極夜行

著者 :
  • 文藝春秋 (2018年2月9日発売)
4.13
  • (147)
  • (153)
  • (66)
  • (7)
  • (6)
本棚登録 : 1515
感想 : 175
3

【感想】
「極夜」とは、一日中太陽が沈んだ状態が続く現象のことである。南極圏や北極圏といった高緯度の地域で発生し、緯度が高くなれば高くなるほど闇が深くなっていくため、場所によっては数か月に渡って暗黒の状態が続く。

その現象に魅せられたのが探検家の角幡唯介である。
彼は、極夜に魅せられた理由を次のように述べる。
「極夜には根源的な未知がある。数ヶ月間におよぶ闇の世界、そしてその後に昇る太陽の光など誰にも想像がつかない。私は一度でいいからその想像を絶する根源的未知を経験してみたかった」
「とにかく極夜という想像を超えた空間状況こそ、ぼくらが普段暮らす現代社会システムの外側にある世界なわけで、それこそ従来の地図の空白部にかわる新しい脱システム的な探検の対象領域になると思います」

極夜での行軍は、そうした「社会システムからの解脱」を皮切りに始まっていくわけだが、この何もかもが未知数な旅の中で、大スペクタクルが起きる……わけではない。真っ暗闇の中、重い荷物を引いて延々と歩き続けるのだから、嵐が起きない限りはかなり単調で暇だ。

そのため筆者は途中途中、星を見ながら妄想を重ねる。筆者はキャバクラが大好きらしく、お気に入りだった嬢の話がちょくちょく挿入され、ベガのことをSM嬢に見立てたり、星の並びを東京のクラブの地図に落とし込んでみたりと、俗っぽい話も交えつつ、目の前の暗黒に必死で対抗しようとする。
なにせ、極夜は精神を発狂させるのだ。人間はあまりに暗い環境が長々とつづくと憂鬱になり、不眠、やる気の欠如、癇癪が起こり始める。次第に筆者の精神がどんどん蝕まれていき、闇の憂鬱が絶望に代わっていく。

だが、そうした極限の「無」の空間の中で、筆者は人の存在と暗黒との関連性に思惑を巡らせ、自然と一体化する感覚を覚えていく。その描写があまりに克明であり、読んでいる私も思わず「無」の空間に引きずり込まれそうになってしまった。

「暗闇の中で少しでも地形を読み取ろうとして、また地図を見た。何度も必死にそれをくりかえすうち、周囲のあらゆる地形がべったりと平らに闇の中に吸収されており、それがあまりに暖味なものだから、目の前の風景が地図上のどんな場所にも適合し得るように思えてくる。私は夢幻境を彷徨っているような気持ちになってきた。(略)私を取り巻く世界はすべてが不確かで確聞としたものは存在せず、歩いても視認しても暖簾に押した腕のように外の世界からの手応えはなかった」
「私のこの移動行為は、すなわち私という存在そのものは、闇と凍気の中で月と星等とつながることで成立しており、そのせいか、私には地球にいるというより、宇宙の一部としての地球の表面に俺はいる、という感覚があった。要するに私がこのとき歩いていたのは地球ではなく字宙の一隅であり、それが宇宙探検をしているという感覚を私にもたらしていたのだ」

この旅の終着点、つまり数か月ぶりの太陽を拝んだ時に本書のクライマックスが訪れるわけだが、そこで筆者が得た感情は、太陽崇拝を行う信者のように、原始的な生命活動への感動だった。暗闇という未知の世界を体験し続けた後に待つのはシンプルな感覚であり、まさに筆者にしか理解できない極致がそこに待っていたのだった。

数々のノンフィクションの中でも特に常軌を逸したテーマ。一癖も二癖もある冒険譚をお探しの方には是非おすすめの一冊だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――

