シュピリ『アルプスの少女ハイジ』 2019年6月 (NHK100分de名著)

著者 :
  • NHK出版 (2019年5月25日発売)
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感想 : 15
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著者の松永美穂さんはそもそもアニメに感動して原作にたどり着いたわけではない。アニメが放映されたとき松永さんは中学生。アニメを毎週待ち遠しく思うほど幼くはなかった。
そんな松永さんが大学教員としてドイツ文学を教えるようになっていたとき、学生の1人がシュピリのハイジを取り上げていて、自分でも原作を読んでみたら、ハイジだけでなく、シュピリが大人の登場人物の人間的成長も深く描いているのに気づいたというのが正しい。

松永さんの解説を読むと、核心的な部分でもアニメと原作との違いがけっこう多いとわかる。だがそれをもって優劣をつけるのは間違い。アニメ版は独立した作品として、それはそれで名作だと思う。
アニメのクライマックスで、クララの父のゼーゼマンが山に着いたとき、ハイジとペーターとに両側から手をとられて座っているクララが立ち上がり、2人が次第にクララから離れると同時に、クララが1人で父に向って歩みを進める場面は、ゼーゼマンならずとも「おお、神よ」と思わず言ってしまうだろう名場面だ。

だが実は原作では、ハイジやクララもさることながら、大人の登場人物にとっての“癒し”や“恢復”が重要なテーマとして描かれているというのが、松永さんの解説の要点だ。例をあげて見てみよう。

まずはペーターのおばあさん。ハイジが都会から帰ってきたとき、おばあさんを一番驚かせたのは、ハイジが素直さを失っていなかったことだけではない。白パンを持って帰ってきたことでもない。では何かというと、ハイジが字を読めるようになって、おばあさんのために賛美歌集の一節を読んであげられるようになったことだ。
おばあさんは目が見えない。ペーターや彼の母は字が読めない。家の中で誰も開くことのなかった賛美歌集をハイジが読んでくれたことは、信心深いおばあさんにどれほどの喜びをもたらしたか想像に難くない。だが、おばあさんとキリスト教との関係性はアニメでは描かれていない。

それと、おじいさんについても書いておく。おじいさんはなぜふもとの村の人と疎遠なのか。松永さんは、資源に乏しいスイスの男性が近隣ヨーロッパ諸国の傭兵として“出稼ぎ”に行かざるをえなかったという歴史的背景に触れる。原作では、おじいさんもおそらく傭兵として戦場で苛烈な体験をして、それが村人や信仰から距離を置く遠因であったことをうかがわせている。

だが、おじいさんの“氷の心”をとかしたのは、ハイジの素直さだけではなかった。
フランクフルトで神様への祈りを教わったハイジは、祈り続けることで、かなわないと思っていたアルムへ帰れるという自分の願いがある日突然かなったことから、神様はちゃんと見ていて、祈る者を決して放っておかず、いつか願いをかなえてくれるのだという神の恩恵を信じるようになっていた。
複雑な人生経験ゆえに神への信仰をほとんど失っていたおじいさんは、帰ってきてからのハイジが何げなく発した言葉によって、神の恩恵を再び信じることができるようになった。

なお、おじいさんのことを元傭兵と書いたが、原作では、山にようやく着いたクララをおじいさんが器用に抱きかかえて車いすに乗せかえるシーンを見たクララのおばあさんがとても感心する場面がある。松永さんは、おじいさんは元傭兵ゆえに傷病者を介抱するのに慣れていたのだと指摘し、おじいさんの心のわだかまりがとけると同時に、他人からも受け入れられる象徴的なシーンとしてあげている。アニメでもこのシーンはあったが、おじいさんの戦争体験者としての背景を含めてそこまでは深く描いていない。

このように、ハイジの主題を構成するのは、子どもの純朴さや動物や、自然の美しい風景だけではない。
松永さんは大人の視点からシュピリの書いたハイジを読み解き、この本はゲーテなどと同様に、大人にとって真の意味での人間的成長とは何かを熟考するために適した本だと考えたのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年7月6日
読了日 : 2022年7月6日
本棚登録日 : 2022年7月6日

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コメント 4件

たまどんさんのコメント
2022/07/06

※ここからの文章は、私がつれづれなるままに書いた雑記です。ひまな人だけお読みください。

――アニメのハイジの本放送があったのは私が小学生の低学年のとき。私が生まれた大阪では、ハイジなどのカルピスが提供する日曜夜7時30分からのアニメは関西テレビ(8チャンネル)で放映していた。でもその枠を見ていた男子はほとんどいなかった。
では私たちクソガキは何を見ていたかというと、読売テレビ(10チャンネル)。同じアニメの侍ジャイアンツが放映されていた。だから男子はハイジなんか誰も見ちゃいない。

ところで侍ジャイアンツといえば、番場蛮の魔球をめぐるライバル同士の対決に当時は本当に熱中したのだが、私が強烈に覚えているエピソードが1つある(記憶をたどっているので間違いがあるかもしれません)。

ある年の日本シリーズ。巨人軍の対戦相手は南海ホークスで、キャッチャーは監督兼任の野村克也。王貞治が打席に入ったとき、野村はある“におい”に気づく。それは王が腰に張っていた湿布のにおいだった。野村はすぐにわかった-王のやつ、腰を痛めてやがる-と。
すると野村は投手にインコースに投げるようサインを出す。投手はなぜ?と思うが、サインどおり投げるとなんと王は絶好球のはずなのに見送った。次の球も見送り。球場が異様な雰囲気になるなかで、3球目で王はバットを振った。ボテボテのゴロ。ところが南海の野手はわざと王をセーフにして1塁に残した。王を無理やり走らせ、走るのはおろか立つことさえつらい王を痛めつける野村の策略だ。

