動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061495753

感想・レビュー・書評

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  • 深層にあるもの(データベース)とそこから生成される表層的なもの(シミュラークル)とを等価に見るデータベース消費の構造が、オタク文化やPCの画面上など至るところに見出だせるというのが本書の主張。
    いまではあらゆる物事や言説がデータ化されているので、このモデルの適用範囲は格段に広くなっていると思う。ソーシャルメディアやAIに関連する問題を思い浮かべながら面白く読んだ。

  • 東浩紀は避けては通れないと思い一読。内容はオタク分析を通じたポストモダン論。最後の『YU‐NO』論は、東のいう虚構世界における「データベース的動物」化と現実世界における多重人格化を端的に表したものだった。

  • オタク文化に見るデータベース消費にフランス現代思想由来のポストモダンの予見を感じ取り、日本文化の分析を行う。東浩紀がニコ生で活動するのもこれによりよくわかるうえ、当時のオタク文化への冷たい視線に逆張りする姿勢も今と変わらずブレない。一人称がぼくではなく「筆者」なのも興味深い。
    大きな物語なき、さらには形式的なスノビズムすら必要としないオタクたちの、要素の組換えによるデータベース消費。コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』でいう他者を必要としない欲求の「動物」へ移行するポストモダンの日本。ゼロ年代のサブカルチャー批評へ繋がる著書。

    以下メモ。
    オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。
    お宅と呼び合ってたことが由来の、「オタク」には父や国家が失墜した後の帰属意識が家である。帰属集団の幻想そのものを持ち歩かなければ精神的に安定しないからだ。中島梓『コミュニケーション不全症候群』
    高度経済成長や政治の季節などの大きな物語の失墜を背景として、そのㅤを埋めるためにサブカルチャーを材料に「自分の殻」を作り上げるオタクたち。
    大きな物語の捏造から単なる廃棄へ、『ガンダム』から『デ・ジ・キャラット』へ、物語消費からデータベース消費へ、つまりは部分的なポストモダンから全面的なポストモダンへの大きな流れは、このように、そこに生きる人々の動物化を意味する。データベース的動物。
    ギャルゲー『YU-NO』の主人公の目的は、単にそれぞれの女性を攻略するだけでなく、各分岐にまたがってばらまかれたアイテムを集め、失踪した父親を探し出すことだとされている。そのため主人公は、ゲームの冒頭で「並列世界」のあいだを移動できる「次元間移動装置」を渡されることになる。ここで「並列世界」とは、それぞれ異なった歴史を歩むパラレル・ワールド、つまり、主人公がそれぞれ異なった女性キャラクターとの恋愛を進めている分岐のことである。
    ポストモダンにおいては、論理的な階層が異なるものを等価に並べ、共存させてしまう「超平面的」な感覚が優勢となる。ひとりの主人公が分岐の内部にいて、かつ分岐の外部にもいるという『YU‐NO』の世界は、まさにその感覚に支えられて作られている。
    複数の分岐を往復し、人生としては連続しているにもかかわらず、記憶だけが途切れがちな『YU‐NO』の主人公の設定には、そのような多重人格的な生き方の特徴がよく凝縮されている。
    主人公がこの作品で父に会うことができるのが、すべての分岐をクリアーし、すべての女性キャラクターとの性行為を成就したのちのことだと設定されていることだろう。この設定は、多重人格の例で考えると、すべての交代人格が意識化され、統合され、結果として発症の原因となった心的外傷を思い出す、という標準的な治療の過程に相当している。
    しかし、主人公が現世編ですべての女性を攻略し、必要なアイテムが揃い、父との再会の準備が整ったところで、何の前触れもなしに異世界編に飛ばされてしまう。つまり、この『YU‐NO』の世界では、分裂した心の再統合が成功したにもかかわらず、父は復活せず、かわりにファンタジーが現れてしまうのだ。
    70〜95年までの日本では大きな物語の喪失を補うようにさまざまなフェイクが消費されてきた。
    捏造された虚構に頼るしかない現実を反映している。

