二百十日・野分 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010168

作品紹介・あらすじ

阿蘇に旅した"豆腐屋主義"の権化圭さんと同行者の碌さんの会話を通して、金持が幅をきかす卑俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す『二百十日』。その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描き、『二百十日』の思想をさらに深化・発展させた『野分』。

感想・レビュー・書評

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  • 中編2作品。明治40年(1907)に書かれた「野分」は、志賀直哉や武者小路実篤など後続する文豪たちに大きな影響をもたらしたらしい。令和時代の青年たちへのエールとしても未だ有効だと思いながら読了。

  • 「二百十日」は阿蘇へ登る途中道に迷う二人の様がかなりリアルで怖く、二人の話す世の中の厳しさの暗喩として効果的。飄々とした二人の友情も心地よい。 
    「野分」の先生夫婦のやりとりや状況は「道草」等漱石の作品ではおなじみだが、漱石の思うところをここまではっきり語らせるのは珍しいのではないか。中野君の描写に、皮肉や冷笑より私は漱石の人を信じたい気持ちが感じられる気がした。

  • #899「二百十日・野分」
     漱石の割と初期に当る中篇二篇です。
    「二百十日」は、「剛健な趣味を養成する」ことを目的に、阿蘇へ温泉旅行へきた圭さんと碌さんの会話を中心に話がトントン進みます。一見のんきな落語風の会話で笑はせてくれますが、資本家嫌ひの圭さんが放つ一つ一つの発言が時代を抉ります。
     
    「野分」では、文学者白井道也と、高柳君・中野君の二人の若者が中心人物。白井道也は地方で教師をしてゐたが、学生たちに追ひ出されること三度、つひに東京で妻と二人で引きこもる生活に。
     「二百十日」のテエマを更に進化させ、終盤の道也の演説は本作の白眉であります。観念的にならず、物語としても興味深く、ラストの展開は中中ドラマティック。
     漱石作品中でも地味な扱ひで知名度が低いかも知れませんが、漱石の文学者としての覚悟も窺へる貴重な一作ではないでせうか。でも道也の奥さんは可哀想でした。

  • (個人的)漱石再読月間の4と5。

    文学はお金じゃないのよ。だけどお金がないのはホントにツライ。。

  • 二百十日は弥次喜多みたいで楽しく読めた。
    悪天候時の山登りは危険。

    野分は日常会話部分はすらすら読めても、頻繁に登場する漢文を下地にしたような文章が難しくてつっかえつっかえしながら読んだ。
    まず、世俗的な考え方の人として描かれた道也先生の奥さんやお兄さんだけれども、その言い分ももっともだと思った。自分達を不幸な方向へ向かわせないと文学って書けないものかね?
    また、道也先生や高柳君からすれば金持ちの中野君は対立的な立場の人なわけだけど、中野君みたいに自分のことを大事にして気にかけてくれる友達を高柳君は大事にせんといけんよ。「金持ち喧嘩せず」を体現している。
    高柳君のラストの選択はだいぶ検討違いだと思った。中野君に対する裏切りじゃないか?道也先生もそれで良いのか?
    数年後には高柳君は孤独に死んでしまいそう。

  • ・「二百十日」
    圭(けい)さんと碌(ろく)さんの青年二人が、九州の阿蘇地方に旅に出ている。もくもくとどす黒い噴煙を噴出す阿蘇の火口をめざして、山あいの道をのぼってゆく。やがて、空模様も怪しくなり、風雨が激しさを増す。
    その道中、二人の青年は、商業や実業を生業とし資産を有する人たちへの敵愾心、彼らと戦うべきだ、という青年らしい勇ましい志を語り合ったりもする。だが、そうした思想や理念も、会話を中心に構成されるので、さらりと流れてしまった感あり。
    一方、噴煙と嵐の風景、壮大な阿蘇の風景が強い印象を刻む。「絵」の強さばかりが印象に残った。

    ・「野分」
    白井道也“先生”、高柳君、中野君。3人の若者の生活が交錯し、その生き方が対比される。
    中野は資産家の子息らしく、裕福な暮らしを送る青年。作中、椿山荘のような立派な庭園で、まるで園遊会のような披露宴を行う、いかにもブルジョアジーな場面も。 道也は元教師。高踏な生き方を追求するあまり、実業界の父兄から不興を買うことしばしば。地方の学校で衝突と転出を3度も繰り返し、とうとう教職を捨て、東京でしがないライター稼業のようなことをして糊口をしのいでいる。こつこつ小説を書いている。
    高柳は、大学を出たものの勤めが見つからず、これまた、翻訳の下仕事みたようなことをしてわずかの収入を得ていて貧乏。彼も小説を書く志はあるのだが、食う為に忙しく筆が止まっている。
    この3者の生き方が対比的に描かれるのだ。