【まとめ】
0 極夜行前
筆者が極夜を歩こうとした理由、それは暗黒の中を歩けば、本物の太陽や本物の月を見ることができると思ったからだ。人工的な照明が存在しなかった時代、太陽が人間の実在にかかわる本質的な力を持っていたときの光を。

そこで筆者は、世界最北の村シオラパルク(グリーンランド)に根拠地を置き、さらなる深い闇を求めて北に4ヶ月間旅することにした。

筆者「探検というのは要するに人間社会のシステムの外側に出る活動です。昔の探検は地図の空白部を目指すのが目的で、当時の地図というのはその時代のシステムがおよぶ範囲を図示化したメディアだったわけです。でも今はもう地図の空白部なんて存在しない。じゃあこれからの探検はどういうかたちが考えられるのか。それで考えついたのが極夜の探検でした」
「とにかく極夜という想像を超えた空間状況こそ、ぼくらが普段暮らす現代社会システムの外側にある世界なわけで、それこそ従来の地図の空白部にかわる新しい脱システム的な探検の対象領域になると思います」

1 シオラパルク〜アウンナット
探検の開始は12月6日。ここから4ヶ月にわたり、暗闇の中を犬と共に進んでいく。

探検が始まって早々、メーハン氷河の上で猛烈なブリザードを受ける。40時間にもおよぶ嵐を耐え続けたのだが、風の影響で天測用の六分儀がなくなってしまった。
これは致命的だった。そもそもGPSを使えばより正確で安全なのだが、筆者の目的は極夜を身体的に知覚して世界化すること。そのため自分の身で自分の居場所を観測し、外界との接触をはかるのだが、GPSではこうした営みを行うことができない。
この時点で計測が完全に地図とコンパス頼みになり、現在地の割り出しが困難となった。

筆者「月が昇ると極夜世界は色のない沈鬱な世界から、壮絶なまでに美しい空間にかわる。それまでの影すら存在しないモノトニアスな空間が、黄色い光がとどいた瞬間、突然、本当に劇的に明るくなって、氷河上の細かい雪の襲にいたるまで一気に照らしだされ、そこに影ができて足元のルート状況が明瞭になるのだ。雪や氷が青っぼく色づき、単なる沈黙につつまれた死の空間だったのが、どこか別の惑星にいるかのような幻想的空間にかわる」。

氷河を登りきったのは12月14日。標高差1000メートルの氷河の登高にまるまる1週間かかった。
ここから先は氷床が続く。
移動するのは月が出ている時間帯だ。極夜において月が出ていると、周辺の雪面がその光を反射して、足元の雪の状態がヘッデン無しでわかるほど明るくなる。ただし、やはり陽の光とは違い、遠方の目標物を視認することは難しい。地形的な目印がない真っ平らの氷床においては、自分の位置が全く確認できなくなる。六分儀がなくなった今、方角がずれることは死を意味するのだ。
月のタイムリミットも迫っていた。月すらも沈む完全極夜状態になるのは12月24日から。本来ならそこまでの間に中継地であるアウンナットの小屋に到着する予定だったが、たび重なるブリザードの影響で予定が遅れていた。
コンパスと星の位置を手がかりに、何度も針路を取り続けながら行軍した。

筆者「歩きながら私はこんなふうに考えていた。人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、よく言われるように原始時代に野生動物に襲われたときの記憶が集合的無意識に残っているから、とかそういうことでは多分なくて、単純に見えないことで己の存立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか」
「光がないと、心の平安の源である空間領域におけるリアルな実体把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的に分からない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなかったりする危険があるわけで、その結果、具体的な未来の自分の行動が予測不可能となり、明日生きている自分をリアルに想像できなくなる。つまり地図の中で自分の居場所が分からないと、単に空間的な存立基盤を失うだけでなく、自分の将来かどうなるか分からなくなることになり時間的な存立基盤も同時に失うわけだ。
つまり闇は人間から未来を奪うのである。極夜の極夜性は、暗い闇という外界の現象の中にあるのではなく、外界の現象を受けてわきあがってくる私自身の心理状態の中にある」