  • 「オタク」から世界の流れを読み解く1冊。
    キーワードは「大きな物語」「大きな非物語」「二層構造」「動物化」

    データベース(大きな非物語)を参照して無数のシュミラークルが生成される。シュミラークルの中にはオリジナルも含まれる。大きな物語と大きな非物語の違いは、それを見る主体によって解釈が異なるということである。大きな物語が「見る主体」を規定し、その一方で大きな非物語は表象(小さな物語)をつくるのみである。
    大きな非物語と表象からなるポストモダンはオタクカルチャーのみではなく、世界をも形作る。ポストモダンの流れ自体は20世紀初頭から始まり、ソ連崩壊(日本では地下鉄サリン事件)を契機にポストモダンが本格的に始まる。インターネットと共にポストモダンの時代が訪れた。私はこのポストモダンがポストトゥルースと深く関係していると思う。

  • "オタク"の習性についてよく観察と分析がされているな、と感じました。

  • 20年前に出版されたものなので、今読むとどうしても答え合わせ的な読み方になってしまいがちだが、賛否両論生まれたいい意味で波紋を投げかけた東浩紀氏の論説はやはり鋭いなと感じさせる。
    東氏への批判は、本作の中でも触れられている芸術家の村上隆氏に対する批判の論調とほぼ同じく、自身が本物のオタクではなく外部からの視点から分析し、オタクの要素の表層的な部分を抽出し作品及び論説として表現し発表しているという事である。
    しかしガンダムやエヴァンゲリオンをピックアップして見ると、同じオタクでも世代間の違いがはっきりしており、ガンダム世代を中心とするオタクはそのストーリーや世界に没入するのに対し、エヴァンゲリオン時代になるとキャラクターの二次利用をはじめとする、ある意味そちらの方が表層的とも言える楽しみ方がオタクの主流になってくるという指摘はとても面白い。
    そして欲求と欲望の違いと、そこから動物化へと流れていく人々の変化は、アメリカ的消費社会の予測された行き先であると、本書から20年後の今を生きる者としては頷かざるを得ない。

  • 20年ほど前の本を10年ほど前に積読したものを本棚整理の過程で発掘して読み出したが想定以上に面白くて一気に読んでしまった。

    なるほど表層文化論。具体的な娯楽作品とそれが社会で選抜される理由の構造をなるほどなぁという感じにうまく説明している。

    SNSとかブログとかで断片的に目にする大きな物語の話とかポストモダンというワードもある程度身近に感じ取るようになった気がする。
    あまりに抽象的で何言ってるかよくわからん,という感じでなくちゃんとしたリアリティのある言説になっていて,非専門家でもすんなりロジックが入ってきた。

    この本が世に出てから20年,まだまだエヴァンゲリオンは小さな物語を再生産し世間を賑わしている。また,シン・ゴジラのヒットを見てもオタクが一般社会に広まり,ディテールへの完成度(物語の深遠さでなく)が一つのキーポイントとなっているように見ることもできそうだ。

    この先10年,20年とこの流れが続いてさらに洗練されていくのか,はたまた別の構造ができてくるのかを妄想しつつ今現在の様々な社会の事象を眺めてみるのも面白そうだと感じた。

  • 東浩紀の文体を知りたく読了.「読者や視聴者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まっているように思われる。」p.109にゲンロンの思想を感じた.当時のノベルゲームがシュタインズゲート等のMAGESの作品に影響を与えたのだろう.大澤真幸が1945年~70年を「理想の時代」70~95を「虚構の時代」東が95以降を「動物の時代」と名づけた(cf.p. 131)が25年刻みとするなら2020年以降は何の時代と名付けられるのだろうか.そして誰が名付けるのだろうか.

  • 「動物化」したオタクが文化状況を劇的に変える。2000年代以降の批評の方向を決定づけた歴史的論考

  • この本の感想を書くのは難しい。なぜかというと、この本の初版がすでに2001年ということで、20年も前だからだ。こと現代社会を考察し、提言するタイプの書籍や論文について、20年も経ってしまうと、その書籍が提示していた見解が的を射ていたのかどうかが分かっている。ゆえに、後知恵というか結果を知った上で、「ここが合っていた、合っていなかった」ということができる。だけれど、それをしてもあまりおもしろくないし、神様気分での批判ができてしまうようで、気が引ける。このタイプの本は、鮮度の良いうちに読んだほうが楽しめるような気がする。とはいえ、今書いたような「後知恵」に気をつけていれば、逆にその論考の先見性などをきっちり見ることもできるとも言える。少なくとも今回の感想文は、そういう観点で書きたい。

