原発社会からの離脱――自然エネルギーと共同体自治に向けて (講談社現代新書)
- 講談社 (2011年6月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062881128
感想・レビュー・書評
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原発社会からの具体的な離脱論の展開を期待したが、いささか内容が飛びすぎる。どちらかと言えば国策批判、官僚批判がメイン。
「貧しくならない省エネ」という考え方には同意。ただし30万円する薪ストーブを「普通の人」が買うかどうかはちょっと疑問。
「生活をいちいち反省しなくてもいいから、原発でいい」国民の心が一番変わらなければならないが、一番変われないのも国民の心では。その方法論をもっとブレストしたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【速読】飯田さんて人が身内に対し無責任に甘いですよね。脱原発であれば誰であれ敬称で、本書で嬉々として挙げた方々が政治力を持った時、電力以外の点で日本人の幸福度クオリティを著しく下げるんじゃないかと心配です(^q^)反対の立場の人に対しては「知性」がないと口撃するし、知り合いだったら絶対面倒くさい。宮台さんは以前は推進派だったと告白してましたがそんなことなかった風に勝間さんを揶揄してるのは、編集の都合?対談形式は情報が多角的に絡むのにつまらなく感じるのは、内輪の空気を守ろうという編集の様子が見え透くからですかね。
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「現実」に手を突っ込む!
本著は、かって原子力ムラにもいたことがあり政界や産業界の現場でも行動するエネルギーの専門家飯田哲也氏とアクティブな社会学者宮台真司氏の3.11直後の対談録である。
「飯田:推進対反対の二項対立だと、相手の穴を狙って論破すれば勝ち、ということになります。でも勝っても現実が何も変わらないなら、そういう議論は不毛です。(略)
宮台:現実に作用する権限を持った者(政府東電等:筆者註)の側に、圧倒的に責任があることは間違いない。そうした非対称的な関係のもとで、実際に行為する側は政治的な無責任を決め込み、批判者は有効性を度外視したままひたすら反対運動をやり続けてきた。その結果、何も変えられないまま、今回の惨事にいたった。それが日本の現実です。」
<議論は単なるディベートでなく、現実をよりよく変えることにつながる議論か?反原発デモだけで社会の現実を変えられるか?>
「宮台:大前研一さんが脱原発になったのも、イデオロギーではなく、合理性の乏しさが理由でした。なので、合理性の問題を国民に丁寧に説明することを目的として、NHKも番組を作ることができると思う。イデオロギーよりも合理性の方が説明の手順が必要で、丁寧に番組を作らないと視聴者は分からない。
飯田:原子力が消えていくのも、まさに合理性です。」
<反原発は右翼でも左翼でも、保守でも革新でもなく、現実的合理性である。>
「この福島第一原発に起きた歴史に残る大事故は、いまだなお収束の見通しは立っていない。この不安定な状態は、未だ数年・数十年のオーダーで続くことは間違いない。この状況を眼の前にしてなお、この国の「旧いシステム」は変わるどころか、上で述べたような既得権益を露骨に温存する動きが見られる。(飯田)」
<この対談は3.11直後だが、指摘された問題は今も同じで変わらない。民主党から自民党へ政権交代して、原発エネルギー政策はむしろ後退悪化している。
今日のyahooニュース→
エネルギー基本計画 再生数値目標を見送り 自公合意
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/science/alternative_energy_sources/?id=6112508 >
「この国の「旧いシステム」は、あまりに日本社会を構成する大多数の善良な人々、とりわけ最低辺層や将来世代への眼差しが欠けているだけでなく、その善良さを愚弄し、見下し、しかもそこに付け込んで「寄生」しているとしか思えない。しかし他方で、それを批判して理想論を美しい論文にまとめても、どろどろした「現実」に手を突っ込まなければ、それはエクスキューズにしかならない。(飯田)」
<国民一人一人も、エクスキューズせずに自分が出来る範囲で「現実」に手を突っ込むこと!> -
福島直後の対談をもとにした脱原発の本。
あれから3年経過して、状況が変わっている部分も多いので、改めてお二人の話を聞いてみたい。 -
東日本大震災、福島原発事故から2年を過ぎても、
いっこうに収束の行方が見えない…
本書は、震災事故1週間めの対談をもとに編まれた一冊。
肝心で不可避な問題点が明晰に言及されていると感じた。
著者の飯田哲也は「あとがき」でこう書いている…
―この国の「旧いシステム」は、あまりにも日本社会を構成する
大多数の善良な人々、とりわけて最底辺層や将来世代への
眼差しが欠けているだけでなく、その善良さを愚弄し、
見下し、しかもそこに付け込んで「寄生」しているとしか思えない。
しかし他方で、それを批判して理想像を美しい論文にまとめても、
どろどろした「現実」に手を突っ込まなければ、
それはエクスキューズにしかならない。
「美しい国」を標榜する現首相は、このどろどろとした「現実」に
どれほど手を入れようとしているのだろう…
いかに美しくコーティングされようと、否応なく
泥水を飲まされるのは、ボクら国民に他ならない。
嫌なものは嫌だ! いらないものはいらない!