2 アウンナット〜イヌアフィシュアク、そして旅の終わり
アウンナットの無人小屋に到着したのは年が明けて1月1日だった。村から2週間で到着すると思っていたが、実際にはその約2倍、27日もかかってしまったことになる。

アウンナットからイヌアフィシュアクのデポに到達したとき、筆者は信じがたい光景を目にした。食料や燃料を備蓄していた2箇所のデポが、全て白熊によって無惨に食い荒らされていたのだ。
旅が終わりを告げた瞬間だった。デポ食料がなくなった以上、北極海を目指すなどと言っていられない。残りの食料が限られている以上、やることは1つ。狩りをして食料を得て犬と一緒に村に戻る。そして狩りに失敗した場合は、犬を食って村に戻る。もうこれしか残されていなかった。
筆者は残存食料と村に戻る時間を計算した。狩りに残された時間はざっと二週間だった。

「私の内部では、狩りは成功するのかという不安とともに、自分がやりたかった探検のクライマックスはもしかしたらこれから始まるのかもしれないという変な期待も同時に高まっていた。今、自分は真に未知の空間に入り込もうとしているのだ、と。皮肉にも、デポが壊されたことで、極夜そのものの探検という本来目指していた目的を究極まで突き詰めることができるようになったのだ」

筆者はジャコウ牛を探して北上を続けるうちに、楽園谷に行き着いた。ジャコウ牛や兎の足跡が大量にある、美しい地域だ。ここなら間違いなく獲物が大量にいる、と確信した筆者は、延々とそこで獲物を探し続けるが、牛は愚か兎すら見当たらない。あそこはなだらかで行けそうだ、この先にはもっとジャコウ牛がいるにちがいない、まるで楽園のように美しい谷だと思い、奥へ奥へ進んできたが、それは幻影にすぎなかった。今まで天の恵みであった月の光も、全てを騙くらかす悪魔のように感じる。気づくともう後戻りできないんじゃないかというギリギリのところまで来てしまっていた。

ここに来て、全ての緊張の糸が切れた。闇の中で動き回るのがもう嫌だった。早く太陽の光を見たかった。


3 極夜の終わり
登りつつある太陽が闇を駆逐し始める様を、筆者は半ば呆然とした心地で見つめていた。そして、筆者は自分でも予期しなかった不思議な感情――喪失感に支配されていた。

「太陽の太陽性は、どんな言葉に変換しても、とても汲み尽くせるものではなかった。別に希望を見出したわけでもなかった。癒されもしなかった。慈しみも感じなかった。闇からの解放感もなかった。前日、見出した光の意味もすっかり忘れていた。すべての言葉をはねつけ、太陽は超然と空に君臨し、質量が地球の三十三万倍ある単なる物体として猛り盛り、とくに意図もなく光を放出しまくっていた。そして私はそのような太陽にただ圧倒され、涙を浮かべていた。それはあまりにも劇的な太陽だった」

氷床で猛烈に吹き荒れる嵐の中で死を見つめながら、不意に妻の出産シーンを思い出したとき、筆者は人間にとって光が希望なのは誕生の瞬間に光りに包まれるからであり、自分が極夜の果てに登る太陽を憧憬してきたのも、出産の追体験をしたいからだということに思い至った。それは生まれ出るという行為こそ全ての人間にとっての始まりであり、世界の根源なのだという極めてシンプルな事実に気づくことでもあった。

それは四年間の営為があり、土地についての経験値を蓄積したことがきっかけである。そして、そのことは旅についての新たな発見を筆写にもたらした。
それは、未開の地を踏む、つまり根源的未知を経験する以外にも、ひとつの土地の中に徹底的に深く潜り込むことで初めて広がってくる世界があるということだった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年11月20日
読了日 : 2021年11月7日
本棚登録日 : 2021年11月7日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする