アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

  • 早川書房 (1977年3月1日発売)
3.79
  • (865)
  • (1340)
  • (1268)
  • (145)
  • (27)
本棚登録 : 15258
感想 : 1104
5

"アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい。だからこそ、彼らはときどき雇い主を殺して、地球へ逃亡してくるのだ。(p.241)"

 SFランキングには必ず名前が挙がる、あまりにも有名な本作。何となく敬遠してきたが、もっと早く読めば良かった! 荒廃したカリフォルニアで繰り広げられる緊迫感のあるアクション。「人間を人間たらしめるものは何か」という魅力的なテーマ。そして、余韻を残す味わい深いラスト。多少の古臭さを感じるのは否めないが、その素晴らしさは今でも全く色褪せない。

 舞台は、第三次大戦後の核の灰に侵された地球。賞金稼ぎを生業とするリック・デッカードは、莫大な懸賞金を目当てに、火星から逃亡してきた奴隷アンドロイド8人の行方を追う…

 訳者の後書きで紹介されていた後藤将之氏の解説(「フィリップ・K・ディックの社会思想」、『銀星倶楽部』12収録)が本書の核心をうまくまとめてくれているように思った。以下、孫引きになるが、
“ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている。(略)ディックが描こうとしたのは、すべての存在における人間性とアンドロイド性の相剋であって、それ以外のなにものでもない。”
この「人間性」と「アンドロイド性」とは何のことか。

 まず人間性とは、共感能力のことであると言っておそらく間違いない。アンドロイドを見分ける"フォークト=カンプフ検査"は感情移入能力を測るものであるし、崩壊しつつある地球にしがみつき続ける人々は"マーサー教"を通じた"融合"体験に半ば依存している。人間性の条件は実体のないものを信じられるかどうかだ、とも言えるかもしれない。

 一方のアンドロイド性は、人間性と対比されるのだから単に「共感能力を持たないこと」としても良いのだろうけれど、例えば次の記述が気になった。
"全世界をゆるがすほどの重大問題─それが、いとも軽薄に語られている。たぶん、これもアンドロイドの特異点なんだ、と彼は思った。自分の言葉が現実に意味していることについて、なんの感情も、なんの思いやりもない。ただ、ばらばらな用語を並べた、空虚で型どおりの知的な定義があるだけだ。 (p.249)"
つまり、アンドロイド性とは、概念と現実との繋がりの欠如を指すのである。だから、「アンドロイド」は他者に感情移入できないし、蜘蛛を平気で虐待することができる。そして、"マーサー教"はトリック映像なのだと人間たちに暴露しても何一つ変わらないことが理解できない。また、作中でアンドロイドが分裂病患者と比較されているのも見逃せない(p.50)。

 人間は、アンドロイドが共感能力を手にすることを恐れているが、それは共感能力の有無が人間とアンドロイドを区別する“最後の砦”だからである。だがその共感能力も、漸進的な改良によって最後には乗り越えられかねないものだと、繰り返し述べられる(とはいえ、作中でネクサス6型は結局テストをパスできなかったという点は重要だろうが)。
"「(略)協会ではそれをもとにして接合子槽のDNA因子に修正を加える。そして、ネクサス7型が完成するわけ。もしそれでも見破られるようなら、また修正をくりかえして、最後には絶対に識別不能のタイプを完成するわ」(p.249)"
 実際、後藤氏も指摘している通り、本書において「人間」と「アンドロイド」の差は明確に表現されているのに対して、人間とアンドロイドの違いはとても曖昧であるように思う。中でも終盤で、レイチェルが屋上から山羊を突き落としたことは特筆に値するだろう。

 人間が「人間らしさ」にこだわるとすれば、それは彼・彼女が人間だからに過ぎないのだろうな、ということを思った(アンドロイドがこだわるのは、勿論人間がこだわるからに他ならない)。考えてみれば当たり前だけど。浮遊感というのか、本を読んでいて久しぶりにそういう不思議な感覚を覚えた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 9 文学海外
感想投稿日 : 2023年1月10日
読了日 : 2023年1月2日
本棚登録日 : 2020年2月29日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする