阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101020044

感想・レビュー・書評

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  • 【舞姫】
    高3の現代文の教科書に載っていた作品。もう覚えていないような気がする…と思いながら、1年後にまた読んでみた。すると、『「幾階か持ちて行くべき。」と鑼の如く叫びし馭丁』のところで、不意に先生の声が蘇り、一人で笑ってしまった。

    私は、舞姫のテーマは、①恋愛・②孤独・③自我の芽生え・④青春の苦さだと思う。

    ①始めは豊太郎のひどさにばかり目が行ったが、実際、彼は罪を犯したわけではない。エリスとは、結婚したのではなく付き合っていただけだ。一方の申し出で別れが生じて当然の関係だし、付き合うのも行為も同棲も双方の合意とすると、豊太郎を一方的に責められない。そもそも、2人の関係性は、始めから対等なものではなかった。エリスの立場の弱さが、豊太郎への不安と依存を生んだ。カップルに文化の違い、生活レベルの違い、学の違いがあると、大変そうだ。国際結婚や婚前の同棲など、現代でも、成就が困難な部類に入る恋愛だっただろう。

    ② 現実から逃避し続け、楽しいところだけ享受し、面倒なところは人に始末させ…って、豊太郎だけいいとこどりではないかと思っていたけれど、むしろ逆かもしれない。豊太郎は、孤独だ。当時の日本人の男性には、仕事と家があっただろう。しかし、豊太郎は出世街道を絶たれ、両親も失ってしまった。加えて、他責的な考え方のために、身の回りにいる人すべてを親しく感じられていない。留学生仲間に対しても、エリスに対しても、相沢健吉に対しても、彼は自分を開けなかった。

    ③豊太郎は、優柔不断だ。私は、それは彼に「自分の意志で選択する」という概念がなかったからだと考える。明治前期のこの時代、「あなたの人生なのだから、あなたがどうしたいかは自分で考えて。」などと言ってくれる人は、誰もいなかっただろう。日本にいれば、国のため・家のために生きる価値観しか知り得なかったはずだ。ところが、ヨーロッパに行き、「自分が」下す選択が「自分の」人生を決めるという経験をする。無数の場合がありながら、自分が選んだ道・タイミングが積み重なり、一つの人生になることを知る。つまり、自分という存在、「自我」に初めて目が開けたのだ。『舞姫』は、国と家によって敷かれたレールに選択の判断を依拠してきた豊太郎が、その両方を失って初めて、「自由」の中から「自立(自分で選択)」を迫られた物語なのだと思う。ただ、豊太郎が結局エリスを捨てて官途を選んだのは、自分の意志(実際に、自分で選択)だったのか、家と国の力から逃れられなかった結果だったのか。ここは気になる。

    ④「初めて」自立を迫られたのだから、今回は上手く対処できなかった。豊太郎は初めての挫折を自覚し、苦々しく思い返しているのだろう。しかし、彼の葛藤を生んだのは、単に若気の至りという側面もあった気がする。座学にばかり励んできた豊太郎が、異国の地で初めて解き放たれ、可愛い女の子に恋をし、上手くやりくりできず、黒歴史を作った。真面目で不器用な一青年からは、若さと青さが滲み出ている。言わば、遅めの青春だ。豊太郎には、未来が残されているから、これからも前に進まねばならない。この回顧は、そのための一つの転機となったのだと思う。


    『舞姫』の素晴らしさ

    この短さ、登場人物の少なさ、簡潔さで、これだけの要素を伝えられるのはすごい。

    豊太郎として、濁った心情さえも脚色せずに、ありのままを客観的に捉えて描写する力があったからこそ成立した作品だと思った。(人のせいにしたくなるのも、人間の弱さであり自然な感情!それを美談にすり変えず、素直に表現したのが良いと思う。)

    【うたかたの記】
    「うたかた」とは、注釈によると、「水の泡。はかなく、消えやすいもののたとえ。」らしい。もちろん、マリイのことだろう。ビールの泡も、さりげなく「うたかた」を表しているなんてお洒落。

    森鴎外のお嬢さんが「茉莉さん」だから、マリイと聞いた時点で「おっ」と思ったけれど、関係があるかはわからなかった。

    森鴎外自身のドイツ滞在期間が短かったからなのかな、マリイとの関係もエリスとの関係(『舞姫』)も、はかなく描かれていた。日本人の古典的な感覚「無常感」と、ドイツの風景・文化の融合だと思う。

  • 削ぎ落とされた文体、本当に美しいと感じます。
    実は昭和25年発行、32年印刷版(旧仮名、旧字体)を実家の棚から見つけて読みました。直ぐに頭の中で変換できないせいかゆっくり読むこととなり、却ってじっくり味わうこととなりました。作家が書いた筈の文字で読む体験、貴重かもしれないと実感。

  • 再読と初読を含めて森鴎外を読んでみた。
    率直な感想は、鴎外をどうしても漱石と比べてしまう。漱石にはユーモアやしゃれがある。小説で垣間見せるその諧謔が魅力のひとつである。一方の鴎外は自然科学者のような思考と分析で人物から事の詳細を突き詰めて書く。どこまでも真面目で、その生真面目さが作家の背骨であり本質かもしれない。

