動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
3.60
  • (208)
  • (373)
  • (546)
  • (42)
  • (17)
本棚登録 : 3917
感想 : 304
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061495753

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 異世界もの(転生するとか召喚されるとか、まぁ、その辺の細かいとこはどうでもいい)が雨後の筍みたいになっている理由は、これを読めばわかる。

    異世界ものの読者が求めているのは、「小さな物語」という表層が与えてくれる「効率的な感動」「そこそこの面白さ」と、「データベース」に蓄積されている設定の、目先の変わった組み合わせだけだから、量産できるし、既視感満載の作品しかない、ということらしい。
    むしろ、既視感ありき、なんだそうな。
    なんせ、大事なのは創造じゃなく引用の巧みさだから。
    そして、オリジナルとコピーの区別が消滅してるから、原作と言われる作品さえ先行作品の模倣と引用のパッチワーク。
    さらに、現実世界が「大きな物語」の凋落によって強いリアリティを持てずにいるから、もし、その引用と模倣のパッチワークに「大きな物語」を与えようとしたら、もう剣と魔法の世界としてしか想像できないのだと。

    なるほどねー。
    あと、キャラクター小説に私が入り込めない理由がわかった。「物語」と私が考えて読み取ってきたものが、そもそも構造的に排除されているからだった。「効率的な感動」を求めてない読者を、この作品群は求めてない。
    しかも作品全体の構造からしたら必然も文脈も無視してブッ込まれる「みなさんご存知!ほら、あのキャラの、あの萌え要素ですよ!ね、ショートヘアのドジっ子メガネでしょ??ね???(そういうキャラがいるのかは知らないけど)」的な描写に共感できないとこにいる人間だからだった。
    ちゃんちゃん。
    でもなぁ、文芸作品、って言って紹介されてる作品にもだいぶ紛れ込んでるんだよなぁ……わざとやってるならまだしも、自覚なしにやってるんだったら……ちょっとなぁ……

  • 予想より読みやすかった。図解も手伝って筆者の言わんとするとこが、よく理解できる。アニメ、オタク文化をよく知らないのだが、そこも問題なく、むしろ楽しめた。もっと著者の本を読みたい!と思いました。

  • ポストモダンの精神構造、社会構造をオタクの文化をもとにして分析した本。
    示唆に富んだ内容であり、とても面白かった。東浩紀氏の造語がたびたび登場してくるが、どれも言いたいことを端的に言い表したストレートなネーミングによるもので、難解とは感じない。

    20代前半の私からすると文中に挙げられるアニメ・ゲームは馴染みのないものばかりだったが、90年代や2000年代前半の時代を理解する上では参考になった。本書の刊行から約20年が過ぎたわけだが、オタク文化、ひいてはポストモダンも新しい次元に入ったように思われる。この点に関しては新しい著作などで分析してくれることを期待している。

  • 深層にあるもの(データベース)とそこから生成される表層的なもの(シミュラークル)とを等価に見るデータベース消費の構造が、オタク文化やPCの画面上など至るところに見出だせるというのが本書の主張。
    いまではあらゆる物事や言説がデータ化されているので、このモデルの適用範囲は格段に広くなっていると思う。ソーシャルメディアやAIに関連する問題を思い浮かべながら面白く読んだ。

  • 東浩紀は避けては通れないと思い一読。内容はオタク分析を通じたポストモダン論。最後の『YU‐NO』論は、東のいう虚構世界における「データベース的動物」化と現実世界における多重人格化を端的に表したものだった。

  • オタク文化に見るデータベース消費にフランス現代思想由来のポストモダンの予見を感じ取り、日本文化の分析を行う。東浩紀がニコ生で活動するのもこれによりよくわかるうえ、当時のオタク文化への冷たい視線に逆張りする姿勢も今と変わらずブレない。一人称がぼくではなく「筆者」なのも興味深い。
    大きな物語なき、さらには形式的なスノビズムすら必要としないオタクたちの、要素の組換えによるデータベース消費。コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』でいう他者を必要としない欲求の「動物」へ移行するポストモダンの日本。ゼロ年代のサブカルチャー批評へ繋がる著書。

