ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
- 岩波書店 (1967年4月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003363928
感想・レビュー・書評
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型にはまれぬ事を恐れず生来の情熱や欲望を持ってもっと激しく生きられないのか
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とりあえずプラトン、アリストテレスくらいからルソー、カントくらいまでを概説でも良いので読むと、非常に面白く読めるのではないでしょうか
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永劫回帰の思想は下巻からでてくる
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読んどいた方が良いと思う。影響は良い方向に生かされるべきだ。
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死体を引きずるな
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岩波文庫の「ツァラトウストラ」(Also sprach Zarathustra)
他の訳書における学術的な訳に対して非常に簡単な言葉での訳が心がけられており、とくに「注」もない、というのが、この版での大きな特徴であろう。 -
痛烈な社会、人物批判が箴言として書かれている。
なんだか生きにくい世の中だ!と感じる者にとっては胸がすく思い。
ただ、天に唾すれば…おのずと自分自身にも降りかかるもので、私は「悲壮な者」でしかなかった。
「精神の苦行僧」醜い獲物しか得られず、ボロボロになった者。
わたしは、笑いを学んでおらず、美を学んでいなかった。
いつか腹の底から笑いたい。 -
ニーチェの作品の中で唯一読んだものだ。哲学書というより詩のような神話のようだ。それがこの作品を難解にもさせるし、強いインパクトを与えもする。ツァラトストラは明らかに聖書を意識している。
「神は死んだ」の台詞は有名だが、これは言われるまでもなく当たり前なことで、誰もが知ってることではないかと思う。日常での理不尽さ、戦争及び災害、飢餓、暴力を振るう側と振るわれる側、支配する者と支配される者、このような世界のどこに神がいると言えるだろう。
遠藤周作の「沈黙」で、島原で迫害を受けるキリシタンの農民の一人が宣教師にこう言っている。「あなたの教える神がいるというなら、どうしてこの悲劇の中に現れないのか」と
遠藤周作はこれを「沈黙」としているが、「死んでいる」としても同じだろう。何もせず沈黙を続けているだけならば、それは存在意義を失っているから。このことは神だけでなく人間も同じで、沈黙せず存在意義を持ち続けなければならないのだろう。そして、ニーチェはこれを「超人」としたのではないのだろうか?
しかし、私はこれに異議をとなえたい。もし自分が超人でありさえすればいいなら、世界の理不尽な主客の関係の中での支配者が、「超人の中の超人」になるだけだからだ。それは今の現実と何も変わらないだろう。
神が死んだことを理解しながら、世界の理不尽さの中では、神ではなく人間が「沈黙しなければならない」のだ。実存主義者のように言えば、世界に生を受け、その存在意義は別として存在そのものは受け入れなければならない現実がこの世界の全てなのだろう。その意味では、三島の「金閣寺」の描写は的を得ている。この小説は、絶対的な美であり憧れの存在だった金閣寺に主人公が放火して終わる。最後の描写こうだ。『一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。』
よく「沈黙は金なり」というが、「沈黙は金より重い」と言いたい。絶対的な美も信じる神もなく、人はそれに沈黙し受け入れ、生きるしかないからだ。 -
おすすめ度:45点
読むことそのものが苦痛であった。単なるつぶやき、独り言にした聞こえない。
聖書を知らないから、理解できなかったのかもしれない。
訳注釈が皆無な点は良かった。訳注釈があったら、さらに読む苦痛が増したに違いない。