著者の松永美穂さんはそもそもアニメに感動して原作にたどり着いたわけではない。アニメが放映されたとき松永さんは中学生。アニメを毎週待ち遠しく思うほど幼くはなかった。
そんな松永さんが大学教員としてドイツ文学を教えるようになっていたとき、学生の1人がシュピリのハイジを取り上げていて、自分でも原作を読んでみたら、ハイジだけでなく、シュピリが大人の登場人物の人間的成長も深く描いているのに気づいたというのが正しい。
松永さんの解説を読むと、核心的な部分でもアニメと原作との違いがけっこう多いとわかる。だがそれをもって優劣をつけるのは間違い。アニメ版は独立した作品として、それはそれで名作だと思う。
アニメのクライマックスで、クララの父のゼーゼマンが山に着いたとき、ハイジとペーターとに両側から手をとられて座っているクララが立ち上がり、2人が次第にクララから離れると同時に、クララが1人で父に向って歩みを進める場面は、ゼーゼマンならずとも「おお、神よ」と思わず言ってしまうだろう名場面だ。
だが実は原作では、ハイジやクララもさることながら、大人の登場人物にとっての“癒し”や“恢復”が重要なテーマとして描かれているというのが、松永さんの解説の要点だ。例をあげて見てみよう。
まずはペーターのおばあさん。ハイジが都会から帰ってきたとき、おばあさんを一番驚かせたのは、ハイジが素直さを失っていなかったことだけではない。白パンを持って帰ってきたことでもない。では何かというと、ハイジが字を読めるようになって、おばあさんのために賛美歌集の一節を読んであげられるようになったことだ。
おばあさんは目が見えない。ペーターや彼の母は字が読めない。家の中で誰も開くことのなかった賛美歌集をハイジが読んでくれたことは、信心深いおばあさんにどれほどの喜びをもたらしたか想像に難くない。だが、おばあさんとキリスト教との関係性はアニメでは描かれていない。
それと、おじいさんについても書いておく。おじいさんはなぜふもとの村の人と疎遠なのか。松永さんは、資源に乏しいスイスの男性が近隣ヨーロッパ諸国の傭兵として“出稼ぎ”に行かざるをえなかったという歴史的背景に触れる。原作では、おじいさんもおそらく傭兵として戦場で苛烈な体験をして、それが村人や信仰から距離を置く遠因であったことをうかがわせている。
だが、おじいさんの“氷の心”をとかしたのは、ハイジの素直さだけではなかった。
フランクフルトで神様への祈りを教わったハイジは、祈り続けることで、かなわないと思っていたアルムへ帰れるという自分の願いがある日突然かなったことから、神様はちゃんと見ていて、祈る者を決して放っておかず、いつか願いをかなえてくれるのだという神の恩恵を信じるようになっていた。
複雑な人生経験ゆえに神への信仰をほとんど失っていたおじいさんは、帰ってきてからのハイジが何げなく発した言葉によって、神の恩恵を再び信じることができるようになった。
なお、おじいさんのことを元傭兵と書いたが、原作では、山にようやく着いたクララをおじいさんが器用に抱きかかえて車いすに乗せかえるシーンを見たクララのおばあさんがとても感心する場面がある。松永さんは、おじいさんは元傭兵ゆえに傷病者を介抱するのに慣れていたのだと指摘し、おじいさんの心のわだかまりがとけると同時に、他人からも受け入れられる象徴的なシーンとしてあげている。アニメでもこのシーンはあったが、おじいさんの戦争体験者としての背景を含めてそこまでは深く描いていない。
このように、ハイジの主題を構成するのは、子どもの純朴さや動物や、自然の美しい風景だけではない。
松永さんは大人の視点からシュピリの書いたハイジを読み解き、この本はゲーテなどと同様に、大人にとって真の意味での人間的成長とは何かを熟考するために適した本だと考えたのだ。
- 感想投稿日 : 2022年7月6日
- 読了日 : 2022年7月6日
- 本棚登録日 : 2022年7月6日
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