    以下メモ。
    オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。
    お宅と呼び合ってたことが由来の、「オタク」には父や国家が失墜した後の帰属意識が家である。帰属集団の幻想そのものを持ち歩かなければ精神的に安定しないからだ。中島梓『コミュニケーション不全症候群』
    高度経済成長や政治の季節などの大きな物語の失墜を背景として、そのㅤを埋めるためにサブカルチャーを材料に「自分の殻」を作り上げるオタクたち。
    大きな物語の捏造から単なる廃棄へ、『ガンダム』から『デ・ジ・キャラット』へ、物語消費からデータベース消費へ、つまりは部分的なポストモダンから全面的なポストモダンへの大きな流れは、このように、そこに生きる人々の動物化を意味する。データベース的動物。
    ギャルゲー『YU-NO』の主人公の目的は、単にそれぞれの女性を攻略するだけでなく、各分岐にまたがってばらまかれたアイテムを集め、失踪した父親を探し出すことだとされている。そのため主人公は、ゲームの冒頭で「並列世界」のあいだを移動できる「次元間移動装置」を渡されることになる。ここで「並列世界」とは、それぞれ異なった歴史を歩むパラレル・ワールド、つまり、主人公がそれぞれ異なった女性キャラクターとの恋愛を進めている分岐のことである。
    ポストモダンにおいては、論理的な階層が異なるものを等価に並べ、共存させてしまう「超平面的」な感覚が優勢となる。ひとりの主人公が分岐の内部にいて、かつ分岐の外部にもいるという『YU‐NO』の世界は、まさにその感覚に支えられて作られている。
    複数の分岐を往復し、人生としては連続しているにもかかわらず、記憶だけが途切れがちな『YU‐NO』の主人公の設定には、そのような多重人格的な生き方の特徴がよく凝縮されている。
    主人公がこの作品で父に会うことができるのが、すべての分岐をクリアーし、すべての女性キャラクターとの性行為を成就したのちのことだと設定されていることだろう。この設定は、多重人格の例で考えると、すべての交代人格が意識化され、統合され、結果として発症の原因となった心的外傷を思い出す、という標準的な治療の過程に相当している。
    しかし、主人公が現世編ですべての女性を攻略し、必要なアイテムが揃い、父との再会の準備が整ったところで、何の前触れもなしに異世界編に飛ばされてしまう。つまり、この『YU‐NO』の世界では、分裂した心の再統合が成功したにもかかわらず、父は復活せず、かわりにファンタジーが現れてしまうのだ。
    70〜95年までの日本では大きな物語の喪失を補うようにさまざまなフェイクが消費されてきた。
    捏造された虚構に頼るしかない現実を反映している。

  • 20年前に出版されたものなので、今読むとどうしても答え合わせ的な読み方になってしまいがちだが、賛否両論生まれたいい意味で波紋を投げかけた東浩紀氏の論説はやはり鋭いなと感じさせる。
    東氏への批判は、本作の中でも触れられている芸術家の村上隆氏に対する批判の論調とほぼ同じく、自身が本物のオタクではなく外部からの視点から分析し、オタクの要素の表層的な部分を抽出し作品及び論説として表現し発表しているという事である。
    しかしガンダムやエヴァンゲリオンをピックアップして見ると、同じオタクでも世代間の違いがはっきりしており、ガンダム世代を中心とするオタクはそのストーリーや世界に没入するのに対し、エヴァンゲリオン時代になるとキャラクターの二次利用をはじめとする、ある意味そちらの方が表層的とも言える楽しみ方がオタクの主流になってくるという指摘はとても面白い。
    そして欲求と欲望の違いと、そこから動物化へと流れていく人々の変化は、アメリカ的消費社会の予測された行き先であると、本書から20年後の今を生きる者としては頷かざるを得ない。

  • 20年ほど前の本を10年ほど前に積読したものを本棚整理の過程で発掘して読み出したが想定以上に面白くて一気に読んでしまった。

    なるほど表層文化論。具体的な娯楽作品とそれが社会で選抜される理由の構造をなるほどなぁという感じにうまく説明している。

    SNSとかブログとかで断片的に目にする大きな物語の話とかポストモダンというワードもある程度身近に感じ取るようになった気がする。
    あまりに抽象的で何言ってるかよくわからん,という感じでなくちゃんとしたリアリティのある言説になっていて,非専門家でもすんなりロジックが入ってきた。

    この本が世に出てから20年,まだまだエヴァンゲリオンは小さな物語を再生産し世間を賑わしている。また,シン・ゴジラのヒットを見てもオタクが一般社会に広まり,ディテールへの完成度(物語の深遠さでなく)が一つのキーポイントとなっているように見ることもできそうだ。

    この先10年,20年とこの流れが続いてさらに洗練されていくのか,はたまた別の構造ができてくるのかを妄想しつつ今現在の様々な社会の事象を眺めてみるのも面白そうだと感じた。

  • 東浩紀の文体を知りたく読了.「読者や視聴者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まっているように思われる。」p.109にゲンロンの思想を感じた.当時のノベルゲームがシュタインズゲート等のMAGESの作品に影響を与えたのだろう.大澤真幸が1945年~70年を「理想の時代」70~95を「虚構の時代」東が95以降を「動物の時代」と名づけた(cf.p. 131)が25年刻みとするなら2020年以降は何の時代と名付けられるのだろうか.そして誰が名付けるのだろうか.

  • 「動物化」したオタクが文化状況を劇的に変える。2000年代以降の批評の方向を決定づけた歴史的論考

全304件中 41 - 50件を表示

著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

東浩紀の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×