臨床とことば (朝日文庫 か 23-9)

  • 朝日新聞出版 (2010年4月7日発売)
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感想 : 32
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2016.10.12
一度読んだ本をまた別の機会に読むと、ぜんぜん違う印象と学びを感じることはままあることであるが、私にとってこの本はまさにそのような印象を与えるものであった。初めて読んだのはちょうど1年前くらいである。本の内容が一年の間に変わることはあるはずものなく、ということは印象と学びが変わったのは、私が変わったということだし、何より今、私は人間関係について、まさに距離について悩んでいる最中だからこそだろう。欲望や関心が、対象の意味を決める、もしくは欲望や関心が、その渇きが、乾くほどに、対象から意味という水を吸い上げる、と言ってもいいかもしれない。
臨床哲学と臨床心理学の巨匠の対話は、それが臨床、つまりケアの現場の言葉であったとしても、我々の日常の人間関係についても使える豊かな知を提供してくれる。私とあなたが関係して対話するという時、そこに何があるのか。言葉をかわすだけではない。そこには声があり、相手の顔、動きなどがあり、相手に対してのイメージがあり、そしてそれらを全身で感じている。私から見てもこれだけあるものが、相手から見ても同じだけある。言葉を交わす、対話するという中には、とても説明しつくせないほどの諸要素の絡み合いがある。
「臨床の知とは何か」を読んで、私が科学という一つのパラダイムに強く捉われていたこと、科学は現実を共通了解できるような形で説明するが、それは限定された範囲内の話であり、現実の全ては説明できない、しかし我々はその限定された真実を現実の全てだと思っている、でも現実は科学という枠組みだけでは説明しきれないものであるということを学んだ。まさにその臨床の知を使って、人との関係を育んでいる二人の話は、私には刺激的ではあるが、しかしどうしても、わかることはできなかった。そもそも、臨床の知は言語化可能だろうか、もしくは言語化できても、共有可能だろうか。あらゆるノウハウ的な話は枝葉に過ぎないという、だったら私は人と関わるとき、一体どこを見ていればいいのだろうか。今まで学んできた心理学にしろ哲学にしろの理論が足場から崩れたとき、私は何を拠り所に人と関われるのだろうか。
身体感覚、触覚の話があったと思うが、思ったことは、例えば箱を想像するとする、形や色など何でもいいが、我々はその質感も想像できるはずである。映像、つまり視覚だけでなく、触覚も想像することができる。聴覚も嗅覚も味覚も想像できる。この、あらゆる感覚を意味から想像できるところに、身体としての人間の関わりがあるのではないだろうか。そして想像ゆえの感覚と感覚の境界線が揺らぐことによる表現が、あつい人、クールな人、硬い人、なのではないだろうか。あつい人が体温が異常に高いわけではない、ではなぜ情熱的な人をあつい人というのだろうか、その答えはこの、意味による感覚の想像によるのではないかと思った。
こういう考えは少なくとも、言いたいことは言葉にできるとか、相手が言ったことが相手の全てだとかいう、論理的な考え方からは出てこない。この論理を超えたところに、相手の全身的表現を、こちらも全身で受け取るという形があるのではないか。肌と肌が合わさるところに魂があるらしい。前に、人と人の間に生命があるという本を読んだことがある。魂とは、心とはその人から出る全てにあり、つまり身、顔、声、言葉、動きにあり、その全てを私の全て、すなわち身、顔、声、言葉、動きで受け止める時、心と心が通う場所として、そこに生命があると言えるのかもしれない。ここではケアということであくまで聞く側の臨床知が語られていたが、私もまた聞かれる者であるので、相手の魂を聞くなんて分かった気にならず、こちらも心からの表現ができるようなやり方を考えたいと思った。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年10月12日
読了日 : 2016年10月12日
本棚登録日 : 2016年10月12日

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