太陽の帝国

  • 国書刊行会 (1987年9月1日発売)
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感想 : 6
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『それを見るジムの気持ちは憂鬱だった。おそらく自分が戦争をはじめてしまったのだ、窓から出鱈目の手旗信号を送り、それをランチに乗っていた日本人将校が誤解したために、戦争になったのだ』―『ペトレル号攻撃』

自分の見る世界は常に色の付いた眼鏡越しである。そのことに多くの人は気が付かない。あるいは自分の掛けている眼鏡は透明だし、曇っていないと思い込んでいる。そのことをバラードを読むと痛切に感じずにはいられない。

太陽の帝国に登場するバラード自身を託した主人公の少年の行動は、周りの大人を苛立たせる。少年の判断は不合理と見え、少年の価値観は大人の理性的な判断の埒外にある。しかしその大人の理屈は、誰かに吹き込まれた思想、思い込み、ご都合主義、刹那的感情のごった煮のような理屈でもある。それに対して人生経験が決して豊富とは言えない少年の判断、価値観は、自身の中にある憧憬のようなものに突き動かされたもので、稚拙であるかもしれないが揺るぎのないものでもある。善と悪を二分しつつ、二分することに対する違和感にも敏感になれる。とても根源的な感情に根ざした価値観であるように見える。

もちろん、最大級の困難に巻き込まれながらも主人公の少年は生き残り(サバイバー)となるであろうことは予感される。しかし単なるロールプレイングゲームのような一本道の物語ではない。一つのステージをクリアしたら確実に次のステージに進めるというような流れはあまりにも現実とはかけ離れている。そんなジェットコースター小説とは異なり、本書の主人公は様々な理由で同じ場所に何度も引き戻される。葬られ流された死体が潮の満ち引きで戻されるエピソードが象徴的に示すように。時間も視点も主人公が投げ込まれてしまった状況から乖離し歴史の流れも知ってしまっている読者には、主人公のこの行動は不合理にも見えるが、そのことを「不合理」と思うことこそ読者の掛けている色眼鏡であるとバラードは静かに凶弾する。因果応報というけれど「因果」という押し付けられた関係性によって結び付けられた「原因」と「結果」は、果たして本当に物理法則の力点と作用点のように定まった関係にあるものなのか。複雑に絡み合う歴史のちっぽけな二つの出来事の間には、何か単純な理屈による結びつきが存在するのだろうか。多義的な複数の出来事が絡み合うただ中で育まれる価値観や正義感はイデオロギーのような単純なものを超越するのではないか。そんな問いをバラードは投げかけているように思えてならない。

『ジムはまわりにいる人々を見廻した。事務員や苦力や貧農の女たちだったが、彼等が何を考えているのか、彼にはよくわかった。いつの日か中国は全世界に罰を与え、恐ろしい復讐をするだろう』―『恐るべき都市』

例えば、数十万人を死に至らしめる疫病に対して、バラードならどんなことを思うのだろうか。その小説を読んでみたいと、叶わぬことを夢想する。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年6月19日
読了日 : -
本棚登録日 : 2020年6月19日

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