親鸞 (上)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062910002

感想・レビュー・書評

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  • 親鸞は生きた時代は,平安時代から鎌倉時代である。「人はなぜ苦しんで生きなければならないのか」という問いを常に内面に抱えながらその答えを探しだすために人生を歩む。しかし,学べば学ぶほどその答えは解しがたいものとなり,煩悩からの呪縛がより意識されるようになりもがき苦しむ10代から20代までが上巻で書かれている。元々,仏教は教養のある貴族などの上流階級の物がそれを学び理解することで浄土へと導かれるという考えであったが,後の親鸞tなる幼き忠範は下賤な身分ではあるが魅力的な俗人達と交流することで,こうした人たちが救われる道を志すようになるのである。

  •  親鸞が親鸞を名乗るまでを五木寛之が描く。

     浄土真宗の大事であろう部分が法然の言葉や親鸞の生き方に滲み出ている感じがする。しかし、説教臭い感じは全くなく、様々な魅力的な登場人物が出てきて、親鸞の人生がエンターテインメントとして面白く、読み進めるのが楽しい。
     しかも、さりげなく親鸞がなぜ僧でありながら妻帯をしたのか、なぜ仏教が葬儀を行うようになったのかなども伝わるようになっている。

     これは続きも読んでみないと。。。

  • 吉川英治版に比べると五木寛之版の方が娯楽性が強い気がする。
    こちらの親鸞の方が男らしい感じもする。
    だが、仏教に対しての葛藤、悩みはどちらも同じ。
    そこが親鸞の人間性を表していると思う。
    まだ序盤なのでこれからどんな違いが出てくるか楽しみである。

  • 立川談志は落語とは人間の業の肯定と言った。
    「業」とはどうしようもない人間の弱い部分と言い換えることもできるだろう。

    親鸞は人間の「業」と徹底的に向き合った、もっと言えば”幸いなことに”向き合わざるをねなかった男といえるかもしれない。

    本書は、親鸞の幼少期からの出会い、生き様、苦悩を描いた成長物語である。
    物心つく前から、堂僧として比叡山に入り、ただひたすらに学問と念仏にあけくれた親鸞。

    しかし折に触れて自らの胸に去来する違和感。
    それは自らに流れている「放埓の血」が原因となっていた。

    仏道に身をおきながら、心の奥底にうごめく「放埓」と向き合う姿には、孤高の存在だけがもちうる悩みだと感じる一方で、誰しもが共感できる部分もあり、興味深い。

    坊主の話と聞くと、敬遠する人、退屈なのではと想定する人もいるかもしれないが、
    そこは、五木寛之の著作である。魅力的な人物の目白押しである。

    圧倒的な文章力はもとより、展開するストーリーにおいて、常に人間の持つ欲望の生々しい躍動があり、読んでいてあきることがない。

    物語は、闘牛の場面から始まり、俗世間をたくましく生き抜く男たちとの出会い、
    わけ隔てないおおらかな心を持った「大文化人」後白河方法に恨みを持つ男との戦い
    など、刺激的なエピソードで溢れている。