    とくに道也と高柳は、文学への志が高く、実業・商業の世界で豊かさを手にして強者となっている者たちを毛嫌いする。金や裕福な暮らしを目的に生きることを小馬鹿にしている。現代に生きる私の目からは、「なにもそこまで」の感を抱くほど、文学芸術の志は高潔である。
    とくに終盤近く。道也が演説会の壇上で講演するくだり。高邁な思想が、たっぷりこってり、力強く声高に語られる。文学の道を生きるものは、経済的な果実や成功を手にすることを期待してはならない、と決め付けている。
    この講演会の目的も、なにやら活動家らしき勤め人の家族を支援するものだったりして、少々プロレタリア文学の匂いも。
    この演説会で、道也先生は、芸術家、文学者は、かつての倒幕の志士のように、社会と切り結ぶべし、とまで主張する。巻末の解説によれば、そうした主張は、当時の漱石の思想の代弁でもあったという。漱石が、文学において、それほどまで孤高で、戦闘的な使命を標榜していたとは驚きであった。

    さて、道也は、家で奥さんに嫌味を言われてばかり。理想主義的生き方を貫くばかりに困窮し続ける暮らしに、妻は不平をこぼす。彼の家庭の場面では、生活のほろ苦い面が濃い。だけども、妻を離れた場面での道也は、明るく快活な様子で、その切り替わり方に意外の感あり。面白い。
    一方の高柳君は、同じ貧乏者でも、道也先生より鬱々としている。人の居るところに出向くのも嫌なようで、いわば「マイナス思考」のループに陥っている模様。そんな高柳君は、道也先生を慕っている。(実は二人には、地方でのある因縁がある。)
    師走の夜半、高柳君は、ふと家を出て、夜道を歩きはじめる。この場面がいい。神楽坂近くの町を歩き、物売りたちの姿を、ただつぶやくように淡々と語ってゆく。
    ものさびしく。なぜだか美しい。 

    終盤、道也先生の借金百円を巡って、思いがけぬ展開が用意されていて、小説の構成としても実に劇的で面白い。
    これまで、多くの漱石の作品を読んできたが、私には本作がFavorite である。青年期の、理想と不安のないまぜになった心持ち、貧しさと豊かさの現実。そうしたテーマが、身近で切実に感じられたためかもしれぬ。

  • 金持ちや華族を"豆腐屋"と呼び、社会を変えよう志す若者たちの阿蘇山登頂の物語『二百十日』。
    落語のような軽妙な会話とは裏腹に、世の中の不正に対する怒りは噴火口のように燃えたぎり素朴な若者たちが
    爽快です。

    そして、金持ちが文学者たちをも脅かしはじめる社会を描く『野分』。
    悩める肺病の青年、高柳が転地療養しながら小説を書くのを諦め、先生の原稿を買いとるラストは印象的。社会のために先生の一冊の書物を救うことこそ、自分の人生を賭した事業と見なしたのでしょうか。クライマックスとなる、学問の道を説く白井の演説は感動的ですが、世間の冷たい風はその後も彼らに厳しく吹きつけるでしょう。

    日本が民主化し、社会階級が流動的になるや、人々はチャンスを求めて金儲けに奔走し、財力が言論や学問をも支配する。漱石は明治期にすでにそんな兆候をみてとったのでしょう。彼の危機意識がにじみ出ている2作品でした。

  • 漱石の思想を直接的に小説に反映させた、という作品。後の作品に比べて展開やら文体やらがこなれていない感じ。漱石の講演録と併せて読むと漱石の思想の変化と執着を理解することができるかもしれない。そこまでやろうとは思わないけど。
    ーーーーー
    阿蘇に旅した“豆腐屋主義”の権化圭さんと同行者の碌さんの会話を通して、金持が幅をきかす卑俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す『二百十日』。その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描き、『二百十日』の思想をさらに深化・発展させた『野分』。

  • 二百十日も野分も初めて知った。
    どちらも大々的な物語ではなく日常的だった。

    ・「二百十日」
    圭さんと碌さんの会話が面白い。
    特に圭さんの金持ち批判は痛快である。
    漱石も金持ちや華族が嫌いだったのだろうか。
    豆腐が好きなので圭さんが良い人に見えてくる。
    圭さんが漱石ならば碌さんは誰がモデルなのだろうか。
    未読であるチャールズ・ディケンズの『二都物語』が出て来た。

    ・「野分」
    白井道也の長い演説が見所か。
    この人も金持ちが嫌いらしい。
    高柳と道也は対照的なようで似ている気がする。
    限りなく文学士の哀しみが漂う。
    道也は奥さんに冷たいと思う。
    高柳の視点だけで読むと中野が憎く見えてくる。
    最後はよく分からない。
    恩人に対する償いか?
    肺結核?で長くは生きられないので自棄になったか。

  • 「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。主人公の二人はところどころとぼけていて、まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、という持論を展開していきます。それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、論理がむずかしいということもなく、読者の気持ちもそこに乗り移るように、男気ある好人物との触れ合いを楽しむように読書することになるでしょう。中編「野分」は、社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、リアリティさも強い文体です。クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。今って、階級社会になってきましたよね。70年代に築かれた中流層が崩れ、下層階級と金持階級との二極化がすすみました。そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、もしかするとちょっと似ている部分がある。金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、まるで位人臣を極めたかのように、学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。しかも世間一般はそう誤認している。あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間が出来たのである。自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。この見やすき道理も弁ぜずして、かの金持ち共は自惚れて……」という二つの引用セリフからもわかります。そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、同時になんか腑に落ちないな、という違和感もみんな感じているところだと思います。それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、ひいては漱石のような作家が、社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。見事だと思いました。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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