嘔吐 新訳

  • 人文書院 (2010年7月20日発売)
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感想 : 72
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プルースト作品を読んで興奮冷めやらぬ私は、気づけばまたプルースト作品を再読しはじめている。シシュポス状態に我ながら唖然とし――要するにキリがなく、それこそプルーストの輪から抜け出せない(汗)――フランス脳内旅行の目先を思いきって変えよう! と、ジャンポール・サルトル(1905~1980年)を訪ねてみました。やれやれ、この人も一筋縄ではいかないものの、哲学と文学が混然一体となっていて結構おもしろい♪ しかも若さが溢れていますね(^o^)

ロカンタンは歴史の本を書こうとしている30歳の高等遊民。6年前に妻と別れ、図書館で知り合った<独学者>とときどき声をかわし、ビストロのマダムと性愛に耽る以外、人づきあいはない。そんな孤独な彼が回想する、なんとも風変わりな物語。

「物、それが人に、さわる、ということはないはずだろう。なぜなら物は生きていないから。人は物を使用し、それをまたもとに戻す。人は物にかこまれて生きている。物は役に立つ。それ以上ではない。ところが私には、物のほうからさわりにくるのだ。それは耐え難い……」

決してオカルトものではありません。が、読んでいくと、スリリングな展開に身の毛がよだつ。ロカンタンは果たして壊れているのか? ハラハラさせるちょっと現実感を喪失した男の日常。でもよくよく考えてみると、こういった感覚はそれなりにあるかもしれない。人々がひしめく地下鉄の構内に響く靴音、ふいに自己の存在や現実感を失ってみたりする…。

「要するに一つの冒険が私の身に起こっているのであり、自分自身に問いかけてみると、起こっているのは、私がまさに私であって、今ここにいる、ということがわかる」

生の不条理、己の存在の不条理や偶然性といったような、繊細な感覚は、おそらく年月を経るうちに、いい意味でも悪い意味でもすり減ってしまうのかもしれません。今ここに存在する(偶然なのか必然なのかわからない)不思議さや、生きているという驚異自体が、あまりにも馴れ親しんだものになり、何も考えずとも習慣というルーティンや怠惰になっていたりする。ふとこういう作品に触れると、そういうことに面白い気づきを与えてくれてわくわくします。

たしかに哲学的あるいは心理学的記述もあって、物語としては読みにくいところもあります。ですが私のようなひどいアバウト人間になってくると、もはや哲学と文学を明確に分別する必要がどこにあるのか、そんなことが果たしてできるのか、人間(存在)のおもしろさを内包しているものであれば、根底のところでこれらが混然一体となるのは至極当然のように思えてしまいます。

ここからは備忘かねて少しマニアックですので、容赦なく読み飛ばしてください。本作を読みはじめてすぐに気づくのは、アンドレ・マルローの怜悧な筆致の影響だったり、ロカンタンの思索(迷走)は、サミュエル・ベケットのグダグダした堂々巡りの独白のようでもあり、さらにプルーストの小道具やエキスがそこここに散らばって、湿度計のお天気人形やら、モーブ色のあれこれ、なんといっても極め付きは、どうにも持て余してしまうロカンタンの「過去の記憶」。ということで、『失われた時を求めて』のパロディにもなってて笑えますので、こういった作品群がお好きな方にも本作はお薦め。

ところで解説によると、サルトルは当初『アントワーヌ・ロカンタンの脅威の冒険』というタイトルにしていたそうです。でも出版社の提案で『吐き気』(嘔吐感)になったとか、興味深い。小説の表題としては後者のほうが妖しさが漂っていていいですね! でも副題で前者を残しても良かったかも。繊細で孤独で厭世的な若者の、まるで不器用でたどたどしい、ハラハラドキドキの冒険仕立てになっているから♪

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感想投稿日 : 2019年5月24日
本棚登録日 : 2019年4月8日

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