    本巻の一番の読みどころは、幼少期から青春時代にかけて修行に明け暮れた
    親鸞に決定的な意思決定をもたらす一人の女性との出会いである。

    親鸞はその女性と計2度出会うことになる。
    そして、ある事件をきっかけに親鸞の運命は大きく変わることになる。

    人間の業に向き合い続ける男の戦いに向き合うことは
    自分自身がどういう人間であるかを問うことにもなるだろう。

    業深き人間たちの運命が交錯しあい物語は進展していく。
    心の中をかきまわしてくる作品であることは間違いない。

  •  範宴、綽空、善信、親鸞と、心が生まれ変わるたびに名を変えた浄土真宗の祖親鸞の物語だ。この上下2巻では、名前を親鸞に変えて、越後へ追放されるまでを描く。
     久しぶりに、面白く、また勉強になる本に出会えたという感じで、これは、宮城谷昌光や高橋克彦などの著者に出会った感じと似ている。
     なむあみだぶつ、とは、南無、すなわち帰命する、ということ。帰命するとは、全てを捨てて仏の前にひれふすこと。なにもかも、全てお任せして信じ、決して迷わない。その誓いを南無、という。そして、あみだぶつ、とは、阿弥陀如来という仏様をお呼びする声。阿弥陀様は、自分の名を呼び、仏に帰命する全ての人々を、わが子のように分け隔てなく救い、浄土へ迎えようと固く誓われた仏様だ。身分の隔てもなく、男女の区別も無く、穢れた人も、罪深き人も、あらゆる人々を抱きしめて浄土へ導いて下さる、そのような仏様こそが阿弥陀仏だ。その慈悲におすがりする声が、念仏であり、この念仏一つで救われる。はかなきこの命が尽きるとき、誰もが必ず浄土に生まれ変わることができる。そういう教えだ。仏の教えとは、お釈迦様の教えのことで、お釈迦様が説かれた一番大切なことは、人はみな平等であると言うこと。しかし、この世に平等に生きることは難しい。だが、阿弥陀仏という仏様は、全ての人々をみな平等に救うと言う誓いを立てられた唯一の仏様だ。修行や学問や身分、善行などに関係なく、今生きている者を一人残らず救い、浄土に迎えようと言う仏様だ。生きるためには殺生もしなければならぬ人も、恥多き生業の人も、貧しき故に悪を犯す人も、一人残らず平等に救う。
     目に見えずとも、この世界にはたくさんの仏様がいる。智恵に優れた仏様、病を治す仏様、宇宙天地を司る仏様。しかし、それらの数々の仏様の中で、阿弥陀仏という仏様は、この世に生きる哀れな者たちを決して見捨てない、と固く誓われた仏様だ。哀れな者たちを見捨てない、おろかな人々を一人残らず救う、罪多き我らを必ず抱きとめて下さる。それが阿弥陀仏様だ。
     一人残らず救うという阿弥陀仏様の誓いを本願と言う。その本願を信じて、思わず体の奥からもれ出る声が念仏というもの。声に出さねば人には届かない。ましてみ仏には。ああ、阿弥陀仏様、あなたさまのお誓いを信じます、そして一筋にお任せします、と誓う言葉が念仏であり、なむあみだぶつ、というわけだ。
     ただ、親鸞の師である法然の説く教えは、当時は非常に危ういものだった。真実を語れば、必ず周囲の古い世界と摩擦を引き起こす。出来上がった体制や権威は、そんな新しい考え方や言動に不安を覚える。法然の説く教えは、これまでの仏法の権威を否定する教えである。当時の仏法は、異国から伝わってくる教えや知識を必死で取り入れ、つけくわえ、つけくわえして大きく豊かに花開いたものだ。ところが法然上人は、それらの教えや修行や教説を一つ一つ捨てていこうとしている。知識も学問も難行苦行も、加持祈祷も、女人の穢れも、十悪五逆の悪の報いも、物忌みも戒律もなにも何も捨て去って(これを選択・せんちゃくという)、あとに残るただ一つのものが念仏であると説く。ただ念仏すればよい、という専修念仏(せんじゅねんぶつ)、易行念仏(いぎょうねんぶつ)という教えだ。これまでそのような厳しい道に踏み込んだ僧侶はいなかった。だから法然は非常に危うかった。
     念仏者はみな平等であり、身分や職業にとらわれることはない、仏の本願とは、悪人をまず救うということ。母親は元気な子より、病んだ子をまず抱きしめる。
     念仏して浄土に行くということは、行ったことがないので、誰もわからない。だから、ただ、師法然の言葉を信じるしかない。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。信じるのは物事ではなく、人だ。その人を信じるがゆえに、その言葉を信じる。親鸞は法然上人を信じており、その法然が教えるとおりに念仏して、浄土に迎えられるというのを信じている。そして、親鸞が法然を信じているのは、法然が親鸞を信じているということからだ。
     親鸞と言う名を名乗るのは、親鸞が都を追われるときからだ。念仏往生の教えは、大乗の道に進んだ天竺の世親菩薩(せしんぼさつ)と、浄土の思想を極めた曇鸞大師(どんらんたいし)の願につきる。我一心(がいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじっぽう) 無礙光如来(むげこうにょらい) 願生安楽国(がんしょうあんらくこく)。
    全2巻

