らないところでやり切れない思いを発散させている。ただ、これだけ見ていても、まだよくある話だと思うかもしれないが、よくある話だからこそ、たもとにとっては、これまで知らなかった理想的家庭の裏の顔を知ったことに加えて、憧れていた力に、その名前を他の女性関係で利用されてしまい、誰もいなくてもいいから(両親はアメリカに出張中)、実家に帰りたいと思うようになり、また、その精神的ショックを文字化したかのような、狂気性を感じさせる大島さんの擬音も独特で、それは触れれば血が出そうな、文字通りのエキセントリックさで、たもとの心理状態を見事に表現している。だが、話はこれで終わるほど、単純なものではなかった。

実は蔦子は、たもとの母の妹にあたり、彼女にもあった、その裏の顔は、もうどれだけの時を経たのか分からないくらい長期的なものでありながら、その隔たりが広がれば広がるほど、悲壮的でやるせないものがあるのだが、それでも彼女が彼女であり続けるためのアイデンティティを、彼女自身が無理矢理見出した、その狂気性ギリギリの思いが、次の台詞から読み取れる。

『わたしはあの子の父親に あの子の母親に みせなければならないのは このユートピア この美しい屋敷 この夫婦愛 この家族愛 この充実 この幸福 あの子からつたえてもらいたい』

私はこの台詞を読み、何とも言えない気持ちにさせられてしまい、この中に、はたして真実がいくつ入っているのか考えたくないし、これまで蔦子自身の中で消化しきれなかった、その思いに対する真っ直ぐな純粋さ故に、ここまで歪み捻じ曲げられてしまった生き方には、一見、蔦子に見られるエキセントリックさも、実はそうでは無かったのだと感じさせられて、人生に、決して無駄なものなど無いことを思い知る。

また、それは力も同様で、最後に明かされる内容は衝撃的でありながらも、それを誰にも言わずに抱えて生きてきたからこそ、あんな奇矯さを見せていたのだと悟ることにより、彼は母とよく似ていたのだと感じられて、それが一つの救いのようでもあったし、それは彼のある台詞にも表れていた。

『おれが夜中に夢の中でみつけようとした故郷は 洋館にあったんだ』

そして、たもとにとって、初めて力の素顔を知ることが出来たような、そんな素直な言葉に泣かされる。

『一度目も 二度目も そうだったけれど
あんた
全く 無造作に 人をだくんだよね。
母親みたいに 祖母みたいに 子供みたいに 恋人みたいに』

タイトルの「夏のおわりのト短調」。
長調は明るい響きで、短調は暗い響きらしい。
おそらく物語の最後に、たもとが感じた響きは、後者だったのだと思う。
しかし、その時はそうだとしても、未来がそうであるとは限らないと思うし、終盤にあのような行動に出られた、たもとならばきっと大丈夫だと、そんな漠然としながらも彼女の成長した姿が、私には目に浮かぶような気がするのである。


もう一つは「たそがれは逢魔の時間」。

それは妻のいる男が、25年前に見た、全く同じ風景であり、この季節、この時刻、ショーウィンドーをセーラー服、腰までの長い髪の少女と、これらのキーワードに潜む、彼の悲しき片想いを痛いほど刺激させられると共に、いい年して胸ときめかせるような、そんな複雑な喜びも、まさに降って湧いたような奇跡に感じられた。

しかし、当然ながら、それは人違いであり、そのまま以前と同様に終息するのかと思いきや、今度は少女の方から接触してくるようになり、男は戸惑いを隠せずにいながらも、その純粋な危うさを秘めた、天真爛漫さに次第に惹かれていき、それは雪が降ったことに、「もっとこまかくなれ」と、叫びながら走り回る、少女の足跡を英字で書く、大島さんの少女への魅力を神格化したかのような描写も印象的で、更には、過去に男が抱いていた、「ネージュ(雪)」と「エンジェル」の響きの近さとも合致し、まさに男にとっては、再び天使が舞い降りて来てくれたような心境だったのである。

ここまでは男性側の視点で、その男の、過去に抱いていた思いが告げられなかった事を、ずっと後悔していた、そんなセンチメンタルさが、彼女への戸惑いを年甲斐もなく感じながら、それでも、少女の持つ魅力に惹かれるにつれ、自らあの頃に還っていくような、ピュアなときめきを実感させられた、そんな瑞々しさがよく表れていると思う。

ここからは女性側の視点。
この物語に於ける、大島さんの凄いところとして、単純に男のセンチメンタルな純愛ものだけで終わらせていない点にあり、まずはその妻の行動が、夫と少女が会っているところを偶然目撃して以来、激変し、それまで夫をほっといて外出ばかりしていたのが、急に豪勢な夕食をもてなして、ワインを出した後の台詞がこれである。

