『二十歳の誕生日に、私は斧を買った。それはこの十年でいちはんの贈りものだった』
誰にでも拘りはある。それを他人が理解するかどうかは気にしない。けれど多くの人々が生きる社会は個人一人ひとりに最大公約数的な共通の規則を押し付ける。与えられた規則で割り切れない人がどんな剰余を持っていようがお構いなし。余りは切り捨てるもの。個人は大勢が押し付ける数字であたかも割り切れたように見せ掛けて生きていかねばならない。そこからはみ出したものを「角」となぞらえ、大人になることを角が取れて丸くなると見ることも出来るだろう。
けれど子供はそんな余りやら角やらを異質なものと見做すことはない。つまり在りのままに自由に生きている。それでも年月を経るに従い徐々に自分の一部が共通の規則からはみ出していることに気づいて「おや?」と思う。自分と社会の最大公約数は何なのかを懸命に計算するようになる。幸運にもそれが見つかるということは自分の居場所を見つけられるということ。けれど中には素数の子もいる。51の子に倣って3の倍数のつもりになっても、53の子には割り切れる数字が見つからない。そんな時大人は余った2を無かったことにするけれど、無かったことにするということは自分自身の一部を切り取るということを意味する。それが出来なくても当たり前なのに、鼻の一部や片方の耳を疾の昔に切り捨てた大人たちはそんなはみ出したものに拘ることが理解出来ない。
エイミー・ベンダーは、そんな通過儀礼のように誰にでも起きる物語を、自分自身を大人とも少女とも決め切れない主人公と溢れる数字の表象に重ねて描き出す。彼女の周りを幾つもの数字たちが行き交う。数字は個性の表彰だが運命を決定するものであるようにも見える。その運命から目を逸らし続けることが可能なのかが不安の種。ありとあらゆるものを「止め」てみても、成長することは止められない。成長の先には必然的に死がある。ここに描かれるのは全て必然である死を巡る物語であるということもできる。そう理解した上で、印象的に二度語られる物語を整数の世界の中に存在する素数にまつわる話と例えてみる。そんな例えを更に現実の世界へ還元すると、二度語られる間に起きる物語の変化の意味するところも分かり易いようにも思う。その意味をどう捉えるのかは、もちろん読者に委ねられている。
自分はそれを176,399という数字に引き寄せられた二人の物語と読んでみる。一つの偶数を挟んで並んだ二つの素数が、お互いを見い出す物語。必要なものは最大公約数とは限らない。補完出来ることがお互いに解ればいいのだ。その相手が一つ隣のやはり最大公約数が見つからず苦しんでいる人かも知れないということに気付く物語だと読むことにする。双子素数と呼ばれる対の数字は決して同じではないけれど、それでも前世ではぐれ自分自身の半身に出会うような感慨はあるだろう。メーテルリンクの青い鳥の物語のように、幸せの青い鳥はずっと隣に居たのだ、なんてね。さてそんな風に読み解いた後で問うてみる、自分の身体に何処か欠けているところはないだろうか、と。そろそろ丸めていた角を出してもいい頃かなと思ったりする。
- 感想投稿日 : 2017年7月5日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2017年7月5日
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