「言語が思考を制約する」と考えるのは、ある意味、20世紀の社会科学の大きなトレンドではないだろうか。ソシュールの言語学に始まる構造主義や記号論、文化相対主義を主導する文化人類学や解釈学など。こうした傾向は、実証主義的な傾向の強い英米系でも一定のポジションを得ており、哲学の分野では「言語が考えられる事の限界を示す」とするウィトゲンシュタインや言語哲学の一派や「言葉が現実を構築する」とする社会的構築主義など。社会現象面でも、PC(ポリティカリー・コレクト)もそうしたトレンドのなかにあって、言語決定論は、文化相対主義と連動しつつ、政治的には、民主主義や多元主義と連動するものともなっているのだ。
一方、この議論も、ちょっと行過ぎているのではないか、と思うところもあって、自然科学の全てを含めて全部相対化されてしまったり(自然科学も、たしかにクーンのパラダイム論でいうような人間の認識のパラダイムによる相対性はあるのだが)、自然的なものと思われる性差も結局社会的に構築されるジェンダーなのだ、というところまでいくと、?な気がする。
やっぱり、程度の差というものは、あるんじゃないの?
という気分でいるところに、ちょっとした気分転換を図ってくれるさわやかな本であった。
言語は、人間の社会的構築ではなく、脳の本能によって生み出されるものである。また、言語の前に、言語化されない思考があり、言語によって思考が構築されるわけではない。ということを、言語学や心理学、進化論、脳生理学などなど、さまざまな角度から論証していく。
事例が、英語によっているところが多くて、ちょっとニュアンスが分からないところも多いが、内容はおおむね、そうだろーなー、と思えるものであった。
特に、移民の集まりが片言の文法化されない言葉でコミュニケーションをとっている状態から、第2世代の誕生とともに、クレオールとして、一挙に文法化され、言語的に洗練されたものになるというあたりは、とてもスリリングだったな。
でも、ピンカーが批判の対象としているほど、社会的構築主義の論者は、単純な言語決定論を主張しているのかなー、というのはやや疑問である。一部の極端な論者を例外とすれば、脳の構造が、一種の文法を持っており、この文法に基づいて(一見)多様な言語が生じてくる、という主張は、それほど違和感を持たないのではないだろうか?
つまり、言語化されていない思考までも含めて、一種の言語、文法的なルールに基づいているというのが、「言語によって思考が決定されている」という意味じゃなかろうか。
また、言語化されるまえの思考が言語を通じて表現されると同時に、社会化された言語が思考に影響するという側面もあるんじゃないかな、と思う。
つまりは、「言語決定論」も「脳決定論」も同じ穴のムジナじゃなかろうか、という気がするな。
なにかによって一元的に「決定」されるというのはないんじゃないかな、と思うんだけど。。。。
- 感想投稿日 : 2017年4月30日
- 読了日 : 2010年2月16日
- 本棚登録日 : 2017年4月30日
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