次の打席も、その次の打席も同じように王は塁に出た(出さされた)。そして9回。王に打順が回るが、観客もさすがに今日の王のプレイに不満が爆発寸前だった。球場が王帰れコールに包まれるなか、番場も王に向かって「そんな王さんは見たくない」と言ってしまう。ところがそれを聞いていた長嶋が番場の肩をつかみ、無言で制止した。長嶋はわかっていたのだ。だが王は無言でバッターボックスに向かう。

何球かは前の打席と同じだった。だが次の球、王は渾身のスイングでバットを振り、球はスタンドに吸い込まれた。サヨナラホームラン。一番見たかった場面に観客は大喝采。思わずグランドに飛び出した番場。ところが塁を回っているはずの王がいない。番場が探すと王はバッターボックスに片膝をついたまま動けなくなっていた。その姿を見て番場もようやく理解した。そして王こそは最高の野球選手だと涙した。野村も自分たちを上回る王の気迫に、素直に負けを認めた。

野村克也選手はその後も監督としても数々の功績を残したのは私も認める。しかしこのエピソードを見てからは、どうも野村にはズルい奴という印象しか持てなかった(笑い)。
しかし、こんなすごいストーリーを裏でやられたら、ハイジなんか見る気がしないでしょ?(笑い)。

というわけで、私がアニメのハイジを見たのは再放送で。でも高畑とか宮崎とかの予備知識がなくても、アニメ版も私にとっては十分楽しめた。
私がまず気に入ったエピソードは、ハイジがアルムに来てまもなくの、ユキちゃんにまつわる回。ヤギのユキちゃんの成育が良くないのを見た大人は、ユキちゃんを育てるのをあきらめて処分しようと計画し、それを知ったハイジが体をはってとめようとする。これって「シャーロットのおくりもの」の冒頭のエピソードと同じでしょ?
https://booklog.jp/item/1/4751518895
テキストで松永さんはこのエピソードに言及していないので、原作にあるのかどうかはわからない。もし原作になければ、アニメのスタッフが「シャーロット~」からも引用してストーリー構成したことになる。

そしてもう1つ、私の印象に残っているエピソードはといえば…
おじいさんがミルクを火にかけた大きな鍋であたためてチーズを作ろうとしているのを見たハイジが「私がやる」と言い出した。鍋はただ見ているだけではだめで、焦げつかないように、へらでかき混ぜないといけない。自分の意志を強く示すハイジに、おじいさんは「いいだろう」と言い、へらをハイジに渡す。おじいさんがその場を離れてしばらくはハイジも作業をこなしていた。だがヨーゼフなどが帰ってきたのが聞こえると、ハイジは「少しだけなら」と言い、外に遊びに出てしまう。そしてハイジが我に返りあわてて小屋に戻ると、おじいさんは黙々と鍋の底にこびりついて焦げたチーズを丁寧にこそげ落としているところだった。ハイジはおじいさんに飛びつき、泣いて謝るが、おじいさんはまるでこうなることを予想していたかのように「いいんだよ」とだけ言い、動作を続けた。そこからエンディングにかけてのナレーションを詳しくは覚えていないけれど「ハイジはこれで山の生活の本当の厳しさをまた1つ知ることになったのです」というような感じだったかな。

作家の柚木麻子さんが毎日新聞の書評欄でこう書いていた-他の作品とハイジとの間で決定的に違うのは、ハイジが山の生活でおじいさんから叱られる場面がまったくないことだ-と。
原作をゲーテに連なるビルドゥングスロマン(人格形成小説)の系統を踏む小説だとすれば、この「叱られない」というのはまったくレアだと柚木さんは指摘している。
現実に返って、もしおじいさんと同じように「叱らない」を徹底して子どもを育てたら、どういう結果になるだろうか?親のほうが先に我慢ができなくなるか?それともSpare the rod and spoil the childのことわざどおりなのか?その世間の常識に果敢に挑戦したのが、この原作なのかもしれない。

猫丸(nyancomaru)さんのコメント
2022/07/09

たまどんさん
猫は、ハイジがフランクフルトで疲れていくのが観ていて辛かったです、、、
それと、モミの木のように何も言わないけど、デ〜んと存在するコトの必要性を。。。

たまどんさんのコメント
2022/07/17

猫丸(nyancomaru)さん
ところが原作では、フランクフルトでの生活があってこそ、ハイジが人間的に成長できたという描き方のようです。ペーターが原作では粗野に描かれていることからも、自然児一辺倒を原作者は良しとしていないことがわかります。
またハイジのホームシックは、「スイス病」と異名をもつスイス人傭兵が外国で望郷の思いを強くするあまり精神的にダウンする様子を文学的に表したものと考えられています。

猫丸(nyancomaru)さんのコメント
2022/07/19

たまどんさん
> フランクフルトでの生活があってこそ
何と、ハイジを見た直後くらいに 福音館古典童話で読んだのですが、全く記憶にない。再読したくなってきた。。。

「侍ジャイアンツ」同時期だったんですね。
猫はスポコンとか興味が無かったし、もう仔猫の時期は過ぎていたのですが、チャンネル権は女王が持っていたので「ハイジ」を見ていました(全話じゃないけど)。。。

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