『日本人はよいことがつづくと、なんでも悪いほうに考えて物事を百パーセント甘受できないんですって』

更にその後は、夫と少女が会っている時に何気なく現れて、そのまま少女も家に誘い、そこで夫婦の仲の良さを殊更強調するといった、万全の対策でとどめを刺そうとしつつ、その裏で浮気しているのだから、ちょっと凄い。その上、尾行しているのが推測されるわけだから、これは怖いものがある・・なんて書きつつ、実は、まだ知られざる真相も潜まれており、ここでは「夏のおわりのト短調」の蔦子とはまた異なる、長きに渡って一人で抱え込んできた、というよりは絶対に誰にも言いたくない、その女としての誇りと思いの純粋さが、寂しさや諦めへと変わりつつあった事に、人生は一度きりだからこそ心の奥底に宿る、とりとめのない悲しみを感じられたが、結局は少女がきっかけで、物語は思いも寄らぬ方向へ行くのだから、人生とはどこでどう変わるのか分からない奇妙さがある。

また女として、少女も負けてはおらず、二回り近く年の離れた男に『洞察力おとる!』と堂々と言える一面とは対照的に、自ら名乗るときには、

『邪悪の邪、夢想の夢、わたしの名前は邪夢。
あまくとろけるストロベリージャム』

と、天真爛漫もここまで来ると行き過ぎた感もあるが、『昼は中学、夜は娼婦』なんて噂も聞かれるような、違った一面もありそうで、これだけ読むと、男は利用されているだけなのかと思ってしまうかもしれない。

しかし、ここでも大島さんが教えてくれるのは、人間は決して単純な一面だけを持っているわけではないことであり、それは誘う人間だけでなく、それを承諾する人間もいるのと同様で、少女がその男をどのように感じていたのか、正直私には分からないが、それでも、物語のそこかしこに見られた真摯な表情に言葉、そして終盤の行動には、彼女は彼女なりに、一人の女として、純粋な何かを渇望していたのかもしれないと思わせるような、情があった。

『さっきのセリフと わたしの気持ちは同じだったわ』

そして、更に凄いと思ったのは、最後の男の末路であり、そこには少女の秘められた、まさに男の洞察力を再度試したかのような思いの結晶があったものの、あまりにそれは厳しいようにも思われて、いやしかし、それだけの思いがあるのなら・・といった、男にとってはなんとも悩ましい、一度限りの開きかけた天国への扉が閉ざされたのかもしれない。

しかし結局、それも男には何一つ確かな事ではないので、その後も毎日毎日・・・そう、それはまるで、黄昏時の魔が刻の妖しい雰囲気が見せた、夢と現実の狭間に潜む悪魔に取り憑かれたようでもあり、別れ際の少女の表情が物語っていた、たとえ男にとって言葉にすることが出来なくとも、そこにあった密やかで確かな真実やその思いを信じたかったからこそ、明日はもしかしたら、明後日はもしかしたらと、悲しき妄執に囚われてしまったのである。


ここからは、他の三篇も簡単に書いていこうと思い、本書五篇全てに共通しているのは、そのエキセントリックさがありながらも、人間性は決してそう感じさせない、まさに人間の多様で繊細な複雑さでありながら、純粋さも汚さも全て知ることで、その存在感はとても愛おしい、そんな人が人である素晴らしさを、まざまざと実感させられました。

「赤すいか黄すいか」
タンポンの国のアンネがやってくることへの絶望と混沌の気分と、確かに見つけた希望を、文学的な形までに昇華しており、真の少女コミックとはこうした作品を言うのだろうと感じさせられた。

『太陽も月もだれもたすけられないわ。
ひとつの惑星の 循環を』

『なぜだか自分ひとりの運動会に賞あげたくってね バカみたいだとは思うけどさ』

「裏庭の柵をこえて」
幼い頃に父を亡くし、大学合格と同時に再婚した母に去られた男が奇矯な行動に出る中、隣に住む小学生の女の子だけは、彼の見えない素顔が分かるようで、そこには男の、自宅の庭に長いこと存在した、木との信頼関係もあり、その心の声を聞くことが出来た女の子だからこそ、彼を気に懸けられる心の目を持っているのだろうと感じさせられた、子どもならではのフィルターを通さないものの見方が、この世界の希望のようでもあり、印象的だった。

「あまのかぐやま」
事故で入院した担任の代わりに、そのクラスを受け持った女子高の副担の、そのあまりに真面目すぎる挙動により、初日にして、クラス全員から避けられる事態となるものの、そんな副担に惚れる少女と、それを陰から見守る友人をきっかけに、次第に他の先生には無い、生徒の事を思い遣る真摯な姿勢が・・本当に少しずつではあるが生徒たちに浸透し、そんな時に、ある少女が白昼夢で見た光景は、かつて、持統天皇が夏の到来を感じて詠んだ歌のそれと一致するようで(古文の先生なので)、それはまるで、副担の生徒一人一人に懸ける思いの清々しさのようでもあった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 漫画
感想投稿日 : 2023年6月14日
読了日 : 2023年6月14日
本棚登録日 : 2023年6月14日

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