読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫 ハ 46-1)

  • 筑摩書房 (2016年10月6日発売)
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【感想】
本書を読みながら、ピケティの「21世紀の資本」を思い出してしまった。

あなたは「21世紀の資本」を最初から最後まで通読しただろうか?
おそらくほとんどの人がしていないだろう。
だが、ピケティの「資本収益率(r)はつねに経済成長率(g)より大きい(r>g)」、「富は持てる者のところに集まり、格差は拡大していく」という主張は、知っている人が多いと思う。

この読み方は正解か不正解か、と言われれば、恐らく正解である。
正直なところ、どんなに長い本であっても、骨子はA4用紙1枚程度に収まる。500ページだろうと、1000ページだろうと、必要とされる部分はその何十分の1にも満たない。
しかし、読まれないと分かりつつも、筆者は無駄な部分を書き続けねばならない。
なぜなら、本は読まれない部分が無ければ本にならないからだ。

もしピケティがA4用紙1枚に「(r>g)」「資本主義社会において格差は拡大していく」とだけ書いても、世間は見向きもしないだろう。言っていることに根拠が無いからだ。その証明をするべく、戦前から現代までの税務データをかき集め、ページの大半をグラフと説明に費やした。

我々「読む側の人間」はなんてお得な立場だろう。
一方、「書く側の人間」はサボってはいけない。

知識はインプットの際にはコンパクトで済む。しかし、アウトプットの際にはインプットの数倍の情報を記さねばならない。ひと握りのエッセンスを自分の頭で膨らませ、論理とストーリーで証明し、読者を納得させなければならないからだ。

本書で述べられた「読んでない本について堂々と語ること」は、簡単そうに見えて相当に難しいのだ。

人間は誰しも、自分自身が著者の立場(何かを語る立場)になれば、冗長で退屈な前フリを書かねばならない。読んでいない本について堂々と語るように、自分自身について堂々と語らなければならない。読んでいない本の概要をざっと流し読みするように、自分自身について知っていることの断片を、誰にでも分かるかたちで翻訳しなければならない。

どう本と付き合い、どう本を読むか。転じて、そのエッセンスをどう自分のものにし、どのような言葉で語るか。

簡単なように見えて、難しいテーマである。


【本書のまとめ】
1 全然読んだことがない本
読者が把握を試みるべきは、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払うことである。逆説的に言えば、「全体を正確に把握するために、個々の書物には目を通さない」という態度を取ることである。
教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物の間の「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。さまざまな思想の間の関係は、個々の思想よりも大切なのだ。


2 流し読みをしたことがある本
そうした「全体の見晴らし」とでもいうべき概念は、一冊の本をひとつの全体として考えた場合にも有効である。そのため、本を始めから終わりまで読む必要はない。

こうした読み方、つまり流し読みの概念は、少なくとも2通りに解釈することができる。
ひとつは本の冒頭から初めて、途中を適当に飛ばしながら最終ページに向かう「線的な流し読み」。もうひとつは本の中を自由に行き来する「円的な流し読み」。
いずれにせよ、読んでいる本を軽んじているわけではない。

もし流し読みをしている人たちが本についてコメントした場合、その行為を「本を読まずにコメントしている」と言えるだろうか。

流し読みとは、本のしかじかの箇所に埋没せず、本に対して適当な距離を保つということを意味する。こうしてはじめて、本の真の意味を見極めることができるのだ。


3 人から聞いたことがある本
以上のように、教養とは、書物を「共有図書館」のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。端的に言えば、一冊の本について何らかの考えを抱き表現するのに、その本を手にしている必要はないのだ。

人は一度も手にしたことが無い本――人から聞いたことがある本――についても、比較的詳しく語ることができる。

われわれが話題にする書物はすべて「スクリーンとしての書物」だ。
2人の人物が書物について語るとき、それは本について語るのではなく、自分の記憶、思想、自らの意見について語っている。そして、われわれがそのときどきに置かれている状況と、その状況が内包する無意識的価値によって、本についての記憶は書き換えられている。
書物というのは、世間一般で思われているほど不動ではないのだ。


4 読んだことはあるが忘れてしまった本
このように、読んだ本と読んでない本のあいだに大した違いはない。

読書を始めた瞬間から、抗いがたい忘却のプロセスが作動する。
我々は、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されることは言うまでもない。

読むということは、たんに情報を得ることではなく、もう一方で忘れることでもある。
読書主体のイメージは、自己を保証された主体のイメージではなく、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体だ。


5 大勢の人の前で語ること
他者との間で一冊の本について語るとき――たとえその本を参加者全員が読んだことがあっても――話題にされるのは、現実の書物よりも断片的な、再構成された書物である。
人はみな、自分の心の中に「内なる図書館」を持っている。内なる図書館は、個々人の読書習慣の断片、日常体験により形作られている。もっと言えば、我々自身が内なる図書館に蓄積されてきた書物の総体であり。
そして各陣営の「内なる図書館」が一致しない以上、一冊の本について語る行為は必然的に緊張を生み出す。

神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体を「内なる書物」と呼ぼう。
この想像上の書物は、新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、どのように解釈するかを決定する。
内なる書物の存在により、他人との一冊の本の議論が不均質になる。しかし内なる書物のおかげで、作品がもちうる無数の豊さに接近するきっかけを与えられる。


6 読んでない本について著者自身の前でコメントする
正直、著者自身も自分が書いた本を全て理解しているわけではない。そのため、もし著者自身の前でコメントしなければならない状況にある場合、とにかく褒めることを勧める。作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことが、作者にとっては一番うれしい。


7 読んだことのない本について語るためには――気後れしない
大事なのはひとつの文化に共通する「共有図書館」全体であって、そこでは個々の書物は欠けていても構わない。従って、しかじかの本を読んでいないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べるという態度は、広く推奨されてしかるべきだ。
にもかかわらずそれがほとんど実践されないのは、本を読んでないことを認めることが、われわれの文化において重い罪悪感を伴うからだ。

読んでない本について気後れすることなしに話したければ、「欠陥無き教養」という重苦しいイメージから自分を解き放つべきだ。
人は読んだ本を忘れる。どこからが「読んだ」で、どこからが「読んでいない」かなんて曖昧だ。堂々と語っていい。
他人に対して「教養人と見られたい」という欲求を捨て、知らないことの恥ずかしさから解き放たれたとき、堂々と語ることができるようになる。


8 読んだことのない本について語るためには――自分の考えを押し付ける
テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる。作品に関するわれわれ自身の観点を他人に押し付けることができる。
内なる図書館は、自分のものの見方の正しさを主張する者の欲求に合わせ、いとも容易に変化するのだ。

読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。
しかし、あらゆる読者は、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険にさらされている。

良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断し、書物をつうじて自分自身について語ることである。それが批評活動の究極のねらいだ。

われわれはもっと、本を通じて自分自身のことについて語っていい。発信していい。

読んでいない本について語るのは、まぎれもない創作的活動なのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年4月25日
読了日 : 2021年4月23日
本棚登録日 : 2021年4月23日

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