    さて、まず本書の内容に対する賛否というよりも、本書を書く著者の姿勢について感じたこと。率直にいって、誠実かつパワフルだなと思った。謝辞に「旧世代の筆者に対して、ノベルゲームやら同人ソフトやら、近年のオタク系文化の動きを示す作品をつぎつぎと持ち込んでくれた若い友人たちにも礼を言いたい」とある。著者自身が、90年代の男性オタク内のムーブメントに当事者ではないことを認めたうえで、当事者たちから情報をもらって、自分なりの考察を深めた結果の論考であるということがよくわかる。
    その上で、内容に関しての感想を書く。

    データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。(中略)この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。
    (P.140)
    ポストモダンのデータベース型世界では、両者(※小さな物語と大きな物語)はもはや直接につながることはない。小さな物語は大きな非物語を部分的に読み込むことで生まれるが、同じ非物語からはまた別の小さな物語が無数に生まれるのであり・・・(中略)この透視的なポストモダンの超越性は、視覚的な近代の超越性と異なり・・・
    (P.160)

    正直なところ、このあたりの論考は、何を言っているのか分からない。これは批判というより、単にぼくが理解できないなぁということである。たしかに、著者は個々のキーワードについて論考を述べた上でこの結論部に来ていて、そのキーワードごとの論考には、「なるほど」と思う部分もあるのだが、それを統合する結論が「なぜそうなるの?」と感じる。でも、これは人文社会論考あるあるな気もする。なぜなら統合した結論を導き出すのは、数字データとサイエンス論理、すなわち自然科学的な手法ではなく、著者の脳内の神経回路の生み出したものでしかないからだ。そこにおける飛躍が理解できないのはむしろごく自然なことで、それこそ「誰にでも分かる」ように明確なデータと論理で作られていないこと自体を批判しても野暮と言える。そもそも、人文社会論考で著者の言いたいことが100%わかる人がいるならそれは著者そのものかもしれない(笑)。
    ぼくとしては、本書はそういった結論よりも、個々のゲームなどの事例にひもづく議論の展開のほうが面白いし納得感はあった。

    (Keyのノベルゲームが)90年代に現れた新たな消費者にとっては、現実世界の模倣よりも、サブカルチャーのデータベースから抽出された萌え要素の方がはるかにリアルに感じられる。したがって、彼らが「深い」とか「泣ける」とか言う時にも大抵の場合それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているに過ぎない。90年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳メイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。
    (P.114)

    この引用箇所はなかなか強烈だ。「深い、泣ける」という言葉を発する人は、「自分はこの物語の深さを知った上で感動して泣くことができるほど感受性豊かである」というメッセージを含んでいると、大げさに言えば、言える。そのメッセージを見事に打ち砕く論考だ。ただ興味深いのは、こう書いていながらも、決してその事自体に対する批判のテイストは含まれていないことだ。たとえば、旧来の文学などの愛好家が「アニメ、漫画などを見ている人はレベルが低い」というようなことを言う場合(こんなことを言う人が現代にどれほどいるかはさておき)、文学=深い、アニメ=浅い、というような見下し構造を前提にした価値評価がある。しかも、その言説自体にはなんの研究的価値もない。それに対して、著者の論考は、事象の面について価値評価を含まずにフラットに記述がされており、そういう意味からも納得感が高い。

    エヴァンゲリオンと言うアニメが、そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されていたことを示している。言い換えれば、この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入り口とした1つの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者の誰もが勝手に感情移入し、それぞれ都合の良い物語を読み込むこともできる、物語なしの情報の集合体だったわけである。
    (P.61)

    エヴァンゲリオンの今日に至るまでの作品の商業展開を知った上でこの文章を見ると、なかなか納得する。いまもエヴァンゲリオンは劇場版が作られて、公開されたり、延期されたりしているが、そこに対して「物語の続きを早く見せてくれ」という声があまり大きいとは思えない。どちらかというと、映画館で、縦横無尽にキャラクターが動く「公式同人を見たい」という希望のほうが大きいのではないかという気がする。これは著者の言う「二次創作と同列のシミュラークル」に通じるのかもしれない。

    ということで感想としては、個別の作品や、類似する作品群を求める消費者(男性オタク)心理についての記述は秀逸だと思う。ただそれを統合した「ポストモダンの論考」はぼく個人としてはよくわからない。とはいえそれは著者にとっての知的誠実さを伴うチャレンジとして、それがまた議論の土台となっていくことを考えるなら、意義ある取り組みと思う。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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