すべてはつまびらかにされない情報を、
それでも執拗に追い続け、叫び続けるために、
ボクにとって、本書は有益な一冊となった。 -
よきも悪きも東日本大震災後から明らかになった日本社会の歪みを、エネルギー専門家の視点と社会学的な視点とのコラボで解説されている。
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「原発をどうするか」から「原発をやめられない社会をどうするか」に言及した<まえがき>が素晴らしい。
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宮台真司×飯田哲也(2011)『原発社会からの離脱――自然エネルギーと共同体自治に向けて』を読了。
東日本大震災・福島第一原発事故以降、世の中は明らかに脱原発ムードへとシフトした。それでも、政府は子どもの被ばく許容量を20ミリシーベルトにしたり、大飯原発再稼働や原子力規制庁長官問題など、明らかに原発推進のシフトを崩さない。
原発は燃料調達コストや核廃棄物などを合理的に考えてみれば、明らかに環境にやさしい「クリーンエネルギー」ではない。太陽光発電や風力発電は普及すればするほど、市場メカニズムに従って、発電コストは下がり総体としての発電量も増えるのだが、危険リスクを徹底的に管理・規制していかなければ、その負担コストは跳ね上がるために、市場メカニズムが働かない独占市場の中でしか機能できないものだ。しかし、両氏が問題にする「悪い心の習慣」の問題、即ち、全てを自分ではなく他者に任せるか責任を追及し、その他者が為すシステムやプラットフォームを自ら自治することをしない/できない、いわゆる思考停止状態の拘泥から抜けられずにいる社会がこの国の病理として浮かび上がってくる。
議論を通しての主張は精緻かつ明快だ。リスクなどを自ら考慮した上で合理的思考による議論を重ね、その知識の蓄積に基づいた選択と決定と直接的な共同体自治こそ、さまざまな変化に柔軟に対応できるとするものだ。決定の権限や選択肢が大きくなればなるほど、その決定は硬直化し拘泥する。だからこそ決定するためのセクターを数々増やして自治の質を高める。そこに社会としての変えるべき道があるとするものだ。
原発に関する問題や自然エネルギーに関する実践事例も紹介されているが、両者が描く社会の哲学(社会哲学・政治哲学)が非常にクリアに語られているのが特筆すべきところ。まだソーラーシステムも電気も選べない社会であることが非常にもどかしい。 -
これはとても濃厚な対談である。
立花隆と佐藤優なんていうのも濃厚だったけど。こちらもなかなか深いし面白い。
飯田哲也氏の経歴など初めて知ったのだが、これは興味深い。もともと原子力ムラの中の人で、神戸製鋼ではオウムの村井氏と同期だったとか、これはもう興味深いと言わざるをえない。
基本、反原発という話なわけですが、反原発はイデオロギーではなく合理性なのだ、というのはとても重要な論点であると感じた。どうも反原発デモなどの影響か、あれをイデオロギーとして解釈するという風潮があってよろしくないと思っていた。
そして、官僚って恐ろしいと思いました。原発にしてもちゃんと理詰めで話をしていけば、一番理屈にあった結論に到達するのであろうなんてのは幻想だって思い知らされてしまう。ああ恐ろしい。
ウランが枯渇しようが使用済み核燃料が貯まり続けようがコストがかかろうが高速増殖炉が夢物語だろうが、とにかくある特定の人たちにとって有益なシナリオであり、その人たちに主導権があれば、その道を進んでしまうということだ。哀しいけどそれが現実。 -
社会学者、宮台真司さんと環境学者?の飯田哲也さんの対談形式によって原発依存社会について言及された一冊。
全体としては飯田さんが環境的、エネルギー政策としての専門的な側面から論じ、宮台さんが(どちらかといえば)読者目線で的確な疑問を投げかける、といったような構成。宮台さんのコメントについては、読んでいて気になる部分を的確かつわかりやすい表現で突っ込んでくれたり、理解を促進する言い換えをしてくれたり、さすが宮台さんって感じでした。
個人的に一番面白かったのは第二章「変わらない社会、変わる現実」で、ここではなぜ日本社会が原発依存社会から抜けだせないでいるのかを、抜けだしたスウェーデン社会との比較から、社会学的な目線で論じている。こういった内容なので宮台さんの発言も読者のサポートという立場ではなく、自身の考察をふんだんに交えているわけだが、非常にわかりやすくて納得の行く議論になっていた。