  • タダノリは両親を亡くし、幼い弟を連れて肩身の狭い思いを感じつつ伯父の家にやっかいになることに。河原で知り合った人々との交流が、その後のタダノリ(親鸞)の人生に影響を与える。タダノリは、比叡山の横川に入山して範念と名乗り修行を積む。やがて範念は、都で人気の法然上人との出会う・・・。

  • ★2016年10月15日読了「親鸞(上)」五木寛之著 評価B
    学生時代には青春の門などでベストセラー作家だった彼の作品。何となくバタ臭いかっこつけすぎのスタイルが嫌いで、ほとんど読んでいない。

    今回は、題材が親鸞ということで、読んでみることにした。Wikipediaによれば、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受ける中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される。とある。

    五木寛之らしく、史実に忠実でありながら、一僧侶の精神世界の山谷を上手く描き出しており、普通に字にしてしまえば、面白くもなんともない修行者の歴史に読者を引き込んでしまう。

    上巻は、朝廷の下級役人だった父、日野有範の子として生まれた日野忠範は、早くに両親と別れ、叔父の手引きにより、比叡山に入る。範宴(はんねん)と名を改めつつ、好相行と呼ばれる一日3千回の五体投地を繰り返す修行を行ったり、常行三昧や有名な回峰行も行い、「そもそも仏とは、一体何なんであろうか?」という疑問を突き詰めていく。
    それらの修行の時々には、世の人と扱われない最下層の人々とのふれあいや立場の相容れぬ平家の後ろ盾をもつ伏見平四郎などとの争いなども織り込み読者を飽きさせない展開となっている。

  • 新潟市周辺どこへ行ってもつきまとう親鸞の影、ぼちぼちと資料的なものは読んでいましたが,いっそ娯楽的なものを、と読みはじめました。今の所史実のタイムテーブルからは外れていないが、親鸞の生涯については不明瞭な点が多く、エピソードはうまく創られておりてんこもりに面白いです。親範(のちの親鸞)が色々な人と知り合いになり、比叡山に入山得度し範宴(はんねん)と称し修行を始め、さらに山を降りて聖となる決意をするところまで。ミイラ取りがミイラになって法然の弟子となるもんだろうと読んでいたら、存外違う方向でかなり興味を煽られた。上手いです。比叡山と最澄についてはあまり親しみがないので一度しっかりと調べてみたくなった。下巻が楽しみ。

  • 親鸞に対する予備知識ほぼゼロで読み始めた。
    彼が今後歩むであろう茫漠で荒涼とした道を予感させ、一刻も早く続きが読みたいと思わせる。

  • とても厳しい修行をしていたのですね。
    今は、あまり修行しなくてもいいみたいなのですが・・・家が浄土真宗なので、南無阿弥陀仏には親しみがありますが、親鸞が悩んだように、なぜ。と思うこともたくさんあり、今年はそんな悩みを少しでも解き進めていけるような読書をしていきたいな、と思いました。
    下巻たのしみっ(^o^)/

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著者プロフィール

1932年、福岡県生まれ。作家。生後まもなく朝鮮半島に渡り幼少期を送る。戦後、北朝鮮平壌より引き揚げる。52年に上京し、早稲田大学文学部ロシア文学科入学。57年中退後、編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞、2010年『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞受賞。ほかの代表作に『風の王国』『大河の一滴』『蓮如』『百寺巡礼』『生きるヒント』『折れない言葉』などがある。2022年より日本藝術院会員。

「2023年 『新・地図のない旅 Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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