存在と時間(一) (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2013年4月17日発売)
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感想 : 18
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1⃣毎朝10~20分の時間を作って読み進めている。内容は理解できなくてもよい。理解できないことがこの世にあるんだなあ、と毎朝感じることができるのは、とても謙虚になるのである。

私は、個人的なことをいうと、大学で哲学を学んだ人間なので、まったくチンプンカンプンというわけではない。だから、読みながらなんとなくはわかりながら、でもだいたいでいいや、と思いながら読む。調子のよいときは、無心でハイデガーの言葉を思索する。調子の悪いときは、何かを妄想しながら言葉をすべっていく。

熊野さんの注解を最初の方はよんでいたけどやめてしまった。原文を読むだけでいいや、と思った。その匂いだけでよい。こういった大哲学書があってそれの空気に触れるというのでよい。なんとなくわくわくするし、それに一ページに一文くらいだけど、わかる言葉もでてくるのであるから。

『存在と時間』を読む前は、レヴィナスの『全体性と無限』を読んだ。熊野ではなく藤岡訳。大学卒業して以来の哲学の原著をよんだなあ、と思えて感動したのである。一度は読んでみたい哲学書。哲学専攻の学生だったからこそ、その内容についてかじっていながら、読んでいない本がある。『存在と時間』はその一つ。カントの三つの批判書もそう。ヘーゲルの精神現象学。次に目指すのは、ちょっとフランスで、ベルグソンと思っている。

さて、肝心の本書の内容についてだが、そんなもの要約できるはずがないのであるし、そんな気もないのであるが、レヴィナスを読んだあとにこの『存在と時間』を読むと、「ドイツだなあ!」と思った。レヴィナスのわからなさと、ハイデガーのわからなさは、言語的なちかいなのかもしれない、と思ったり。フランス哲学のわからなさと、ドイツ哲学のわからなさ。

とはいえ、ハイデガー『存在と時間』は、歴史的名著であるなあ、と思う。歴史の転回点に立った著作である。と、読みながら思う。ということを私みたいなものがわかる、ということは「ちょっと古い」のだが。

2⃣手にとってみる、という関係、いわゆる道具連関についての箇所を今よんでいるところだが、こういった具体的な考察のところは、ほんとうにおもしろい。197のところである。ハンマーのその成分が鉄でできているか、手で持つところは木であるか、とかではなく、ハンマーは手にもって使用されることが真に存在しているということである。ここらへんは、哲学というものの身近なものを例にして深い洞察を行うという超好例だなあと思う。

たしか訳者の熊野純彦は『レヴィナス入門』において、事物の捉え方の特徴として、ハイデガーは「手」である、と言っていた。そして、フッサールは「目」、レヴィナスは「口」だと。これなどなかなかわかりやすい譬えだと思う。ちなみに、西田幾多郎は、真実在とは、喉が渇いたとき飲む一杯の水だ、とどこかで言ったそうな。これだけ見るとレヴィナスに近いような気もする。

さて、ハンマーの例のような身近なところを低空飛行しているのであるが、私の疑問としては、それがいったい「存在論的差異」とかの難しい言葉といったいどういう関係があるのか、ということだ。なぜ「存在の問い」と「ハンマーを握る」こととが関係すつのか。これはおそらく、ハンマーを外的に客観的に観て認識しているだけならば、それは握って使用する関係にはない。それはなぜなら、存在への問いをしていないような主観から捉えられているからだ。それが自我コギトと呼ばれているものだ。でも自我が存在への問いという底抜けである場合、それはハンマーを握って使用している。その時、自我はただの安定した自我ではなく、他へと開かれているのである。ハンマーを握っているとき、それは「考える我」ではない。ある種、「無我夢中」なのである。そこまではハイデガーは語っていない。とはいえ、私の実感に照らすとそういう表現になる。

しかし、個人的なことを言うと、この『存在と時間』を読む前に一時間瞑想をしている。すると、「手もとにあるありかた」が真実在であるのでは、到底ない、と感じる。むしろ、「手放されて去る去りかた」が真実在である、と感覚する。

3⃣第一冊を読み終わる。後半につれてどんどんとおもしろくなっていく。「空間性」について、おもしろくて、「おもしろい!」と叫んでしまった。どのようなことなのか、言葉にして、うまくかみ砕くことはできないのであるが、とにかくおもしろい。主観によって客観を認識する、という単純な構図、では、空間とは延長にすぎない。これはデカルトの打ち出したことだ。その主観とは抽象的なものにすぎず、じつは主観は世界の内部に存在している。つまり身体性をもっている。だれもが世界の内に身体を持って存在しているのだ。

それゆえ、現存在と存在者との関係の構図は、線と線で測られるような線分ではなく、「近さ」として言い表される。この近さがおもしろい。ずーっとこのことについて延々と語っているのが、西洋哲学の知性の粘り強さを感じさせて、圧倒される。眼鏡はつけていると距離的には近いと思われるが、それはまったく遠い、とかいう例えもおもしろい。「通り」について、それが靴と接地していることで近さを持っているがそんなことは考慮にいれない。つまり、「近さ」とは「配慮的に気づか」っている相手との隔たりのことなのである。

後半から、声を出して読むようにしている。読み飛ばすことがないように、声にだして、その論理的な文章の、論理的な道行きを、味わおうとすることにした。一冊目を読み終えて、河原を歩いていると、接近している台風の風に、秋の草が激しく揺れているのを見ていると、それが存在者として、世界内の存在者として、ある近さをもって私には触れられるような気がした。それは単なる道具連関であるか。20世紀最大の哲学書はまだ始まったばかりであり、20世紀の哲学もまだ終わってはいない。

3⃣存在への問いを忘却しているところから読み始めて、だんだんと読み進めていくと、その問いについて思い出し始めるということになるので、最初のまえがきや、第一節のはじめりなどは、もやがかかっているのである。今回、第三冊の終盤まで読み進めてから、再び読みかえすと、その「存在の問い」について、あああのことか、というふうに思い出すことができる。
二回目を読むにあたって、ドイツ語原文と照らし合わせながら読むことにしているが、すべては無理なので、重要と思われる箇所、自分にとって琴線に触れるかしょを抜いて照らし合わせることにしている。それをするにあたって、この訳書にある、注解というのは、非常に役に立つ。ハイデガーの用語についていちいちドイツ語を載せてくれているからである。これをみるだけでも、ドイツ語との参照になるだろう。verstehen理解することとvertständnis了解のちがいなど、ドイツ語がないと、区別して判断するのがむずかしいだろう。
存在について「理解」はできないが、「了解」はしている。これを「事実」という。つまり「あのこと」のことである。では、どのことなのか。そのような問いを徹底的に分析していく。その掘り起こし方がその深さが尋常じゃないこれはやはり20世紀最大の哲学書だな。ばくぜんと考えている「存在の謎」っていうもの徹底的に考え抜いてやる。それが、仙人が世を捨てて個人的におこなうのではなく、ひろく一般に理解できるように論理的な学として行われたのであるから、「おそろしい」と言ってしまいたい。それは、読むにつれ、だんだんと、わかってくればくるほど、えげつない本であることが、みえてくる。に、におうぞ、この本。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年9月8日
読了日 : 2022年9月19日
本棚登録日 : 2022年9月8日

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