ベンヤミンの歴史哲学を、著者の社会哲学的関心に引き寄せて論じた本。前著『近代性の構造』の中で著者が論じた「近代の関節はずし」の実例として、ベンヤミンの思想を論じている。
序章では、ハイデガーの歴史哲学との対比を通じて、ベンヤミンの哲学のクリアな見取り図が示される。ハイデガーは、現存在の「不安」の情緒の中から「死に向かう存在」を取り出し、死の可能性を先取りする存在の時間様態を見ようとしている。こうしたハイデガーの考え方は、死の可能性を先取りするという未来へ向けての態度を強調するものといってよいだろう。だが、未来とそれに向けての決断的投企という思想は、近代の未来時間性優位の思想をいまだ脱していないと著者はいう。
他方ベンヤミンの議論は、ハイデガーとは違い、未来に向けて飛び出す方向には進まない。むしろ、憂鬱/倦怠の存在感情によって自己の同一性を解体しつつ、過去の死者の声を受容することへと向かってゆく。ベンヤミンのいう死者の救済の可能性は、こうした過去の死者の声を受容できるか否かにかかっているのである。
「ベンヤミンの言語表現をいつまでも雰囲気的理解に留めたり、言葉の綾として放置する段階は終わった」と述べる著者は、「自然史」「倦怠」「根源」といったベンヤミンの中心概念を明晰な言葉で規定しようとしている。だが、もっとも突っ込んだ分析がなされているのは、やはり暴力論だろう。ソレルの暴力論におけるforceとviolenceの差異が、ベンヤミンの「神話的暴力」と「神的暴力」に引き継がれていることを確認した上で、ソレルの暴力論の内にあった「政治的崇高性」を抜き去ることにベンヤミンが成功していることがていねいに論じられている。
- 感想投稿日 : 2010年9月26日
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- 本棚登録日 : 2010年9月25日
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