    以下、気に入った作品をいくつか。

    「舞姫」。ドイツ留学したエリート官僚の豊太郎と劇団女優エリスとの出逢いと別れ。主人公は出世のため恋人を捨てた意志薄弱な青年と言われるが、恋人と離れるよう奔走した友人を「されど我脳裏に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」と評する最後の一文に豊太郎の強烈なエゴを感じた。
    いま読むと文語体の読み下しが難しい。古語・難語が多々あって、面倒だなぁと思いつつも調べながら読まねばならなかった。けど、出世の話にふらふらし出した豊太郎の姿に、奴はエリスを裏切るな・・、と思い、終盤に、やはりな…、と下衆な根性丸出しで、古語もほったらかしで一気に読んだ。それほど惹き込まれる。


    「かのように」。神や仏は存在するのか。問い詰めれば、それは存在しない虚構かもしれない。が、あたかも存在する"かのように”振る舞う。そうすることで心の安寧が得られ、社会秩序が保たれる。人の世に虚構(物語)がなぜ必要か。なぜ在るのか問うた思想小説で当時の鴎外の懊悩を覗いたような気分で簡潔にして素晴らしかった。


    「阿部一族」。封建秩序への反抗と救済が殉死を端に発する阿部一族の悲劇を通して描かれる。それが主題かもしれないが、鴎外のその筆致にまず目が行った。
    殉死は主君への忠義を強調しそれのみで語られる。が、鴎外は逆の面も描き出す。周囲の同調圧力や世間体によって家来を死に追い込む封建制度下の殉死。そのメカニズムと力学を淡々と綴った文章は、自然科学者が事象を観察した経過報告のようである。冷徹な眼による客観的な描写は小説とはいえどこか冷たい。


    「寒山拾得」。宗教に対して、道を求める人と、無関心の人と、分からぬがゆえに盲目的に崇拝する人の三種類が世の中にいると鴎外はいう。一見、権威に対する盲目的な尊敬が孕む滑稽と愚劣を描いたお話だが、実は宗教と信仰の本質を衝いた小話ではないか。しかし、その文章はニヒリズムが滲む。

  • 数十年ぶりの舞姫、懐かしい。内容もちゃんと覚えていた。あまりにも人の命が軽すぎると思うが、阿部一族などの歴史物も非常に興味深かった。思うのは、鷗外はこれらの史実を書いて何を言いたかったのだろう。鴎外の思想はどこにあったのだろう。まさに"これぞ美しい日本文学"だと思うが、主題が見えない。ただ単に自分の力不足か。

  • 久しぶりに読み返してみた。「鶏」の石田小介、旦那に似てる。

    鴎外は言文一致よりも古めかしい文語チックな文体のほうがつやっぽくて好き。

  • 馴染みは薄いはずの言葉なのに、
    エリスの麗しさ、エリスへの止められない気持ち、決断できない人間らしい弱さ、最後の文にこめられたどうにもならない思いの丈が、現代語以上にビシビシ伝わってくるのが不思議です。

    少ない分量に濃厚な内容もさることながら、「日本語」を再認識できる作品だと思いました。

  • 明治の文豪の小説を読むことは伝統の価値観と新たな価値観(当時は西洋文化)の狭間の中での葛藤や考察や思想に接すること。
    それは現在社会、特に3.11以降、現代人も同じ立場に置かれていると思う。

    武士の美学を学ぶのならば「堺事件」、「阿部一族」が必読。
    明らかに乃木希典の自害に影響を受けた作品で、日本人のアイデンティティでもあった「死」の意味を提起している。
    上述の新旧価値観のぶつかりから、鴎外が求めたものは日本の歴史であり、歴史小説であった。これを現代人も学ばざるを得ない。

    一番、心に残った小説は「かのように」。
    日本人とは、合理的に説明できるものではなく、文化、歴史に根着く「かのように」を土台に生きている、としている。
    解説によると、この小説は山縣有朋からの依頼により保守主義、支配階級がどうあるべきかを書いたものであるらしい。
    しかし、「父」が皇室であるとすれば、最後の友人の綾小路の「駄目、駄目」は権威主義への否定にもなり、この小説の奥深さを感じる。

    以下【引用】
    「かのうように」
    ・そうして見ると、倅の謂う、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は入っているものと見える。
    いやいや。そうではない。倅の謂うのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。

    ・そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ち、かのように、が土台に横たわっているのだね。

  • ベルリン留学中の若いエリート・太田豊太郎は、街で出合った美しい踊り子・エリスの危機を救った。やがてふたりは魅かれ合い、豊太郎は友人の中傷により免官となる。いったんは栄誉を捨て、エリスとの愛を貫こうと決意するが…

  • ガールフレンドの課題レポートを代筆するために舞姫を再読。

  • 「鶏」がお気に入り。

著者プロフィール

森鷗外(1862~1922)
小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。本名は森林太郎。明治中期から大正期にかけて活躍し、近代日本文学において、夏目漱石とともに双璧を成す。代表作は『舞姫』『雁』『阿部一族』など。『高瀬舟』は今も教科書で親しまれている後期の傑作で、そのテーマ性は現在に通じている。『最後の一句』『山椒大夫』も歴史に取材しながら、近代小説の相貌を持つ。

「2022年 『大活字本 高瀬舟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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